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餃子を包みながら愛について考えた


ここ最近、いろんな愛に触れることが多くて
改めて「愛」について深く考えていた。

わやんって付き合っても付き合わなくねもう変わらなそうだよね

わやんって付き合っても付き合わなくても変わらなそうだよね。とよく言われる。しかもいろんな人に。

さっき気がついてしまったのだが、
いや、それはそうだろ。当たり前だろ。

なぜなら既に私は、100%の心持ちで相手と向き合っているからだ。上限100%のハートが、100%以上になることはないのだ。

私は、基本的によっぽどのことがないと人を嫌いになることがない。
以前noteに「愛を肥大化させていく」「愛を育てていく」感覚がある。のやうなことを書いた記憶が薄らとあるが、そもそも私はなかなか人に深い自己開示はしないので、「この人にはどれだけ自己開示できるか」「嘘偽りなく話せるか」みたいなところが愛を肥大化できるか、できないかのポイントなんだと思う。

付き合うということ

もし好きな人に、実は別の人と付き合ったんだと言われても、私は傷つきはしない。
このことについて「なぜ」を、ぐるぐると考えていた。さっきやっと答えが出た。

なぜなら、告白して付き合うことよりも、日々相手と向き合うことの方が苦しいし、痛みを伴うからだ。そしてこれは相手が大切だからこそ、できることだ。無条件の愛のようなものなのだろう。

人と向き合うということには、時間と精神力が伴う。自ら傷を癒やし、その人に寿命を使うという覚悟が必要だ。付き合うということは目的ではなく手段であり、その相手と100%向き合う覚悟を決めるということだと思うんだ。

私は「付き合う」ということを、「独占欲や様々なものの拘束が生じるもの」ではないと思っている。だからこそ、付き合ってもお互いが物理的に同じ場所に常に居続ける必要は無いし、友達と会う時間は大切だし、常にメッセージし合っている必要はないんだと思う。

私は好きな人には何度でも好きと言い、会いたいと言い、付き合いたいと伝える。
しかし「付き合う」ということがゴールで、終わりありきの関係だと相手が思うなら、「付き合う」ということをすごく軽く感じてしまう。

ずっと向き合い続けることができる関係性であるかをすごく重視しているのだと思う。
自分が、いくらその人のことを好きでも相手が100%向き合う気がないなら絶対に付き合わないだろうなと思った。それだったら付き合わないでそのままでよくね?

これがいつものやつです。

だから私は、自分から人と付き合いたいと思うことが滅多に無いんだと気がついた。
私がひとひとりひとりに対して100%の気持ちで向き合うことを既にやっているから、相手もそうしてくれるとわからないと不安なんだと思う。これが見返りってやつですかね?

その覚悟が相手にあるなら、
私の常識だと100%までしか育たない愛を
どうにかこうにか101%なのか110%なのかに
するための努力をするんだと思う。
努力ってなんだろうという心持ちだが、それくらいの気持ちがあるよということだ。

こう思うのは、親が「向き合う」ということをしてこなかったからなのだろうか。そこに何かしらのネガティヴな感情を抱えているからなのだろうか。
わからないことはまだまだ沢山ある。

愛を、付き合うということを、人々がどう考えるかすごく気になる。
「好き」というだけで繋がっていることができるのであればそれが一番なのかもしれないが、現実は違う。(この言葉、高校生の頃から言っている気がする笑)

この年になると付き合うことにも慎重になってくるよね

歳を重ねれば重ねるほど、抱えるものが増えて、考えが凝り固まって、安易に時間を使えなくなっている気がする。
なんとなく感じるのは、何度も何度も両親と向き合ってきて、何度も裏切られて、歩み寄れば歩み寄るほど離れていくことを経験しているから、また人が離れていくのが怖いのだと思う。
ヒトは孤独に死んでいくのにね。