家が連なる辛い時期まで

 小説の中にいる自分は僕だろうか。そんなことを考えつつ書く文章は、自分ではないみたいな気がした。どれが正解だろうか、どれが良いのだろうか。迷っている間に夜になる。そして朝になる。

 朝になって目の前に現れた文章は、とてもじゃないけれど人前に出せるものではなくて、僕はそっと『ゴミ箱』と名前をつけたフォルダにその文章をしまう。パソコンのゴミ箱ではなく、あくまでそういう名のフォルダ、というのが良くも悪くも僕らしい。物持ちが良いといえば聞こえは良いが、ただの優柔不断だ。そのフォルダから掘り出した小説を完成させたことはある。当時は何らかの理由で書くのをやめてしまった途中までの物語。時間が経ってから、その断片を読み返してみると、続きが浮かぶことがある。でも、それは稀だ。僕のそのゴミ箱の中には、形にならなかった、終わることの出来なかった物語たちが無数に存在しているのだ。
 いっそのこと、フォルダ名を『墓場』に変えてやろうか、という考えがよぎった。ときどき蘇るそれらは、いわば小説のゾンビたちだ。
 終わりを迎えられなかった小説たちが人々を襲い、街中がパニックになる。生存者たちはショッピングモールに逃げ込むが、小説ゾンビたちが迫り来る。物語の最後、小説ゾンビたちは人々を皆殺しにして、未完の本のまま、そのショッピングモールに鎮座するのだ。世界中の未完の小説たち。ゾンビの王様はカフカの『城』だ。僕の未完の小説たちは、名もなき兵隊たち。
 そんな、馬鹿げたことを思いながら、僕はゴミ箱(または墓場)の中の小説をいくつか読み始めた。どれも最初は勢い良く物語が進むものの、突飛な設定だったり、はたまた凡庸すぎる展開だったりで、ストーリーが滞る。キャラクターも弱く、小説を引っ張って行く力がない。大雑把に言ってしまえば、中途半端で不甲斐ない人物ばかりだった。そのどれもが僕であり、僕でなかった。僕であり僕でないがゆえに、何も進まないのだ。
 ただ、数十個ある断片のうちのいくつかに、共通点のあるキャラクターがいることに気がついた。女の子で、どこか影のあり、存在感が希薄な、けれどもなぜか朧げな印象だけが残る、そんな人物。普段は記憶の風景に溶け込んでいて意識できないが、逆に気がつくと、彼女が中心になってしまうような。

「あぁ、そうか……」思わず声を漏らしてしまった。
 けれど、思い出した。この人は、きっとあの娘だ。
 僕に小説を教えてくれた、あの娘。

 高校生のとき、同じクラスにガンの少女がいた。可愛かったわけでも、ましてや好きだったわけでもない。彼女とは高校三年間のうち、一度だけ話したことがあるに過ぎない。記憶の中に溶け込んでいて、普段は思い出しもしないが、確かにその風景の中に彼女はいた。
 僕が通っていた県立秋陵高校は、九月の二週目に文化祭があり、その翌週に山歩きというイベントがあった。高校生にもなって、ましてや学校のすぐ近くにある秋陵山を歩くという、遠足のような行事を心待ちにしている生徒は少なかったけれど、始まってしまえば、広大とは言いがたいものの、狭い教室を抜け出した開放感からか、みんな楽しそうにする。山といってもせいぜい小高い丘、というレベルの秋陵山といえど、山頂まで登るのは結構ハードで、体調が悪かったり、体があまり丈夫でない生徒は、学校に残って自習になる。かくいう僕も、高二のときは、一学期末に部活の練習中に腰の骨を折ってしまい、杖をつきながら通学していた。だから、そういった生徒たちと一緒に、自習する羽目になった。
 それぞれの教室で、朝から放課後まで自習。時折、留守番の先生が見回りに来るものの、とても退屈で、僕は山歩きに参加している他のクラスメイトたちと携帯電話でメールをしていた。四時間目の修了を告げるチャイムが、ほとんど誰もいない校舎に響いたとき、窓際の席に、彼女がいることに気がついた。いや、誰かがいることは気がついていたけれど、そのときなってようやく、僕はちょっと話しかけても良いかな、と思ったのだ。クラスメイトから送られてくる楽しげな写メールを見せつけられて、そして母親が作ったいつもより豪華な弁当(山歩きは不参加だと言ったはずなのに)を前に、少し寂しかったのかもしれない。
「ねぇ、せっかくだから、一緒に食べない?」僕は彼女に声をかけた。彼女は、僕を一瞥すると、表情を変えずに、小さく頷いた。細い銀縁のメガネをかけた、今思えばとても品のある女の子だ。ただ、当時の僕は自分で言うのもなんだけれど、どちらかといえばクラスでも目立つ方で、バスケ部でもレギュラーだったし、華やかな人たちとつるんでいたので、彼女のような一見地味で大人しい人とは接点がなかった。このときも(今となってはとても烏滸がましいことだけれど)、僕の方から「話しかけてあげた」というような気でいた。
 彼女は開いていたノートを閉じて、鞄から藤色のお弁当箱を取り出した。どんな中身だったかは覚えていないが、普通の弁当だった。僕も彼女の隣の席に移り、半ば自慢するように弁当箱を開いたけれど、慎ましく食事をする彼女の姿を見て、次第に恥ずかしさのような感情を抱くようになっていた。
 昼食を食べ終えると、彼女は文庫本を取り出した。食事中、ほとんど話しかけることができなかった僕は、「何読んでいるの?」ときいた。
「サリンジャー。ナインストーリーズ」
「面白いの」
「うん」
「どんな話?」
「短編小説。読む?」
「えっ?」
 不意に手渡された文庫本を、僕は受け取った。ワックスペーパーのブックカバーがかかっていた。僕はパラパラとページを捲りながら、字が多いな、と思った。
「あなたは、普段小説とか読むの?」
「いや、全然。漫画ばっかり」
「そう。何を読むの?」
「最近面白いのは、ARMSとか」
「それ、貸してあげる」
「いいの?」
「もう何度も読んだし」
「何度も?」
「そう」
「なんで?」
「なんでだろう。参考に、かな」
「参考? なんの?」
「小説、書いているから」
「あ、へぇ」
 小説を書く人が身近にいるとは思わなかったので驚いた。僕にしてみれば、文字だけの物語を読むことでさえ稀なのに、それを書こうというのは、どういう動機なんだろうか。
 僕がそんなことを考えていると、彼女は別の本を読み始めていた。仕方がないので、僕も借りた本を読む。漫画くらいしか本を読まなかった当時の僕にとって、小説を読むのはなかなかにハードルが高いと思われたけれど、一番目の『バナナフィッシュにうってつけの日』の、プールでシーモアと女の子が話す場面に差し掛かるところまで読んでしまうと、その後はグッと引き込まれた。中でも『エズミに捧ぐ〜愛と汚辱のうちに〜』は、とても面白く感じた。当時の僕にどれだけ読解できていたかは怪しいけど、その後の三時間で(先生が見回りにきたときには教科書で隠して)、その一冊を読み終えた。
「全部読んだの?」
「うん。面白かったと思う」
「そう」
「あのさ……」
「なに?」
 僕が言いかけたとき、先生が教室に入ってきて、もう下校して良い、と言った。もう夕方の四時半を回っていた。例年より時間が押したことにより、山歩きに参加した生徒たちは、現地解散になったらしい。先生が出て行ったあと、自分の携帯電話を確認すると、確かにそんなようなことが、メールに書いてあった。
 僕は、読み終えた小説を彼女に返し、もしよかったら他にも面白い小説を貸して欲しい、と頼んだ。
「あなた、家どっち方面?」
「美幸町のほう」
「じゃあ、ウチに寄ってくれたら、貸してあげるけど」
「あ、ホント? ありがとう」

 彼女と一緒に校門を出る。女の子と二人きりで下校するなんて初めてだな、と気がつく。気づいた途端、なぜだかしなくてもいい緊張をしてしまう。
 先を歩く彼女が控えめに振り向く。「さっき……」
「えっ」
「なにを言いかけたの?」
「あぁ、その……」緊張していることを悟られないように平静を装うけれど、却ってしどろもどろになってしまう。「いや、小説を書いてるって言ってたじゃん? どんなの書いているのかなと思って」
「ふーん。どういうの……。どういうのかな……」一人でブツブツと言いながら、彼女は歩いていく。
 日はまだ高く暑い。幸いにも雨は降らなそうだ。日差しはまだ夏で、僕は少しだけ安心する。
「人が死なない話、かな」
「えっ」
 訊ねてから随分と間があったので、それがさっき僕がした質問の答えだと判るまでに、時間がかかってしまった。
「ほら、人が死ぬのって嫌だから」
「そりゃそうだけど、でもなんで?」
「私ね、ガンなの」
「えっ」
「別にいますぐ死ぬってわけじゃないよ。様子見中」
「でも……」
「なに?」
「なんていうか、元気そうに見える」
「元気だよ?」彼女は笑う。
「そうなの?」
「甲状腺癌。ほら、ここのあたり、デコボコしてるでしょ」そう言って彼女は、首筋を僕に見せる。僕はそれに触れようとして、でも、手を引っ込めた。
「ちょっとズレた、喉仏って感じだね」気の利いたことを言おうとして、相当に無神経なことを僕は言ってしまった。それでも彼女は、笑ってくれた。いや、あれは呆れていたというべきか。苦笑だった。
「一昨年、反対側の腫瘍を取ったときに、見つかったの。すぐに取ってしまっても良かったんだけれど、先生が様子をみましょうって。将来、子供も産むだろうしって」
「そうなんだ」
「入院中、とても退屈だったから、そのときから、小説を書き始めたの」
「そっか。すごいな」
「そうかな」

 彼女の家に着く。平屋建ての同じような家がたくさん並んでいた。
「じゃあ、ちょっと待ってて」彼女は鞄から取り出した鍵で、玄関の扉を開けて中に入る。曇りガラスでできた、古いタイプの扉だった。
 五分くらい待つと、ガラスの向こうに彼女の姿がぼんやりと映った。たくさんの本を抱えているようで、扉を開けるのに難儀しているようだった。僕は右手で、その取っ手を引く。
「ありがとう」
「ううん。借りる側だし」
「これ。全部でも良いし、好きなのを選んで」
「あー、どうしようかな。おすすめは?」
「カポーティかな」
「どうして?」
「なんか似ている」
「なにが?」
「あなたの顔。若い頃のカポーティに、ちょっとだけ似ている」
「えぇ、そうなのかな」
「ちょっとだけね」
「じゃあ、それを借りようかな」
 彼女から手渡されたは、カポーティの『遠い部屋、遠い声』だった。
「じゃあね。また来週」
「あ、そうか」今日は金曜日だ。「土日で読むよ。俺、いま部活やってないし」
「感想聞かせてね」
「あ、うん。たいした感想は言えないかもだけど」
 彼女は短く頷いたあと、少し笑った。扉の向こうに入ってしまうとき、君の小説も読ませて欲しい、と言おうとしたけれど、言えなかった。思い出した今、それをとても後悔している。
 遠回りをして家に帰った。腰も痛かったし、休み休みだったけれど、なぜだかその日は、まっすぐ家に帰りたくなかった。自動販売機でコーンポタージュを買って、道端の縁石に座った。日が沈み、気温が一気に下がったので、とても沁みた。空気が澄んでいたのか、星が綺麗に見えた。焦点がうまくわないのか、星がゆらゆらとしていた。そうかこれが、瞬く、というのか、と僕はこの歳になって、気がついた。

 週明けの月曜日、教室に彼女の姿はなかった。次の日も、またその次の日も。あとになって、容体が悪くなり入院したのだと知った。結局、卒業式を迎えてからも、会うことはできなかった。読み終えた小説も返せないまま。感想を伝えることもできないまま。

 その文庫本を、今も僕は持っている。何度か読み返した。そして、何の因果か、僕は社会人になって三年目に、突然小説を書き始める。
 誰に読ませるわけでもなく、休日などの空いた時間を使って、書き続けた。何度か新人賞にも出したけれど、結果は芳しくない。でも、良いのだ。書くことが楽しい。それだけで充分だ。
 僕も、人の死なない物語を書いている。なぜだろう。彼女の言葉に影響されたのだろうか。よく判らない。
 ふとしたきっかけで、僕はそれまで書いたものを小説サイトに投稿するようになった。何人か読者もついた。嬉しかった僕は、電子書籍の作成も始めた。特に大きな目的があったわけではない。けれど、もう十冊以上出している。
 そのうちに、他のアマチュア作家の電子書籍も読むようになった。お互いに感想を言い合ったりして、交流をしている。いろいろな小説がある。そのどれもが、面白い作品ばかりだ。そう、小説は面白い。
 そんな中、とある小説が僕の周辺で話題になった。半自伝的な小説らしい。気になったので購入した。どうやら結構売れているらしい。
 その小説は、ガンを患った少女の物語だった。主人公が中学に上がるところから物語は始まる。とても綺麗な文体で、詩的なリズムが流れるように綴られている。ときおりハッとさせられる表現もあり、辛口の炭酸水のような、爽やかな文章だった。
 物語が高校二年の二学期に差し掛かったとき、手が止まった。あの日、あの場所で交わした会話が、そこにはあった。ページ数としては、ほんの少しだけれど。入院する直前の場面だ。『前々からとある作家に似ていると思っていたクラスメイト』だそうだ。僕が彼女の甲状腺を、『喉仏みたい』だと言ったシーンもあった。思い出しただけで悶絶しそうになる。けれど、彼女は悪くは受け取らなかったみたいだ。そして、僕が彼女に触れようとした手を引っ込めたのも、気づかれていたようだ。

 僕は、そのページを何度も読んだ。

 電子の中に溢れた言葉が集まって物語になったものに僕は存在していた。これが全てか、と触ろうとしても電子は触れない。存在しているのか曖昧になる。言葉の羅列に自分を見つけた。それはたぶん夜空で星座を見つけた気分と同じだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?