見出し画像

安楽死の話

最近競馬界の英雄ディープインパクトが亡くなったという報道を見ました。その名前は競馬に詳しくない人でも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。Twitterでも大いに話題になっていました。話題になった背景にはディープインパクトの死因も関係していると思います。そう、安楽死です。

動物の安楽死と聞くとやっぱり人間の身勝手な行いだと思う方が多いのかもしれません。そういうコメントもたくさん拝見しました。治療すればいい、なにも殺すことはない。そう考える方が多いように思います。

では、本当に生きることが幸せなのだと言えるのでしょうか。「当たり前」だとそう思いますか?生きていることこそ幸せの土台であり、命あればなんとでもなると、思いますか?

確かに生物の基本的思考はそうかもしれません。生きていればいつかは傷が癒えますし、たとえ仕事(ディープインパクトの場合はレースですね)ができなくても余生をのんびり過ごせばいい。そう思う方が多いのかもしれませんね。それはたぶん正しい考え方です。ただし「回復の見込みがある場合」に限られる思考でもあります。

この世には治る病気と治らない病気があります。怪我もそうです。もし大切な家族やペットが治らない方の病気になったなら、やはり少しでも長く一緒にいたいと思う方が多いと思います。そういう考えからディープインパクトの安楽死にも批判が集まったのでしょう。では、もし自分が治らない病気になってしまったら? 病気の進行と共に耐え難い痛みや苦しみを伴うもので、その先に待つのが死だけだったら? もう一度問います。あなたがそういう状態になったとき、安楽死を反対できますか?

昨今、日本でも安楽死の是非を問われるようになってきました。色々危惧される問題はありますが、そこは法律がカバーするものであり、社会的弱者の命が脅かされることはないと私は思っています。調べて貰えればわかる通り「余命宣告されている」ぐらいの人でなければ安楽死の対象にならないのです。

私は苦痛からの解放という意味で安楽死を選ぶことは間違っていないと思うのです。ディープインパクトが安楽死を選んだのも、苦痛からの解放が理由だそうです。馬は足が命です。そこがダメージを受けてしまうと命が脅かされ、酷い苦痛を伴いながら死を待つしかなくなるそうです。そんな苦痛を与え続けることの方がむごいことではないでしょうか。

私の父は癌で他界しました。全身に転移して大の大人の男が痛い痛いと泣いていたのを覚えています。寝たきりになり、自分で排泄もできずオムツをつけ、モルヒネを打っても寝返りが痛いと泣いていた父は50の若さでこの世を去りました。父が死んだ瞬間、少なくとも私は「やっと楽になれた」と思いました。自分の親が苦しみながら弱っていく姿を見続けることは、一言で言えば地獄です。父だって娘の私にそんな姿を見せたくなかっただろうと、今なら思えます。

病気の終末期に美しい姿は存在しません。死がすぐそこにあるということは、生きるためにある神経や内蔵や血液などが異常な状態になることを意味します。食べる物を食べられず、苦痛から眠りを妨げられ、トイレで排泄することも叶わない。もちろん外見も激しく悪い方へ変化します。家族の負担も計り知れません。介護の問題、金銭的問題、そういった問題が山積みになり、全員地獄のような日々を送るのです。少なくとも私にとって父の終末期はただの地獄でした。介護生活が始まってからの父との思い出で良かった思い出などひとつもないのです。

もし安楽死があったなら、父は自分の望むタイミングで安楽死を選んだと思います。自分の苦痛も家族の負担も最小限に、思い出を作って笑顔でこの世を去ったのだと思います。それは父の尊厳を守る死になったでしょう。オムツをしながら痛いと泣く父はいなかったのかもしれません。

安楽死というのは人間の尊厳を守る手段であると私は考えます。安楽死という方法が選べるとき、人の生き方は変わると思うのです。穏やかな死は苦しみからの解放でもある。少なくとも私はそう考えています。

「死」という概念をマイナスのイメージと捉えるのなら、安楽死は「生き方の選択」というプラスの概念だと思います。尊厳を守る死に方は最期の生き様の選択になるのです。自分の人生の終着点をどのようなものにするのか。それを選べる時代がいつか来ることを私は望んでいるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?