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「世界と自分の距離」を測る件 文系と理系とAIと(5)

▼このシリーズの2回目で、批判の矛先は国語教育に向かっている、と書いた。

今回はその続き。具体的には新井紀子氏がこう指摘している。適宜改行。

新井 進学校に入れるような子は、入試の時点で文章を読む力を備えているからいいけど、問題はそこまで到達していない、読解力のない子をどうするかですよね。

リテラシーというか、書かれたものを忍耐強く読んで、世界と自分との距離感を測る力は、本当は高校生までに身につけないといけない。それが本来は国語教育で行われているはずだったんです。〉

〈どんどん子どもの読む力が落ちているのに、「ないた赤おに」とか、「走れメロス」とか「山月記」とかーー題材が悪いと言っているわけではないんですよーーそういう感性に刺さる話を中心に読ませることで国語教育を済ませてきたことの問題は大きいと思う。

数学にしても、「原点を」「通る」「円」を選ぶという、この三語すらきちんと読めないから、定義をきちんと読んで理解することができない。だから自分流に勝手に解釈してしまう。〉(40頁)

▼上田氏は「ルールに従って最適解を出すということだけやらされている人は、自分の足で歩いていることが分からない」と危機感を語る。

新井氏は対談をこうしめくくる。

文系の人は、読むときに拡大解釈したり、好きに解釈したりせずに、かっちり読むこともできるようになりましょう、ということだと思うし、理系の人は、システマチックに読むだけじゃなくて、リアルな世界に接地して読みましょう、ということなのかもしれません。

それが前提条件としてあるべきだと思います。だから大学のリベラルアーツ教育の前段階としてのリテラシー教育は、文理融合でなければいけないと私は考えます。〉

▼この方向性は基本的に正しいと筆者も思う。とくに「書かれたものを忍耐強く読んで、世界と自分との距離感を測る力」という定義が重要だ。

何を読むのか、どう測るのか、について、教育現場の知恵にアンテナを張ってメモしていきたい。この対談の言葉でいえば、新井氏の「平板な読みとか、対立構造しか見えないとか、強烈なストーリーじゃないと分からないというのは、どうしてなのかということを、いま考えているところです」という研究の成果に興味がある。

個人的には、どこで道がズレたのか、狂ったのかに興味がある。パッと思いつくものとしては、経団連の学校教育に関する方針の変化が決定的なのだろうか。大学の経済学部でマルクス経済学を学ばなくなったことも一因かもしれない。

日本の読書層が文芸批評を(日本語だけでなく英語でもドイツ語でもフランス語でも)めっきり読まなくなったことは、相関関係だけでなく何らかの因果関係があるのだろうか。

竹内洋氏が指摘している「教養」の意味内容が戦後日本に変容していった歴史から、炙(あぶ)り出される傾向もあるだろう。

▼その時代の常識は、変容してしまった「後」は、もはや消えてしまい、見えなくなる。とくに学校教育の影響は甚大だ。変容する「前」の痕跡をたどる努力が、とても重要である。その努力は、「今を知る」ことにつながるからだ。

どんな時代になっても、自分の足で歩いていること、自分の足で歩くことを忘れたくないものだ。

(2019年3月19日)

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