遊びとあそび(マージン)

越境する認知科学というシリーズがあり、全部読むほど好きで、かつ8年ほどやっているVRという分野への応用の期待もあり愛読しています。

このシリーズの第8巻、ファンカルチャーのデザインの中で面白い記述があり、自分の中での「遊び」の見方が変わったのでちょっとまとめようと思います

その中で出てきたのが、1970年代のアメリカの不良が、他人の豪邸のプールを勝手に使い、そこでスケボーの練習や新しいスケボーの楽しみ方を発明したという記述です。

それまで平坦な道を走るだけのスケボーが、湾曲したプールを使ってジャンプしたり、廃墟になった遊園地の階段や手すりを使ってのトリックを生み出し、しだいにその難易度を競うようになったと。それが40年後にはオリンピック競技になったかと思うと感慨深いです

コスプレ、特にマチアソビなどで都市空間をハッキングして行うコスプレもまたそうで、普段は生活や仕事の場である都市空間をコスプレの舞台とする。それは泳ぐためのプールをスケボーのコースにハッキングした70年代西海岸不良とと同質のものがあると。

AというものがBにもCにも変化する。という「あそび(マージン)」こそが遊びには必要なんじゃないか、と思ったわけです。

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ここでA、B、Cの3つのパターンを図解しました。
大外が「そのジャンルの枠」であり、中の塗り潰された四角が「すでに決められた事」だと認知してください

例えば音楽に当てはめると、Aはジャズです。一定のお約束ごと(音階や音を鳴らすこと)はあるものの、自由に遊べる幅(マージン)が広いです。
Bはクラッシック音楽です。譜面を完璧になぞること、正確に再現することを求められてマージンはまったくないです。
Cは現代音楽です。逆に「4分間無音の曲」を音楽ですっていうほど枠がなく、好き勝手にできます。が、同時に枠が無いので理解できない人は理解できないです

別の例えですると、腐女子は原作に書かれていないマージンの部分を自由に妄想する遊びをしている。しかしここで原作が、「このキャラとこのキャラは異性愛者で結婚しました」とか逆に「このキャラとこのキャラは同性愛者です」と決定してしまうと、遊ぶためのあそび(マージン)が削られるので嫌がられるのではないかと思ってます。

で、AがいいとかBが素晴らしいとか無くて、それは受け取るユーザーの好き好きです。

例えば中学校時代、自分は改造制服を喜々として来てくる同級生に「そんなに制服が嫌なら私服でくればいいのに」って思っていました。
でも彼らはAのマージン(遊び)を楽しんでいたんだなと。制服を着ないといけないという約束事制服の枠そこのマージンを楽しんでいたんだなと思いました。
逆に自分はCタイプなので、そもそも守りたい枠がなく、枠を作る方が好きなので、まったく彼らを理解できてなかったです。

最近自分が作っているThreadTalkVRに、この理論を知ってから少し考え方を変えました

具体的には「いいね」とかいわゆるスタンプやエモーションをいれようと思ってました。しかしそれはBの「いいねが来たら、肯定がきたんだ」というマージンの無い遊びになってしまうなと

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逆に「なんの意思表示がわからない意思表示」にすることで、この動作の解釈をどうするか? というマージンの遊びが発生するんじゃないかと思ってます。あるグループはジャンプを良いね、肯定としてとろうと決定するかもしれない。別のグループはジャンプは緊急事態の報告として使うかもしれない。でも使い方を規定しないからこそ、使い方を創造していく遊びが生まれるんじゃないかとおもっています。

定期的にこれの中で100人規模のイベントを開催したいと思います。
是非使ってみてもらった感想とかいただければと思います


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