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人の死を悲しむ気持ちの話

誰かの死を悲しむためには健康的な心の「悲しみ許容量」が必要なのだと最近痛感しています。

最近話題になった某アニメ会社の事件ですが、世界中が悲しみに包まれるなか、私はなんだか取り残されたような気持ちでニュースを見ていました。

私はそのアニメ会社の制作したとあるアニメが大好きで、去年ハマってからTwitterの専用アカウントを作り、毎日のようにファンアートやら創作をし、DVDを全巻揃え、グッズを買って、イベントがあれば馳せ参じるような日々を送っていました。本当に毎日が楽しくて、キラキラした元気を作品からいただいておりました。今もずっと大好きです。この作品に出会えたことを心から感謝しています。

専用アカウントでは同じ作品のファンの方と交流していました。事件が起こるまでは穏やかに次のイベントの話をしたり、お互いの作品を見て感想を言い合ったり、とてもキラキラしたもので溢れていました。しかし事件が起こり、嘆きや悲しみ、憤りがタイムラインに流れるようになりました。やがてツイートは極端に減り、ある方は犯人を憎み、ある方は悲しみに暮れ、ある方はアカウントを消してしまいました。これを言うと作品がわかってしまいそうですが、犯人の名前が作品に関連するものだったこともあり、ショックがとても強かったのも原因だと思います。

同じ作品を愛した同士たちが傷付き、悲しみ、憤るなか、私はただその様子を眺めていました。悲しかったです、とても。大好きな作品を作られた方々の安否はいまも発表されていません。それは大きな損失であり、許せないことだと理解しています。だけど日を追うごとに感情はフラットになり、いまは遠くの国で起きた悲しい事件をニュースで見ているような気持ちしか持てません。

私はまだまだ作品が大好きです。だから募金はしますし、いつまでも応援していたい気持ちです。5年でも10年でも、いつまでも再生を待っています。心に刺さる素晴らしい作品を作ってくださった会社が復活するのをいつまでも待つつもりです。

どうしてうまく悲しめないのだろうと思う日もありました。周りの方のようにショックも受けず、ただ淡々と未来のことを考えて冷静に行動している自分が不気味で、他の方を励ますような発言さえしている自分が怖くもありました。冷酷でドライな自分を恥じる気持ちはあっても、どうしても悲しみが続きません。

しばらく悩んでいましたが、自己分析した結果、ひとつの結論に辿り着きました。それは「悲しみには許容量がある」ということです。とてもつらい出来事が起きたとき、悲しい気持ちは大いに心身を蝕むものです。その悲しみに心身を壊されないように、ある程度まで悲しみが溜まるとストップがかかる…これを私は「悲しみの許容量を超えた」と判断しました。

私は人一倍心のストレス耐性がないことを自覚しています。過去に精神面での受診歴もありますし、家庭環境も複雑だったので精神面はすぐにストレスの影響を受けてしまいます。そんな私の身体が取ったストレス対策が悲しみの受け取りを拒絶することだったのかも知れません。

本音を言えば、もう悲しいものは見たくありません。人の死は往々にして理不尽に起こりますが、そんな理不尽な犠牲が起きてもなにもできないことを私は知っています。人間は一度死んだら二度と生き返らないのです。だからこそ生は尊く、美しいものなのです。

悲しみを癒すには時間薬が一番だと私は経験から理解しています。どんな悲しみも痛みも、時間が経てば少しずつ薄れるものです。だからこそ私は未来のことばかり考えてしまうのだと思いました。早く未来になって欲しいのです。悲しみが早く過ぎていくことを心のどこかで願ってしまっているのです。

これからも私は作品の未来のことを考え続けるのだと思います。悲しみに蓋をしたままですが、それだって悲しみ方の個性のようなものだと思い受け入れていこうと思います。

悲しみ方は人それぞれなのです。私のように悩む方の心に少しでも寄り添えたらいいなぁと思い、記事にしてみました。

最後になりましたが、今回の事件の関係者の皆様には心からお悔やみ申し上げます。

どうか一日でも早く皆様が笑顔を取り戻せますように。

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