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民主主義のメモ

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民主主義について、ニュースで考える。
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2019年4月の記事一覧

「平成31年」雑感20 須賀敦子「古いハスのタネ」の続き

▼前回のつづき。 ▼須賀敦子のエッセイ「古いハスのタネ」にあった、 散文は論理を離れるわ…

「平成31年」雑感19 須賀敦子「古いハスのタネ」を読む

▼オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのは1995年。作家の須賀敦子が「新潮」19…

「平成31年」雑感18 死刑制度は「存在してはならない生」を想定している件

▼まったく流行(はや)らない議論だが、知っているのと知らないのとでは結果が異なる場合があ…

「平成31年」雑感17 松本サリン事件からマスメディアは変わっていない件

▼オウム真理教の幹部13人が処刑された件で、松本サリン事件について、「今」の話をメモして…

「平成31年」雑感16 集団処刑への批判がほとんどなかった件

▼きのうのつづき。 ▼きのう書き忘れたことが一つあった。1911年に大逆事件があったとい…

「平成31年」雑感15 日本はオウム真理教の「大臣」から順番に殺した件

▼きのうは死刑執行の手続きについてメモした。 ▼きょうはオウム真理教の死刑囚13人の、「…

「平成31年」雑感14 「死刑執行」の決裁には二つの道がある件

▼2018年7月7日付の各紙報道のなかに、「どうやって死刑は執行されるのか」についての少し詳しい記事があった。毎日新聞から。適宜改行。 〈死刑を決める手続きはどう進んだのか。  毎日新聞が過去に情報公開請求で入手した文書や同省関係者らの話を総合すると、死刑執行は刑事局総務課が起案する。〉 ▼へー、総務課なんだ、と思った。 〈その後の決裁は二つの道筋がある。 1)「死刑事件審査結果(執行相当)」と呼ばれる文書に法相と副法相が署名し、事務次官や刑事局長など法務官僚5人が

「平成31年」雑感13 「無差別大量殺人」を忘れ去る国

▼きのうのつづき。 ▼『教育激変』のなかで池上彰氏は、いくつかの大学で教えていて体験した…

「平成31年」雑感12 「無差別大量殺人」を正当化する伝統

▼先日のメモで紹介した、池上彰・佐藤優両氏の対談が、新刊本になっていた。先日紹介したのは…

「平成31年」雑感11 「無差別大量殺人による救済」の行きつく先

▼前号では、オウム真理教が起こした数々の事件の底を流れるのは、「宗教的動機」であり、具体…

「平成31年」雑感10 「無差別大量殺人による救済」の論理

▼オウム真理教が用いた「論理」を確かめる、前回のつづき。 ▼フォトジャーナリストの藤田庄…

「平成31年」雑感09 オウムにとって「殺人」が「救済」になる件

▼月刊誌「世界」の2018年9月号に、フォトジャーナリストの藤田庄市氏の論考が載っていた…

「平成31年」雑感08 オウム報道から欠落した「宗教的動機」

▼刑事司法は、世に言う「真実」を求めるものではない。あくまでも「刑事責任」をはっきりさせ…

「平成31年」雑感07 テレビはオウム一斉処刑をどう報じたか

▼オウム一斉処刑は、国とテレビとの関係についても考えさせられるきっかけになった。とはいえ、ほとんど話題にはならなかった。新聞はテレビ報道の検証はしないし、テレビ業界自体はテレビの検証をすることはない。 ▼新聞はその時間軸で「切り取られて」、一覧性の高い記録として残る。テレビはその瞬間に「流れて」、一覧性の高い記録としては残らない。簡単に録画にアクセスできるとしても、見比べるのに膨大な時間がかかる。だから新聞よりもテレビのほうが検証が難しい。 ▼オウム真理教の死刑囚が一斉に