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苦登校を促進された親友

1988年の高2の頃、同じ部活で知り合った親友と同じクラスになった時に起きた悲劇。

親友はある日から #不登校 となってしまい、本人は体調不良と言っていたものの、当時の担任から彼女のお母様に

単位不足に影響してしまうので登校するよう促して欲しい

という電話連絡をしたそうだ。

その時点では不登校と見做されるのは進級して通算20日以上であり、親友はそれに近付いた為に、当時の担任が心配して彼女の家に入れたそうだ。

親友は部活で私と同じクラスになった別の友人と共にしているものの、何故か別のグループに入ってしまったのを目撃したことや、理由不明の欠席をしたのが謎だった。

卒業したから15年後を経過してから2000年代後半頃に、親友から一通のメールが来た。

高校に入学した頃のクラスがあまりにも楽しかったものの、2年に進級してからクラスに馴染めずに不登校状態となってしまい、部活の仲間に迷惑をかけて申し訳なかった。

従来の環境からの激しい変化で馴染めず、心身共に崩してしまい、学校に行きたくても行けない状態になってしまった。

上記のことを共通の友人に話したら、親友は何も私達に迷惑を掛けたわけではないものの、部活を不真面目にしている別の部員である彼女と同じグループで行動していたクラスメイトに問題があると返された。

そのクラスメイトは、1年の時に同じクラスだったが、私を快く思わなくなかったことから私といない方がいいと言われた可能性があり、私達といたかったという心情が揺らいでただろう。

親友が自死してから彼女のお母様と電話で何度から生前の話をすることがあり、不登校に関する話が出て、 #いじめ被害 で不登校をしてもおかしくない状態でもそれが許されない状況だった私は

同じ状態でも休むことは甘えである

ということを話したことがある。

私の場合は両親に何らかの手段で否応無く登校をさせられ、外に出てもいじめられて苦しみ、逃げたくなったことがあったものの、社会に出ても同様なことが起きると悟って、我慢せざるを得なかったことからそういう言葉が出たのだろう。

担任に登校を促された親友は、自宅から学校周辺までお母様に自転車で伴走され、苦しみながら進級・卒業を目指して登校したと告げられ、不登校を許されなかった私と重なった心情だった。

卒業してから前述と関連すると思われる原因から #統合失調症 となり、 #精神障害者 となってしまい、就業不能になったのは、

現在でいう逃げを許容した不登校対応がされておらず、当時の担任の査定のために登校を促されて #苦登校 をしたことによる人格崩壊に至った

ことが大きい。

担任は1人でも不登校者を出せば査定だけでなく、学校の評判が落ちることを危惧して、員数合わせをする手段でやられていたことしか考えてない情け無い奴だとしか言いようがない。

私は親友が登校するように仕向けたことはないが、卒業までにせめて1日だけでもいいから顔を合わせたいという気持ちはあった。

親友は前向きに私達と学校で会えることを目標にして登校できた喜びを見せたことが今でも忘れられない。

この件からかなりの頻度で両親にされている輩にしては、表向きの課題をこなしても心いかない心情であったことが理解でき、成人後にその影響による後遺症を引き起こしてしまったことに対しては気の毒であるが、本人を取り巻く環境に対するサポート体制がされていれば、この悲劇は起きなかったと思う。


只今失業中で高齢家族に合わせた生活を強いられており、取材する時間と費用がない状態で2時間という短時間で執筆しなければならない厳しい状況です。 主たるジャンルはいじめ、ハラスメント等の労働・社会問題を過去の回想を基にして執筆しております。