11月21日はモンゴルフィエ兄弟の日(架空記念日ブログ)
おはようございます。本日は令和5年11月21日(火)です。今日は明けですので、帰ってゆっくりしたいと思います。
野球界の人の動きはこれと言って動き無し。後は中田の動向が気になるくらいですかね。契約更改では、初日本代表でタイムリーを打った石橋康太捕手が300万円増1250万円、来年は去年加入の宇佐美捕手との第2捕手争いですが、いずれは正捕手ですから順調にステップを踏んでいるのでは無いでしょうか?龍空内野手は550万円増の1900万円、今年のドラフトで上位で2人、2年連続で内野手を獲得してますので、来年こそ正念場。ただ年齢的にはまだ20歳で新加入の人たちより年下ですので、不貞腐れず頑張っていれば出番は無くとも守備の天才だけに、いつか陽の目は見れるとは思いますけど、この人は何よりメンタルが心配です。根尾昂投手は250万円減の1600万円、この人に関しては何も心配していません。来年もうやってくれるんじゃ無いかと期待しかないです。先発ピッチャーなので運ですが、バンドで見たいですね。高橋宏斗投手は2800万増の6300万円、高卒3年目にしてもう億が見えてきましたね。成績的には7勝11敗ですが、防御率は2.57。打線がもう少し打っていれば最多勝なんかも見えていたのでは無いでしょうか?順当だと思います。
118年前の1905年11月21日にアルベルト・アインシュタインが特殊相対性理論の第2論文を発表しました。
今日の架空記念日は?
240年前の今日
1783年11月21日フランスパリでモンゴルフィエ兄弟による熱気球の有人飛行に成功しました。乗船したのは貴族のピラトール・ド・ロジエとフランソワ・ダルランドのお二人。今日はこの兄弟についてご紹介したいと思います。
モンゴルフィエ兄弟という人
モンゴルフィエ兄弟は兄ジョセフ=ミシェル・モンゴルフィエ(1740年8月26日-1810年6月26日)と弟ジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ(1745年1月6日-1799年8月2日)の2人で熱気球を発明し、世界で初の有人飛行を行ったフランスの兄弟。その功績で父ピエール・モンゴルフィエがルイ16世より貴族に叙任され「ド・モンゴルフィエ」を名乗るようになった。
兄弟はフランス王国アルデシュ県アノネーで製紙業者の息子に生まれた。父ピエール・モンゴルフィエ(1700-1793)と母アンヌ・ディレ(1701-1760)は16人の子供をもうけた。ピエールは長男のレーモン(1730-1772)を後継者とした。
ジョセフは12番目の子で典型的な発明家気質を備えた夢みがちな変わり者で、経営には向かなかった。ジャックは15番目の子で普通で実務的な性格だったが、兄たちとの喧嘩が絶えなかった為、建築家にする為、パリに修行に出された。しかし、1772年に兄のレーモンが亡くなると、後継者としてアノネーに戻った。その後10年間、ジャックは製紙業に様々な技術革新を導入する才能を発揮した。フランス政府もその功績を認め、ジャックの製紙工場をフランス製紙業界のモデルとした。
熱気球を思い付く
ジョセフは1777年頃までに洗濯を乾かすために火を焚いた時に、焚き火を眺めながらその上の洗濯物が上昇する気流で畝ってポケットのような形になる事に気づき、熱気球を思い付いた。
ジョセフはその発想に至った理由を後日語っている。当時最大の軍事問題だったジブラルタル要塞の攻略法を考えていた(ジブラルタル包囲戦)。その要塞は洋上からも陸上からも難攻不落だった。焚き火から燃えカスが舞い上がるのを見て、ジョゼフは軍団を同じように空中に浮かび上がらせることができるのではないかと考えた。当時、暖められた空気が上昇する事はわかっていなくて、焚き火で燃えカスが舞い上がるのを見て、物を燃やした煙の中に上昇させる成分が入っていて、ジョセフはそれを「モンゴルフィエのガス」と名付けた。
最初の実験
1782年11月アヴィニョンに住んでいたジョセフは最初の実験を行った。ジョゼフは細い木材で1m×1m×1.3mの大きさの枠を作り、側面と上面を軽いタフタ生地で覆い、箱のように形成した。何枚かの紙を丸めてその下に置き、点火するとすぐさまその仕掛けが浮き上がり、天井にぶつかった。
もっと大きな仕掛けを作るため、ジョゼフは兄弟たちに「タフタと綱をすぐに持ってきてくれ。そうしたら世界で最も驚異的な風景を見られるぞ」と手紙を送った。
1782年12月14日に手紙に従ったジャックと共に最初の実験の3倍の大きさ3m×3m×3.9mの枠を作り、点火すると想像以上に上昇し、繋いでいた綱が足りなくなり制御を失った。その仕掛けは二キロ先で落下し、お化けが落ちてきたと、村人たちの間で大騒ぎになり破壊された。
公開実験
兄弟は自分たちの発明だと証明するために公開実験を行う事にした。
1783年6月4日に役人を招待した上でアノネーにて最初の公開飛行を行った。リンネルの内側を薄い紙3枚で補強した球形の気球を作った。内容量は790㎥弱で、総重量は225kgである。補強のため漁網で外側を覆った。袋は推定1600-2000mまで上昇し、2kmの距離を約10分に渡って滞空した。その成功はすぐさまパリに伝えられた。
パリへ
ジャックはさらなる公開実験を行うためパリに向かった。ジョセフは人見知りだった為アノネーに残り、ジャックだけでパリに向かった。
ジャックは壁紙業者ジャン=バティスト・レヴェイヨンとジャックと共同で、タフタ生地に耐火性を持たせるためにミョウバンを含むニスを塗った1,060㎥容量の気球を作った。気球は空色で、金色の模様(花模様、黄道十二星座の印、太陽)があしらわれていた。このデザインはレヴェイヨンが装飾している。
1783年9月11日、レヴェイヨンの屋敷に近い広場でアノネーと同じ飛行実験が行われ同様の成果があった。
動物実験
1783年9月19日公開実験はヴェルサイユ宮殿で大勢詰め掛けた群衆とフランス王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの眼前で行われた。
前回の実験後に上空の大気が生物に与える影響についての懸念が生じた。そこでルイ16世は実験台として2人の死刑囚を乗せてはどうかと提案してきたが、モンゴルフィエ兄弟はまずヒツジとアヒルとニワトリを乗せることを決めた。
動物たちが生きていれば、上空でも酸素がなくならないと分かるからである(人間が空を飛ぶのは不遜ではないかという聖職者の意見があったので、神罰が下らないことを証明するためだったとも言われる)。
「レヴェイヨン気球」と名付けられた気球にはそれらの生物を入れた籠が吊り下げられた。気球は約8分間滞空し、3kmほど移動。高度はおよそ460mに達した。その後、墜落することなく着陸した。
有人飛行
ヴェルサイユ宮殿での成功を受け、有人飛行用の1,700㎥の気球製作にとりかかった。この気球は高さ約75ft(約23m)直径約50ft(約15m)だった。表面には再びレヴェイヨンが様々な装飾を施した。配色は深い青を背景として、金色の装飾が施されている。フルール・ド・リス、黄道十二宮の印、ルイ16世の顔が描かれた太陽などで荘厳に装飾されている。その下に赤い垂れ幕があり、最下部にイヌワシが描かれている。
1783年10月15日レヴェイヨンの工場の地所から綱で係留した状態で試験飛行が行われ、ジャックが史上初の気球に乗った人物になった。同日、教師のピラートル・ド・ロジェが2人目として搭乗。ただし係留した状態だったので、高度はせいぜい24mだった。
1782年11月21日に係留していない熱気球による史上初の有人飛行が行われた。ピラートル・ド・ロジェとフランソワ・ダルランド侯爵の2人が搭乗。パリの西にあるブローニュの森に近いシャトー・ド・ラ・ミュエットの庭から発進し、2人を乗せた気球は910mほどまで上昇し、パリ上空の9kmの距離を25分間にわたって飛行した。
気球はパリを囲んでいた壁を越えてビュット=オー=カイユの丘の風車と風車の間に着陸した。着陸した時点でも燃料は十分あったが、火の粉が飛んで気球表面を焦がしており、気球が燃えることを心配したピラートルがコートで火を消したのだった。
その後
1784年リヨンの行政官ジャック・ド・フレッセル(後にパリ市長となり、フランス革命の犠牲となった)の支援で作られた「フレッセル気球」が着陸に失敗し、世界で初めて航空事故で負傷者を出した。
1785年6月には「ギュスターヴ」と名付けられた気球に初の女性エリザベート・ティブルが搭乗した。
スタジオジブリ週間7日目
111日チャレンジ44日目
もののけ姫/米良美一
映画『もののけ姫』は1997年7月12日公開。スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。監督、脚本、原作宮崎駿、音楽担当久石譲、キャッチコピーは「生きろ。」主題歌は米良美一『もののけ姫』
主題歌『もののけ姫』は1997年6月25日リリース。カウンターテナーの米良美一で話題になった。
あとがき
書きたい事が多すぎて2日に分けました。もう少し時間があったら偉人と野球と料理と分けたい思いますが、今は出来る限りここに書いて頭を整理してます。
今日はモンゴルフィエ兄弟を軽めに書いて、熱気球周辺の色々な人を紹介しようと思いましたが、モンゴルフィエ兄弟だけでボリュームがあり過ぎました。科学者とか発明者を書く時に実験は付きものなのですが、それの詳細を書くと本当にキリが無いんですよね。専門用語も山のように出てくるし。
書きたい事の大枠は「誰それ?すごいじゃん」ですので、そこが伝わらないかなと思った時は書くようにしてます。
最後に気球と言えばこの歌を聴いて下さい。
それではまた。