自己の境界線とテセウスの船に見る、人間の認知についての戯言

自分の好きなアニメで、地球少女アルジュナというのがあります。それのDVD最終巻の冒頭で「食べ物はいつから自分になるか?」という禅問答のようなくだりがあります。というかこのアニメ、全編通して禅問答をしつつファンタジックなバトルをするアニメです。監督はマクロスシリーズでおなじみの河森正治監督ですので、気が向いた方は是非見てください

その禅問答を意訳を交えつつ解説すると、
「パンは自分では無い。でもパンを食べて消化されると自分の一部になる」「口の中に入ったばかりのパンは自分なのか? と言われたら自分ではない」
「じゃあ胃の中に入ってからか? 消化されてからか? 消化されて血液になってからか?」
「じゃあ血液は自分なのか? 切り傷で流れた血も自分なのか? 輸血して誰かの中に入った血も自分なのか?」

ってな禅問答を、今から最終決戦だって時のアバンに何の脈略もなく放り込んで来て非常に好きです。あとDVD版はかなりディレクターズカットになっているようなので、TV版を見たという人もDVDで見てくださいね。

似たようなのでテセウスの船があります。船を修理し、壊れた部材をどんどん取り替えて修理していく。そうして建造時に使われた部材が全部無くなったとき、その船は元の船と言えるのか? 外された部材であらたな船を作った場合、その船は元の船なのか? という哲学問答です。

自分の結論としては、「その人が自分と思ったものが自分。テセウスの船と思ったものが船」なのだろうと。人によっても違うし、時期や立場によっても違うのかもしれない曖昧なものかもしれないなと。
例えばよく聞く腐女子の人が男性同士の恋愛をみるのは、「男女の恋愛シーンを見ていると、ヒロインのセックスシーンに、避妊の心配で頭がいっぱいになって楽しめない(あくまで一例)」というのがあり、これは自分の範疇がとてつもなく広いのだと思います。
自分はわりかし、この皮膚の内側が自分という狭い認識でおります。

結局世界は自分の認識一つでコロコロ変わる不確かなものだし、その不確かな認知を信じて生きるより、常に自分の認知を疑っていきていく方がわりと健全なのではないかと思ったりしております


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