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11月26日はガイウス・ユリウス・カサエルの日(架空記念日ブログ)

おはようございます。本日は令和5年11月26日(日)です。

87年前の1936年11月26日に日本ペンクラブが発足しました。日本ペンクラブは国際ペンクラブの下部組織として現在は一般社団法人日本ペンクラブとして現存している、日本の文筆家で構成された法人です。初代会長は『若菜集』を執筆した詩人であり小説家の島崎藤村。現在は18代目会長小説家の桐野夏生

島崎藤村(1872-1943)
詩人

101年前の1922年11月26日はアメリカ合衆国の漫画家チャールズ・モンロー・シュルツの誕生日です。シュルツの代表作は1950年10月2日からシュルツが亡くなるまでの約半世紀に渡って連載された『ピーナッツ』、作中に出てくる犬スヌーピーが特に有名となりました。

チャールズ・モンロー・シュルツ(1922-2000)
漫画家

今日の架空記念日は?


2066年前の今日

紀元前43年11月26日に古代ローマにて第二回三頭政治が始まりました。三頭政治とは3人の実力者による寡頭政治体制の事です。この第二回は公式にトリウムウィリ・レイ・プブリカエ・コンスティトゥエンダエ・コンスラリ・ポテスタテ(国家三人再建委員会)という名で始まりました。ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌス(アウグストゥス)、マルクス・アントニウス、マルクス・アエミリウス・レピドゥスの3人。3人ともカエサル派との事でカエサルは第一回に三頭政治を行った1人、今日ご紹介するガイウス・ユリウス・カエサル。アウグストゥスの叔父に当たります。 

ガイウス・ユリウス・カエサル(BC100-BC44)
ニコラ・クストゥ(1658-1733)作
ルーブル美術館所蔵

三頭政治の第二回というのは後世の人が付けたのですが、二回と言うだけあって非公式の第一回がありました。第一回三頭政治はガイウス・ユリウス・カエサル、グナエウス・ポンペイウス、マルクス・リキニウス・クラッススの3人、民主に人気のカエサル、軍事力のあるポンペウス、経済力があるクラッススとそれぞれ得意分野が違いお互いに補い合いながら協力しました。

このカエサルが言った言葉でとても有名なものがあります。「賽は投げられた」「来た、見た、勝った」「ブルータスお前もか」など、2000年経っても生涯のほとんどが伝記として残っている人物はどんなじんせいだったのでしょうか?

生誕


ガイウス・ユリウス・カエサルの生誕年として以下の2つの説がある。

①スエトニウス『皇帝伝』の記述に沿った紀元前100年
②カエサルが就任資格が40歳以上のプラエトル(法務官)に就任した紀元前62年から、その時の歳を40歳として逆算した紀元前102年

父は同名のガイウス・ユリウス・カエサルで、ガイウス・マリウスは父ガイウスの義弟に当たる。父ガイウスはプラエトルを務めた後、アシア属州の属州総督を務めた。

ガイウス・ユリウス・カエサル(父)(BC130−BC85)
ガイウス・マリウス(BC157-BC86)
『マリウスの凱旋式』(1729年)
ジョバンニ・バッティスタ・ティエポロ(1696-1770)作画
メトロポリタン美術館所蔵

母はルキウス・アウレリウス・コッタ(出生不明)の娘アウレリア・コッタで、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身であった。また、カエサルには幼少の頃から家庭教師としてマルクス・アントニウス・グニポが付けられたが、グニポはガリア系の人物であった。

アウレリア・コッタ(BC120-BC54)
ガイウス・ユリウス・カエサル(父)の妻

青年期

幼少期は不明。

青年期はローマ国内は政治的に不安定で、ユグルタ戦争(BC111- BC105)キンブリ・テウトニ戦争(BC113-BC101)の英雄ガイウス・マリウスと、そのライバルであったルキウス・コルネリウス・スッラが対立していた。カエサルは叔母ユリア(ユリウス氏族の女性形)がマリウスに嫁いでいたことからマリウス派であった。

紀元前91年 同盟市戦争では、同盟国がローマ市民権を求めて蜂起し、ルキウス・カエサルユリウス法を提案し、イタリア半島ポー川以南の全自由民に市民権を与えることで決着したが、彼らをどのトリブス(選挙区)に登録するかで揉め、一部の抵抗も続いていた。

ルキウス・コルネリウス・スッラ(BC138-BC78)
共和政ローマ後期の政務官

スッラ時代

紀元前88年 ポントス王国ミトリダテス6世とのミトリダテス戦争が起り、執政官であるスッラインペリウム(王政ローマの軍事的最高権力者の称号)を得て指揮を執ることになった。

ミトリダテス6世(BC120-BC63)
ポントス王
ルーブル美術館所蔵

しかしガイウス・マリウスミトリダテス討伐のインペリウムを付与する法案が提出され、市内では騒乱が起り、ローマを脱出したスッラは同僚執政官と共に軍を率いてローマへ侵攻。老年のマリウスローマから逃げのびたが、「国家の敵」宣言を受ける。

そしてスッラルキウス・コルネリウス・キンナに後事を託して再び遠征に出かけると、今度は同僚執政官に追放されたキンナマリウスを呼び戻し再びローマを制圧スッラを「国家の敵」と弾劾してスッラ派を粛清した。ルキウス・カエサルも、マルクス・アントニウス・オラトルらと共に殺され、ロストラ(ローマ市内の演壇・集会所)に晒された。

ルキウス・コルネリウス・キンナ(BC132-BC84)
スッラが不在中にローマを制圧

紀元前86年 マリウス死去
紀元前84年 キンナ死去。キンナは死去するまでローマを支配した。
同年 カエサルの父死去
翌紀元前83年 カエサルはユピテル神官に選出される。しかし、この職務はパトリキ(古代ローマの支配階級、貴族)のみに開放されており、パトリキと結婚する必要があったので、婚約していたエクティス(騎士階級)の娘コッスティアと別れ、コルネリウス氏族であるキンナの娘コルネリア・キンナエと結婚した。

※ユピテル神官はローマを離れることが出来ず、戦争に関わるタブーが多かったため、実際には就任していないと考えられる。

その頃、第一次ミトリダテス戦争に勝利したスッラ再びローマへ進軍し、マリウス・キンナ派の抵抗を受けたがローマ市を制圧。反対派をプロスクリプティオに基づいて徹底的に粛清し、紀元前82年には従来、任期が半年に限定されていた独裁官の任期を事実上無制限とした「法制秩序再生独裁官」に就任した。

このスッラの帰還に合わせ、マルクス・リキニウス・クラッススグエナウス・ポンペイウスクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス(BC130-BC63)が挙兵している。

マルクス・リキニウス・クラッスス(BC115-BC53)
共和政ローマ時代の政務官
後に第一次三頭政治を行った1人
グエナウス・ポンペイウス(BC106-BC48)
共和政ローマ後期の政務官
後に第一次三頭政治を行った1人

スッラは血縁としてマリウスに近く、キンナの婿であるカエサルも民衆派とみなし殺そうとした。しかしこの時ルキウス・アウレリウス・コッタ(ガイウス・アウレリウス・コッタ説もあり)、マメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス(BC121-BC61)、ウェスタの処女らに助命嘆願され、スッラもこれにしぶしぶ同意する。

ウェスタの処女
女神ウェスタに仕えた巫女の事

スッラ「いいだろう。許そう。だが忘れるな。いつかあの若者が我々貴族を滅ぼすぞ。彼の中には多くのマリウスがいるのだ」

『ローマ皇帝伝』

紀元前81年 カエサルはアシア属州を担当していたプラエトル(政務官)マルクス・ミヌキウス・テルムスのもとに派遣され、ビテュニア王ニコメデス4世のもとに艦隊調達の交渉に向かい長期間滞在する。この頃ローマでは、コルネリウス法を制定し改革を一通り終えたスッラが紀元前80年に独裁官を辞任した。

カエサル「自分から独裁官を辞めるようなおめでたい奴をスッラと呼ぶのさ」

ローマ皇帝伝

ミトリダテス戦争

※ミトリダテス戦争編別枠で制作中

スッラ死後

紀元前78年 スッラが死去したことでカエサルはローマへ帰還した。帰還したタイミングでスッラが定めた護民官権限削減の復活や穀物法の撤回、没収された資産の返却などを訴え挙兵したマルクス・アエミリウス・レピドゥスはカエサルに参加を呼び掛けたが、カエサルはこれを断った。

紀元前77年 当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいた。カエサルは執政官経験者のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラをこの罪で訴追したが失敗する。

紀元前75年 ドラベッラの復讐を恐れたカエサルはロドス島へ赴き、マルクス・トゥッリウス・キケロの師で修辞学の権威として著名であったアポロニウス・モロンに師事した。

マルクス・トゥッリウス・キケロ(BC106-BC43)
共和政ローマ後期の政治家、弁護士、文筆家、哲学者
雄弁家として有名

紀元前73年ガイウス・アウレリウス・コッタが死去した後継として神祇官に就任

クルスス・ホノルム

紀元前72年 紀元前80年に始まったクィントゥス・セルトリウスによるセルトリウス戦争を鎮圧。

『クィントゥス・セルトリウスと馬の尾』(1638年)
ジェラルド・ファン・デル・クイル(1604-1673)作
ゴーカムズ博物館所蔵

紀元前71年 紀元前73年に始まったスパルタクスによる第三次奴隷戦争を鎮圧。

スパルタクス
共和政ローマ期の剣闘士
『スパルタクス像』(1830年)
ドニ・フォヤティエ(1793-1863)作
ルーブル美術館所蔵

この2つの内乱でグナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッススがこれらの戦争で活躍していた。彼ら二人は紀元前70年に執政官を務めている。

同年 カエサルは軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム)に就任、クルスス・ホノルム(出世コース)を歩み始めた。この時期のカエサルは妻の兄弟のキンナと手を組み、市民集会(コンティオ)で演説を行うなど、スッラの粛清から逃げていた人々の帰還事業を支援していた。

クァエストル

紀元前69年クァエストル(財務官)に選出された。 同年 妻のコルネリアが死去したため、カエサルはクィントゥス・ポンペイウス・ルフスとスッラの孫であるポンペイアと結婚した。

ポンペイア


財務官として、カエサルはヒスパニア・ウルテリオルプロプラエトル(法務官)ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥスの下で働く。
ここでアレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスは今の私と同じ年の頃には世界を手に入れた。自分は何もなしえていない」と落胆し、カエサルは任期を早めに切り上げ、ローマに戻った。

アレクサンドロス3世(BC336-BC323)
マケドニアの王(バシレウス)、エジプトの王(ファラオ)
ヘラクレスとアキレスを祖先に持つ
アメリカの映画『アレキサンダー大王』で日本でも有名

アエディリス・クルリス(上級按察官)

紀元前65年アエディリス・クルリスに就任した。同僚のマルクス・カルプルニウス・ビブルスと公共事業や競技会などを行ったが、まるでカエサルだけが負担したかのように賞賛されたという。こうして民衆の支持を得ると、カエサルは護民官を抱き込んでプレブス民会で古代エジプトが任地となるよう決議させようとした。しかし貴族たちの反対にあい、それに反発したカエサルは公然と叔父であるマリウスの戦勝碑の修復に着手し、スッラのプロスクリプティオに基づく没収財産で財を成した者の告発を行った。

ポンティフェクス・マクシムス(最高神祇官)

紀元前63年 前任のクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウスの死去に伴い、ポンディフェクス・マクシムスに立候補する。対抗馬は執政官経験者のクィントゥス・カトゥルスプブリウス・イサウリクスの2人。結果はカエサルの当選、公邸(レギア)に住む身となった。

カティリナ事件

※カティリナ事件編別枠で制作中

第一回三頭政治

三頭政治とは3人の実力者による寡頭政治のこと、この共和政ローマの末期に行われた、非公式ながらも第一回として後世に伝えられている。

三頭政治を行ったのは以下の3人
魅力ガイウス・ユリウス・カエサル
武力グナエウス・ポンペイウス
財力
マルクス・リキニウス・クラッスス

紀元前61年 カエサルは、ヒスパニア・ウルステリオル属州総督として赴任した。カエサルはヒスパニアへ向かう道中に立ち寄った寒村で、部下に対して「ローマ人の間で第2位を占めるよりも、この寒村で第1人者になりたいものだ」と語ったという。 カエサルは属州総督としてローマ軍を率いてルシタニ族やガッラエキ族を討伐し、ローマへ服属していなかった部族も従えた。カエサルはこの属州総督時代に大金を得た。

紀元前60年コンスル(執政官)をめざすカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと結び執政官に当選する。ただこの時点で、すでに功なり名を成したポンペイウスに対しカエサルはたいした実績もなく、ポンペイウスと並立しうるほどの実力はなかった。そこでポンペイウスより年長で、騎士階級を代表しスッラ派の重鎮でもあるクラッススを引きいれてバランスを取った。

ここに第一回三頭政治が結成された。

民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成した。

執政官在任中にまず、元老院での議事録を即日市民に公開する事を定めた。それまでは議員から話を聞く以外には内容が知られることはなかっただけに、議員たちはうかつな言動は出来なくなった。また、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させる。当初、元老院はこの法案に激しく反対したが、カエサルは職権で平民集会を招集、巧妙な議事運営で法案を成立させるとともに、全元老院議員に農地法の尊重を誓約させることに成功した。

ガリア戦争

※ガリア戦争編別枠で制作中

ローマ内戦

※ローマ内戦編別枠で制作中

ファラオ(エジプトの王)

『Cesare rimette Cleopatra sul trono d'Egitto
(クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル)』(1637年)
ピエトロ・ダ・コルトーナ(1596-1669)作

グナエウス・ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってアレクサンドリアに上陸した。エジプトでは、先代のプトレマイオス12世の子であるクレオパトラ7世プトレマイオス13世の姉弟が争っており、両者の仲介を模索したものの、プトレマイオス13世派から攻撃を受けた為、クレオパトラ7世の側に立って政争に介入し、ナイルの戦いで、カエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス13世派を打ち破った。この戦いで敗死したプトレマイオス13世に代わって、プトレマイオス14世クレオパトラ7世と共同でファラオの地位に就いた。

「来た、見た、勝った」

エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラ7世とエジプトで過ごしたが、小アジアに派遣していたグナエウス・ドミティウス・カルウィヌスがポントス王ファルナケス2世に敗北したという報せが届いた。

紀元前47年6月 カエサルはエジプトを発ち、途中でポンペイウスの勢力下だったシュリアキリキアを抑えつつ進軍、8月2日ゼラの戦いファルナケス2世を破った。この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」との言葉があった。その後ローマに短期間滞在、その際1年間の独裁官に任命された。

紀元前46年4月 ポンペイウス死後もヌミディア王ユバ1世と組んで北アフリカを支配していたクィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカなど元老院派をタプススの戦いで破り、更にウティカを攻撃してカトを自害に追い込んだ。

紀元前46年夏 ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。カエサルクレオパトラ7世をローマに招いており、クレオパトラ7世はカエサルとの間の息子とされるカエサリオンを伴っていた。

紀元前45年3月 ヒスパニアへ逃れていたラビエヌスポンペイウスの遺児小ポンペイウス・セクストゥス兄弟らとのムンダの戦いに勝利して一連のローマ内戦を終結させた。

終身独裁官就任

元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手する。属州民に議席を与えて、定員を600名から900名へと増員したことで元老院の機能・権威を低下させ、機能不全に陥っていた民会、護民官を単なる追認機関とすることで有名無実化した。

紀元前44年2月 それに伴い終身独裁官に就任し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは元首政(プリンキパトゥス)として後継者のオクタウィアヌス(後のアウグストゥス)に引き継がれ、帝政ローマ誕生の礎ともなる。

紀元前44年2月15日 ルペルカリア祭の際にアントニウスカエサルへ王の証ともいえる月桂樹を奉じたものの、ローマ市民からの拍手はまばらで、逆にカエサル月桂樹を押し戻した際には大変な拍手であった。数度繰り返した所、全く同じ反応であり、カエサルカピトル神殿へ月桂樹を捧げるように指示したという。

共和主義者はこの行動をカエサルが君主政を志向した表れと判断した。また、カエサルは「共和政ローマは身も形もなく、名のみの夢幻の如くなり」「注意せよ、我が言はすなわち法なり」などと発言したとされる。これら伝えられるカエサルの振る舞いや言動、そして終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱いた。

カエサル暗殺

※カエサル暗殺編別枠で制作中

今日のさわだくん

111日チャレンジ49日目

GO!!!/FLOW

2004年4月28日リリース、FLOWメジャー4枚目のシングル曲です。テレビ東京系アニメ『NARUTO』第4期オープニングテーマ78話「爆発!これぞナルト忍法帖〜〜っ!!」(2004年4月7日放送)〜103話「ナルト撃沈!?陰謀うずまく大海原(2004年9月29日放送)

あとがき

今現在12月11日もう追いつけないかもと思いながら書いております。今回のガイウス・ユリウス・カエサル、正直言ってこの辺りの歴史をよく知らない私は軽い気持ちで「ブルータスお前もか」この部分の話を書きたくて三頭政治から入り込んだのですが、こんなにも長編のお話だとは夢にも思いませんでした。書いてて思ったのは同時期の三国志くらいの量だなと、日付を跨いでも空いた時間にコツコツ書いてきましたが、それぞれのイベントで話がさらに膨らむことに気づいたので、番外編として①ミトリダステ戦争②カリティナ事件③ガリア戦争④ローマ内戦⑤カエサル暗殺を別の枠で書くことにしました、そうなんです「ブルータスお前もか」は番外編⑤カエサル暗殺で書くことになります。ローマ戦記などの話はめちゃくちゃ面白かったんだけど、カエサルがあんまり好きになれなかったのがとても不思議、どっちかというとキケロファン。

そんな感じで10日くらい右往左往してしましました。さわだくんすまぬ。

パトラッシュ・・・ちょっと疲れたよ