見出し画像

11月2日は正力松太郎の日(架空記念日ブログ)

おはようございます。本日は令和5年11月2日(木)です。今から149年前の1874年11月2日は読売新聞が創刊しました。私は大の中日ファンで新聞ももちろん中日新聞と中日スポーツなのですが、今日はそんな小さな事には拘らず、新聞界の巨人・正力松太郎をご紹介します。本日もよろしくお願いします。


読売新聞創刊

当時の会社名は合名会社「日就社」社長は子安峻、元々は日本初の日刊紙となる横浜毎日新聞(今の毎日新聞とは関係ない)の記者でした。1874年11月2日創刊、当時は表裏2ページで1日おきの隔日刊紙でした。1875年から日刊に変更。発行部数は17,000部。1897年1月1日から尾崎紅葉作「金色夜叉」の連載開始。1906年2月に「運動界」(スポーツ面)を新設。1914年4月3日「よみうり婦人附録」(くらし面)新設。与謝野晶子が詩や評論を執筆する。

与謝野晶子(1878ー1942)

関東大震災勃発

1917年12月1日商号を「日就社」から「読売新聞社」に変更。1920年には発行部数を伸ばし13万部まで行った頃、1923年9月1日に起こった関東大震災で社屋が炎上したちまち経営難に陥ります。13万部が5万部まで激減。1924年2月25日にその読売新聞を買収したのが当時39歳の正力松太郎という人でした。

関東大震災直後の横浜市中区

読売中興の祖

正力松太郎は1885年4月11日富山県射水市生まれ。東京帝国大学法科大学を卒業後、内務省内閣統計局に入省。1913年6月警視庁入庁。警視庁警務部長だった、1923年12月27日に虎ノ門事件(後の昭和天皇、当時の皇太子が狙撃された暗殺未遂事件)が発生し、警視総監・湯浅倉平と共に引責辞職する。翌年の1924年2月に当時内務大臣だった後藤新平の助力のもと、経営難だった読売新聞社を買い取り、第7代社長に就任する。読売新聞社を巨大企業な押し上げたことから読売中興の祖とも言われています。

正力松太郎(1885ー1969)

プロ野球の父

1934年にベーブ・ルース率いる大リーグ選抜チームを招聘する。日本で17試合行い、観客動員数が65,000入った日もあった。当時の日本にはアマチュアしかなかった為、日本でも全日本チームを結成。1936年に、この全日本チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアン)を創設し、第一回職業野球日本リーグに参加した。

ジョージ・ハーマン・"ベーブ"・ルース・ジュニア(1895ー1948)

テレビ放送の父

1952年10月に日本テレビ放送網を設立。初代社長に就任。1953年8月28日11:20放送開始、第一声は「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます。」当時はテレビが無い家庭がない為、街頭テレビを設置して、テレビ普及に努めた。プロ野球中継やプロレス中継がうまくはまって、営業成績は好調だった。

国際プロレスリング大会での力道山戦の放送に群がる市民

原子力の父

1955年より読売新聞のトップ記事で「平和の為の原子力」(1953年にアメリカのアイゼンハワー大統領が国連総会で提唱した、核の平和利用を唱える説)を大々的に紹介。テレビ放送やイベントなど半年間に渡って展開。1955年に原子力基本法が成立。1956年1月原子力委員会の初代委員長に就任する。1月4日に日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。それを受け、原子力委員だった湯川英樹(理学博士)は抗議の為、辞任している。同年5月に初代科学技術庁長官に就任。1963年10月26日茨城県那珂郡東海村の動力試験炉で日本最初の原子力発電が行われる(原子力の日)その後1960年1月に東海発電所を着工、1965年5月4日に臨海に到達。日本初の商業用原子炉となった。

湯川秀樹(1907ー1981)

まとめ

時には横暴で表と裏の顔を使い分けた黒幕的な人というイメージですが、日本の高度成長期の核となったと言っても過言ではないお方だと思います。プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とこんなのを並べられる人ってこの人しかいませんよね。すごい人です。

今日のさわだくん

111日チャレンジ25曲目

ハロウィンナイト/AKB48

2015年8月26日リリース、AKB48の41枚目のシングル曲。この楽曲は同年6月6日開票の『AKB48 41stシングル 選抜総選挙 〜順位予想不可能、大荒れの一夜〜』の1位から16位までで編成され、センターは1位だった指原莉乃が勤めている。

あとがき

さて今朝は夜勤明けで帰って仮眠、今から夜勤入りなので今日も名古屋駅に向かう途中でこれを書いています。何を書くかは前日の夜までには決めてるのですが、今日は1868年11月2日が誕生日だった横山大観と1870年11月2日に今の三菱財閥の元となる土佐開成社の創業で岩崎弥太郎ぐらいと迷った末に正力松太郎さんにしました。描き始めて大きめの題材に手を出してしまったと後悔しました。それではまた明日。