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芸人論から見えるビジネスモデルの末路

▼20世紀から21世紀になって、「芸人」という言葉の意味がずいぶんと変わった。

2019年5月14日付の朝日新聞に、〈倫理に縛られ 消えゆく芸人〉という面白い記事が載っていた。(近藤康太郎編集委員)

「カツシン」こと勝新太郎が、下着にマリファナとコカインを隠し持って捕まった例などを取り上げ、昨今の変化を描く。

そういえば、先日亡くなった萩原健一氏もクスリで捕まっているが、彼の訃報のテレビや新聞での扱いは大きかった。

その時代、その時代で、薬物の価値が変わっていることがわかる。

▼社会的な背景として、ひとつ補足しておくと、小林旭と美空ひばりの離婚会見には、田岡一雄・山口組三代目組長が立ち会っている。昭和30年代の話である。田岡氏はこのころ、一日警察署長を務めた写真も残っている。

「神戸芸能社」で検索すると、山ほどさまざまなサイトが引っかかる。

芸能界は、任侠道を生きる人々と、公然と深い関係があり、「こわい」世界だった。

別の言い方をすると、民主主義など「お呼びじゃない」世界だったわけだ。

▼しかし、いまや商売の方法が変わりつつある。朝日記事は「セレブリティー・エコノミー(有名人経済)」という概念を紹介する。

〈CDやDVD、本などが売れにくい現代。発売した翌日にはコピーされ、ネットに出回る。アーティストや作家にとってはもはやこれらは拡販材料。「ちょうど自動車会社がグランプリレースを後援して自社の車のイメージをあげるのと同じように、創作物は、宣伝によって、間接的にカネを稼ぐ必要がある」(『The Accidental Theorist』)。

むしろ有名になることが第一義で、セレブになってからコンサートや講演、各種の権利金で稼ぐ、という意味合いだ。〉

「芸人」も、この新しいビジネスモデルの波に乗っている。

〈(セレブリティー・エコノミー論の提唱者であるポール・クルーグマン氏は)巨大IT企業が収益独占する資本主義の末路と、エンターテインメント業界の傾向は同じという持論だ。

 いわば芸そのものではなく、有名性がカネを生み出す仕組み。日本でも、芸人が鋭敏な感性で時代の空気を読み、芸人の毒から、範となるべき「有名人」へとシフトしている可能性はある。芸能の民ではなく有名人ならば、世間が道徳を求めるのも、筋は通っていることになるか。〉

▼その結果、日本社会も〈お笑い芸人のトップにいる松本人志が、役者としてのピエール瀧について「素晴らしい演技をしていたと思ったら、それはある種ドーピングなんですよ」と否定する〉時代になった。

公序良俗を嗤(わら)い飛ばしてのしあがってきた人間が、公序良俗の権化(ごんげ)となり、「上に向かって堕落した」醜態(しゅうたい)と、彼らの放言を楽しむ人が多い現状である。

「ウケるかウケないか」という基準のみで社会問題にコメントし続けて恥じない、見るも無惨な体(てい)たらくも、彼らの厚顔無恥(こうがんむち)の極みも、「有名人経済」の枠組みで見つめなおすと、納得できる点も多い。

▼もはや「芸」で飯を食うのではなく、「有名」で飯を食うのだ。のしあがったら勝ちである。これまで必死になって考えてきたネタを捻(ひね)り出す必要もなくなる。結果、芸は腐っても、食っていけるようになれば、そこに安住するのも人情だろう。そういう「元」芸人の顔が、何人か思い浮かびませんか?

彼らは「芸人」ではない。「有名人」である。

▼芸人が道徳を論じても、犯罪者を糾弾しても、同業者を安全地帯から罵(ののし)っても、「それで儲かるのだから」、それでいいのだ。

彼らは契約先から、「芸人」ではなく、「有名人」として扱われるわけだ。

有名になった者勝ち。この法則は、必ず今のこどもたちの行動規範に刻まれていく。

そうした社会の行く末は想像もつかない。

(2019年6月4日)

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