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敗金主義者と聖徳太子とことわりと

 戦争の先の戦争とは「対地球戦争」のことである。人類対地球の全面戦争。これは敗金主義者の妄想であるが、実現不可能とまでは言えない、と言うか無意識下では既に行われていることなのであるからして、全く妄想とも言い切れないのであるが、これを納得してもらうのは簡単ではない。だから、細々と説明しようと試みているのであるが、何しろ敗金主義者は貧乏暇なしなのであって一挙にはできない悲しい現実と向き合うしかないのであった。何しろ敗金主義者の言葉に力は皆無だ。
 だからではないが、今回は日本の賢人に登場願ったのである。今回「理」の重要性を解説するにあたり、聖徳太子の17条の憲法を引き合いに出したい。
 聖徳太子の実存についての議論はここではしない。ただ、のこされた古代日本の憲法、生きる指針の内容を本当に理解している人がどれだけいるのか?と言うことは議論したいと考えている。
 さて、ここにある小説の一節を引用したい。それは「スリーストライク 」と言う小説だが、そこによくまとめられている。(そう勿体ぶる必要もないのである、なぜなら私が書いた小説であるから)

〜引用〜
亀は一呼吸置いて話を続けた。
「大昔、君の生まれた国に一人の賢者がいた。その賢者は君の国に十七条の掟を定めたのだが、それは第一条にこう書かれていた」
【一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成】
 亀は自分の甲羅にある白い苔を自在に操り、文字を書いた。私はそれを黙って眺めた。亀は目を細めて説明を加えた。
「要するにこう書かれている。“一に曰(いわく)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。”そして、最後の十七条にはこう書かれている」
 亀はまた甲羅の苔を動かした。
【十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。夫事不可独断】
「十七に曰わく、それ事(ごと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相(あい)弁(わきま)うるときは、辞すなわち理(ことわり)を得ん」
目を閉じながら語る亀に、私は口を挟んだ。
「それ知っています。学校で聞いた事があるから。昔の憲法ですよ。和が大事って事ですよね?みんなと仲良くしろって事くらい僕でも分かります」
「それはもっとも一般的だが、実は表面的な解釈でしかない。この条文でもっとも認識しなければならない事は他にあるんだ」
「それはなんでしょうか?」
「この二つの条文には同じ文字が繰り返されている。それは“和”でもなく“不可独断”でもない。それは“理”だ。第一条でも“則事理自通”とあり、和を尊べば理に通じると言っている。そして、最後の条文でも最後の最後に“辞則得理”とあり、皆で話し合えば理を得られる、と言っている。皆で仲良く話し合いをすることが目的では無いのだ。その目的は“ことわり”を得ると言う事で、一番重要な事はその“ことわり”なんだよ。要するに、“ことわり”に沿って生きる事が重要であり目的で、その方法、手段として“和の精神”や“話し合い”が必要だと言っているのだね」

 ここで言われているのは、日本人の「和の精神」が17条の憲法に書かれていると言うことは多くの人が知っているにもかかわらず、どうして「なぜそれが必要か?」が書かれていることは知られていないのか?ということなのである。
 引用を続けよう。

〜引用〜
「でも、そんな事先生に習わなかったです」
「それは可哀想と言わざるを得ない。しっかりと教えられる人間がいないか、読み解く力が無いのだろうね。だが、間違った解釈をされてしまえば、恐ろしい事が起こるんだ」
「恐ろしい事?」
「そう。例えば、この十七条の掟を間違って解釈して、皆で話し合いをする事で“ことわり”を“決められる”と思い違いしたらどうだろう?」
「え?“ことわり”を決められる?え?でも、“ことわり”は人がどうする事も出来ないものだから“ことわり”って言うんじゃ。あっ!」
「そう。和の精神で話し合いをする事が至上の価値観だと勘違いすると、人が勝手に“ことわり”を変えられると思い違いしてしまうんだ。不思議だが長い年月をかけてそうなってしまったんだね。ただ、そうなれば人がどうなるか想像つくだろう?」
「それは、理生のような独善的で傲慢な“理性的人間”になってしまいます」
「そう、自分に“理”があると思っているアレの様に、自分勝手に振舞う事になってしまう、思い上がった人間が出来上がるというわけだ。それを憲法としてあがめているとしたら、国やそこに住む人間に非常に大きな影響を与えてしまうんだ。悪い方にね」
「僕の国って、もしかしてそれがあるんですか?」
「大昔の事を大切にする民だからね。良い事も悪い事もずっと継承するのだよ。もちろん、その影響は今も根深く残っている。だが、ここで君に伝えたい事は、少なくともその賢人は“ことわり”の重要性をはるか昔に理解していたと言う事なんだ」
「分かります。確かにそうですね」
「要するに“ことわり”は一つの指針になるんだ。判断の軸になると言っても良い」
「判断の軸?何ですかそれは?」
「何かを決める時には、また、何かを区別するには“線”で分けなくてはならない。良い悪い、正しい正しくない、白と黒、何でも判断を下すには境界線が必要になる。その境界線がもし太い、面積が広いものであるなら、どちらともつかないものが多くなるから、判断に迷う事になる。判断をする対象が線上に並んでしまうからね。そして、判断に使う“線”は出来るだけ他者に影響されないものが望ましい。誰かによって変えられてしまって、ある時はこちら、またある時はあちらでは同じ判断が下せないだろ?同じものを比べるのに判断の軸を誰かにずらされ時、それがまったく別のものになってしまうなら、それもまた判断を迷わせる要因になるだろう。間違えさせる要因にもね。
では、どうすればいいか?
それは、線を限りなく細くすればいいんだ。そして、それは人の判断で動かないものが最適になる。判断の軸として限りなく細い、根本的に動かない軸を何にするかが重要になってくるが、それに最適なのが“ことわり”になるんだ。基本的に自然法則で、なおかつ人にはどうしようも出来ない事だからね。だから、大昔の賢人が国の最高の掟に“ことわり”を組み入れたのはまさに“道理”にかなっているというわけさ」
「なるほど」
「だから、君が虚構の世界で迷ってしまったとしても、“ことわり”に沿って判断していくならば正しい方向に導かれると言う事だよ。そして、“ことわり”を学ぶ事で自分自身に“ことわり”を認識させ、それを指針に虚構の世界を迷わないで生きていく事が、君には出来るんだ。そのもっとも身近な例として“自己の存在証明”がある。もっとも“ことわり”を学ばなければ、“自己の存在証明”を理解する事さえ難しいかもしれない。そして、その先にある重要な事を知るためにもね」
〜引用終わり〜

 自分の価値観で「理」を変える人がなぜできるのか?その説明を明確にできるのが上記の説明だと思うが如何だろうか?これの変形に「宗教」を理に組み込む、もあるが、日本人において理を勝手に変えて考える傾向の遠因に17条の憲法の誤用、不理解、誤解があるのではないか?と言うことである。
 ここは誤解のない様にしたいのだが、17条の憲法にはしっかり書いてあるのであって、それを歪曲しているのが問題ではないか?と言うことなのだ。
 要するに解釈の仕方が間違っているのだ。

解釈、これが全てを歪めている原因なのだろう。宗教でもそうで、解釈で歪められていくのが人間の宗教史とも言える。実は「理」は解釈できないのが利点でもあるのだが、それはまた別の機会に説明できればと思う。
 今回はここまで。暇な方は「スリーストライク 」も読んでもらえたら幸いである。

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