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11月22日はモーリス・ラヴェルの日(架空記念日ブログ)

こんにちは、本日は令和5年11月22日(水)です。ただいま13時35分、今日は夜勤入りですので日付が変わる前までに書けたらなと思います。

今日はいい夫婦の日ですね。いい夫婦の日は1988年に財団法人余暇開発センター(現財団法人日本生産性本部)が提唱し、1998年「いい夫婦の日」をすすめる会を設立。2000年から一般の人からの投票で「いい夫婦 パートナー・オブ・ザ・イヤー」を選出している。

2023年アジアウインターベースボールリーグが11月25日から12月17日まで全56試合が台湾で行われます。中日の選手はNPBホワイトとして巨人、横浜、楽天、西武との混合チームで戦うみたいですね。中日から参加するのは鵜飼航丞外野手石橋康太捕手村松開人内野手浜将乃介外野手仲地礼亜投手上田洸太朗投手、育成の松木平優太投手森越祐人2軍内野守備走塁コーチです。参加チームはNPBホワイトNPBレッド(阪神、ヤクルト、ロッテ、ソフトバンク)、チャイニーズタイペイ日本社会人チーム台鋼ホークス中国リーグ選抜の6チーム。広島と日本ハムは参加しないんですね、また結果など分かり次第追ってきたいと思います。

526年前の1497年11月22日に航海者ヴァスコ・ダ・ガマ第一次航海喜望峰(アフリカ大陸の南端)に到達。

ヴァスコ・ダ・ガマ(1460頃-1524)
第一次航海の喜望峰以降の航路

今日の架空記念日は?


95年前の今日

1928年11月22日にモーリス・ラヴェル作曲したオペラがパリ・オペラ座で初演しました。今日はオペラの巨匠のこの人です。

ジョセフ・モーリス・ラヴェル(1875-1937)

モーリス・ラヴェルという人

1875年3月にフランス南西部、スペインにほど近いフランス領バスク地方のシブールで生まれる。父ジョゼフ(1832-1908)はスイス出身の発明家兼実業家、母マリー(1840-1917)はバスク人だった。同年6月に家族がパリへ移住したあと、弟エドゥアール(1878-1960)が生まれた。

父親が音楽好きで幼少のころからピアノや作曲を学び、ラヴェルが音楽の道へ進むことを激励した。

やがて両親はパリ音楽院へ送り出した。音楽院に在籍した14年のあいだ、ガブリエル・フォーレエミール・ペサールらのもとで学んだラヴェルは、当時のパリの国際的で実験的な空気を背景に、若く革新的な芸術家と行動を共にし、強い影響と薫陶を受ける。

ガブリエル・ユルバン・フォーレ(1845-1924)
エミール・ルイ・フォルトゥネ・ペサール(1843-1917)

デビュー

1898年3月5日国民音楽協会第266回演奏会から公式デビューを果たし、作曲家として認められた。作品が議論の対象となる一方で、自身が「解放者」と目指すエマニュエル・シャブリエエリック・サティへの賞賛は伝統を重んじるサークル内で反目を買った。

エマニュエル・シャブリエ(1841-1894)
エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(1866-1925)

才能爆発

1901年ラヴェルの個性とも言うべき『水の戯れ』(Jeux d’eau)が書かれた。曲は当時の流行から自立したものになった。表現的慎ましさ、謙虚さ、エキゾチックでファンタジックな好み、形式的な完璧さに対するほとんど強迫観念とも言える探求により1901年から1908年の間に多くの作品が生みだされた

1903年『ソナチネ』(Sonatine)
1906年『序奏とアレグロ』
(Introducción et allegro )
1907年『スペイン狂詩曲』
(Rapsodie espagnole)
1908年組曲『マ・メール・ロワ』
(Ma Mère l'Oye)
1908年『夜のガスパール』
(Gaspard de la Nuit)
※ 『夜のガスパール』は詩人アロイジウス・ベルトランの詩集『ガスパール・ド・ラ・ニュイ』の詩3つをピアノ組曲にアレンジして書かれた。

ラヴェル事件

1900年から5回にわたって、有名なローマ賞(ルイ16世が制定した芸術を目指す学生が留学する権利と奨学金が貰える賞)に挑戦する。
1901年は2回目の挑戦ではカンタータ『ミルラ』3位に入賞。
1902年、1903年は本選において入賞を逃す
1904年エントリーを見送った
1905年は年齢制限(30歳以下)によりラヴェルにとって最後の挑戦となったが、予選落ちしてしまった。

すでに『亡き王女のためのパヴァーヌ』『水の戯れ』などの作品を発表していたラヴェルが予選落ちしたことは大スキャンダルとなり、この「ラヴェル事件」により、パリ音楽院院長のテオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、後任院長となったガブリエル・フォーレがパリ音楽院のカリキュラム改革に乗り出す結果となった。

フランソワ=クレマン・テオドール・デュボワ(1837-1924)

盗作騒動

1907年歌曲集『博物誌』の初演後、エドゥアール・ラロの息子ピエール・ラロはこの作品をクロードドビュッシーの盗作として非難し論争が起こった。しかし『スペイン狂詩曲』が高い評価で受け入れられると批判はおさまった。そしてラヴェルは、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の主宰者セルゲイ・ディアギレフからの委嘱により『ダフニスとクロエ』を作曲した。

クロード・ドビュッシー(1862-1918)

世界進出

1909年4月にロンドンで初めての海外ツアーに参加し、自身がドーバー海峡の向こうで高く評価されていることを知る。
1910年に保守的な「国民音楽協会」と決別シャルル・ケックランらと現代的な音楽を促進、新しい音楽の創造を目指す団体「独立音楽協会」を旗揚げし、創立者のひとりとして名を連ねた。
1911年に詩人フラン=ノアンによって台本の書かれたオペラ『スペインの時』(L'Heure espagnole)の初演が催されたが、大衆や批評家から「ポルノ」呼ばわりされ不評に終る。当時は台本のユーモアも、ラヴェルの大胆なオーケストラもほとんど理解されなかった。

第一次世界大戦勃発

1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものであり、当時の前線ヴェルダン付近まで到達した。(本当はパイロットとして志願したが、体重が規定に2kg満たなかったことからその希望は叶わなかった。)

1917年1月15日最愛の母親が76歳で死去した。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓』を同年11月に完成させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せなかった。
1920年『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは極端に落ちてしまった。

1919年12月17日に母の死から3年経とうとしたラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている。

私は以前、カルノー大通りのすてきなアパルトマンで迎えたその日〔大晦日〕のことを思い出します。私は本当に幸せでした。彼女が亡くなってもうすぐ三年になりますが、私の絶望は日ごとに深くなっていきます。仕事を再開してから、さらに痛感しています。私を黙って限りないやさしさで包みこんでくれる大切な存在がもうないことを。かつてないほどわかるのですが、それこそ私の唯一の生きがいだったのです。

『ラヴェル その素顔と音楽論』
マニュエル・ロザンタール著
1998年発行 春秋社

アメリカ公演

1920年1月にノミネートされたがこれを拒否。その後公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。

1923年に『ヴァイオリンソナタ』のスケッチ

1928年に初めてアメリカに渡り4か月に及ぶ演奏旅行を行なった。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルは世界的に有名になった。同年オックスフォード大学の名誉博士号を授与される。

アメリカ帰国後

アメリカから帰国後ラヴェルが残した曲はわずか4曲である。

1928年『ボレロ』(Boléro)バレエ曲
1928年11月22日にパリ・オペラ座において、ヴァルテール・ストララムの指揮、イダ・ルビンシュタインのバレエ団(振付: ブロニスラヴァ・ニジンスカ)によって行われた。

ブロニスラヴァ・ニジンスカ(1891-1972)

1930年『左手のためのピアノ協奏曲』(Le Concerto pour la main gauche en ré majeur)第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの依頼を受けて作曲したピアノ協奏曲、ラヴェル初のピアノ協奏曲

パウル・ヴィトゲンシュタイン(1887-1961)

1931年『ピアノ協奏曲 ト長調』( Le Concerto en sol majeur)『左手のためのピアノ協奏曲』と同時進行で作られた二曲目のピアノ協奏曲

1933年『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』(Don Quichotte à Dulcinée)3曲からなるオーケストラ伴奏の連作歌曲。詩はポール・モランによる。これがラヴェルの最後の楽曲となった。

ポール・モラン(1888-1976)

発病

1927年ごろから軽度の記憶障害や言語症に悩まされていた。
1932年にパリでタクシーに乗っているときに交通事故に遭い、これを機に症状が徐々に進行していった。
同年に、最後の楽曲『ドルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ』の作曲に取りかかるが、楽譜や署名で頻繁にスペルミスをするようになり、完成が長引いている。

字を書くときに文字が震え、筆記体は活字体になり、わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした
動作が次第に緩慢になり、手足をうまく動かせなくなり、それまで得意だった水泳ができなくなった。
言葉もスムーズに出なくなったことからたびたび癇癪を起した。
また渡されたナイフの刃を握ろうとして周囲を慌てさせたが、自身の曲の練習に立ち会った際には演奏者のミスを明確に指摘している。

1933年11月にパリで最後のコンサートを行い、代表作『ボレロ』などを指揮するが、このころには手本がないと自分のサインも満足にできない状態にまで病状が悪化していた。コンサート終了後、ファンからサインを求められたラヴェルは、「サインができないので、後日弟にサインさせて送る」と告げたという。

1934年には周囲の勧めでスイスのモンペルランで保養に入ったが一向に回復せず、病状は悪化の一途をたどった。

1936年になると、周囲との接触を避けるようになり、小さな家の庭で一日中椅子に座ってぼんやりしていることが多くなった。たまにコンサートなどで外出しても、無感動な反応に終始するか、突発的に癇癪を爆発させるなど、周囲を困惑させた。

ラヴェルの最期


病床にあって彼はオペラ『ジャンヌ・ダルク』などいくつかの曲の着想を得、それを書き留めようとしたがついに一文字も書き進めることができなくなったと伝えられる。あるときは友人に泣きながら「私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、もう一文字も曲が書けなくなってしまった」と呟き、また別の友人には『ジャンヌ・ダルク』の構想を語ったあと、「だがこのオペラを完成させることはできないだろう。僕の頭の中ではもう完成しているし音も聴こえているが、今の僕はそれを書くことができないからね」とも述べたという。

1937年12月28日に死去 (満62歳没) 。葬儀にはダリウス・ミヨーフランシス・プーランクイーゴリ・ストラヴィンスキーらが立ち会い、遺体はルヴァロワ=ペレ(パリ西北郊)に埋葬された。

今日のさわだくん

111日チャレンジ45日目

愛は勝つ/KAN

1990年9月1日リリースKAN8枚目のシングル曲です。元々は1990年7月25日にリリースされたアルバム『野球選手が夢だった。』に収録されたものをシングルカットした。フジテレビ系『山田邦子のやまだかつてないテレビ』

今日はKANを語りたい

2023年11月12日にKANさんは永眠されました。
私も『山田邦子のやまだかつてないテレビ』で知った口なんです。1991年1月ですのでもう社会人なりたてくらいの時ですが、毎週水曜日は欠かさず見ていただけに、KANさんのことはすぐにファンになりました。あの頃は槇原敬之とか大江千里とか同系統の歌がブームになってまして、カラオケボックスがぼちぼち増えてきた頃でしたので、CD買って練習しては歌いに行ってました。

『愛は勝つ』以外でKANさんで特に好きだった曲は・・・

『健全・安全・好青年』当時流行った「アッシーくん」になってる真面目さが売りの主人公の歌で、恋に不慣れな自分を重ねて聞いてました。とてもコミカルな歌で「あ〜もう君を送っていかなきゃ行けない時間だね〜」ってセリフを言うのがめちゃめちゃ恥ずかしかったです。

『イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ』愛は勝つの次にリリースされた曲で、待ってましたと言わんばかりにその日のうちに買ってヘビロテ、カラオケでも何度も何度も歌いました。自分も歴史の一部なんだよっていうとても前向きになれる曲です。

『恋する二人の834km』アルバム『野球選手が夢だった』に収録された曲で、タイトルの834kmは二人の距離で遠距離恋愛の歌です。当時は今みたいにメールもLINEも無くつながる方法は電話一択の時代でした。お互いに電話が切れない切ない気持ちに病みつきになった曲です。当時、カラオケはレーザーディスクだったので毎月の新曲は20曲程度、アルバム曲が入るわけないのですが、通信カラオケが出回ってようやく歌えるようになって感動したのを覚えています。歌詞に「たまに巨人が負けると文句を言うけど僕は君が好き」って歌詞の巨人を中日に変えて歌ってました。

『いつもまじめに君のこと』機械設計士をやっていた頃は、毎日のように残業してました。早く帰りたいなと思いつつも当時付き合ってた人のことを思い出すと、この歌がリフレインしました。「今夜はやめた、仕事はやめた、君を思い出した」かといってキリがつくまでは帰れなかったんですけどね。

『青春国道202』高校卒業まじかの青春を歌った曲、私は高卒だったのでこの歌詞の「2年であきらめてた大学受験」って歌詞にピンと来てしまいました。家庭の事情もあって大学に行くってピンとこなくて、早く就職して自分の自由になるお金が欲しいそればっかでした、高校生の時もバイト三昧だったので金銭感覚も狂ってたかもしれません。

まだまだ、好きな歌はたくさんあるのですが紹介し切れませんね。今、KANさんのWikipediaのディスコグラフティを見ながら、気になった曲はYoutube出かけてるのですが、あの頃の記憶が蘇ってきました。本当に切なくて悲しい。

KANさんあなたの歌声は私の青春に無くてはならないものでした。

ありがとうございました。

ご冥福をお祈りいたします。