『日本国紀』に学ぶ「編集」の効用

▼名著『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中公新書)で知られる歴史学者の呉座勇一氏が、作家の百田尚樹氏の新刊『日本国紀』(幻冬舎)をバッサリ斬っている。2018年12月11日付朝日新聞。

見出しは「通説と思いつきの同列やめて」。

呉座氏は、『日本国紀』の古代史、中世史の記述は〈作家の井沢元彦氏の著作に多くを負っている〉ことを示す。『日本国紀』は、そもそも参考文献を載せていないことが批判されている。

▼その具体的事例として、百田氏が唱える「足利義満は暗殺された」という説について、歴史学の「通説」と「思いつき」との違いを誰にでもわかるように書いている。

この暗殺説は、義満が天皇家の乗っ取りを画策して、逆に朝廷に殺された、というものだ。どこに『日本国紀』のカラクリがあるか、以下の文章を読めばわかる。

〈義満が天皇家を乗っ取ろうとした(具体的には息子の義嗣を天皇にしようとした)という説は、早くも大正時代に東京帝国大学教授の田中義成が提唱している。戦後も一定の影響力を持ったが、1990年に中世史家の今谷明氏が『室町の王権』(中公新書)で田中説を補強したことで、一般に広まった。ただし最近の中世史学界では、天皇家乗っ取り説は否定されつつある。百田氏は「研究者の中には、暗殺(毒殺)されたと見る者も少なくない。私もその説をとりたい」と書いているが、今谷氏も暗殺されたとは言っていない。暗殺説を主張しているのは、『室町の王権』に影響を受けて『天皇になろうとした将軍』(小学館文庫)を執筆した井沢元彦氏など作家だけである。本連載で以前も指摘したが、学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい。

▼まず、「乗っ取り」説と「暗殺」説とは別物である。また、「学者」と「作家」と「研究者」というそれぞれ違う言葉について、「研究者」には「学者」は含まれるが、「作家」が含まれるかどうか。それは作家に拠る。

そして、「少なくない」「私もその説をとりたい」といった百田氏の表現=編集に触れると、もともとは異なる複数の物事がーーそれらは、見る人の眼力によって「完全な別物」の場合もあるし、「似て非なるもの」の場合もあるーーあたかも融合しているかのように思い込む人も出てくる。

呉座氏が〈学界の通説と作家の思いつきを同列に並べるのはやめてほしい〉と繰り返すのは研究者として当然のことだ。しかし、この論理とはまったく関わりのないところで、資本主義の論理は動いている。

▼たしか、とり・みき氏が明快な定義を示していたと思うが、先行業績をパクる時、それがパロディなのか、盗作なのかの違いは、「元ネタを知ってほしい、共有したい」という思い、愛情、尊敬にあふれている場合がパロディになり、「元ネタを隠したい」という自己顕示欲にあふれている場合が盗作になる。この基準は、なかなか目に見えない。

『日本国紀』のようなベストセラーは、読者にさまざまなことを教えてくれる。これからどのような言説が、安倍晋三総理大臣の口から出てくるか、また、日本語のネット空間にあふれるか、『日本の国紀』の中身からある程度推測することができるかもしれない。

(2018年12月18日)

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