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「依存症」は「否認」の病であり、「孤立」の病である件

▼2019年6月8日付の日本経済新聞に、「依存症」を知るための書評が載っていた。評者は松本俊彦氏。見出しは、

〈依存症は他人事ではない/孤立の病との視点が重要〉

筆者なりに一文に要約すると、

さまざまな依存症は「否認の病」であり、「孤立の病」でもある

ということが書いてある。

▼書評の冒頭を引用する。適宜改行。

〈近年、有名芸能人の薬物事件が起こると報道が過熱しがちだ。ワイドショーは連日その話題で持ちきりとなり、リンチさながらの非難の嵐に晒(さら)される。

そのような残忍な番組が許されているのは、「依存症」を病気の観点から考える人が少なく、たとえ考えたとしても、多くの人にとっては他人事(ひとごと)だからではないだろうか。

 だが本当に他人事なのか。日々のニュースを眺めていれば、芸能人の暴行、政治家の暴言、アスリートの窃盗、公務員の公金横領のように、背後にアルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症が疑われるケースは枚挙にいとまがない。

親族の集まりや同窓会で、「もしかして……」と気がかりな噂を耳にする経験は、誰しも一度や二度あるはずだ。〉

▼松本氏の考えについては、今年の3月にメモしているのでご参考に。

リンチさながらの非難の嵐」に好奇心を煽(あお)られ、「残忍な番組」を許し、感情ポルノとして人の苦しみをお手軽に消費して、数日経てばニワトリのようにたちどころに忘れる人々がこれらの記事を読めば、反感を覚えたり、敵意を抱くかもしれない。

人は、自らの無知と偏見には気づきにくいし、聡明にも、己の愚劣さや無知蒙昧ぶりに気づいたとしても、認めにくく改めにくいものであることを、自戒を込めて記しておきたい。

▼さて、松本氏は以下の5冊の本を列挙している。いずれも名著である。

▼『依存症からの脱出 つながりを取り戻す』(信濃毎日新聞取材班、海鳴社、2018年2月)

▼『ダルク 回復する依存者たち――その実践と多様な回復支援』(ダルク、明石書店、2018年6月)

▼『万引き依存症』(斉藤章佳、イースト・プレス、2018年9月)

▼『その後の不自由 「嵐」のあとを生きる人たち(シリーズ ケアをひらく)』(上岡 陽江・大嶋 栄子、医学書院、2010年9月)

▼『愛着障害としてのアディクション』(フィリップ・J・フローレス、日本評論社、2019年1月)

▼上記の5冊は、依存症について知りたい人がいたとすれば、この順番に手に取ればいいように並べられていると思う。

筆者が注目したのは、2010年刊行の『その後の不自由』以外は、すべて2018年以降の刊行だという点。「依存」の問題は、ここ数年で急激に社会問題として認識され、心ある人々が対策に取り組み始めたことがわかる。

▼詳しくは本文を読めばいいが、二つほど目についた書評を抜き出しておくと、まず、『依存症からの脱出』についてのコメント、

〈依存症とは孤立の病であり、依存症からの回復とは人とのつながりを取り戻すことであるという視点は、今後社会で共有すべき新しい依存症認識だ〉

次に、『万引き依存症』についてのコメント、

〈困った人は実は困っている人ということが明らかになる。〉

が鋭いと感じた。

▼このごろ、依存症は「否認の病」だと繰り返し書いているが、松本氏の結論は、短くて読み手の心をえぐる社会論になっている。

〈否認は個人だけの現象ではない。社会もまた否認する。

「わが家、わが社、わが国には問題はない、あってはならない」と。

「ダメ、ゼッタイ。」というスローガンはまさにその典型だろう。まずは、正しく知ることだ。〉

▼社会全体がなにかを「否認」している、とすれば、その社会は無意識の裡(うち)に「孤立」している可能性もまた高い。

飽(あ)きもせず、自らも無知も無恥(むち)もかえりみず、病人に対して繰り返される「リンチさながらの非難の嵐」や「残忍な番組」

それらを仮に「他罰(たばつ)依存症」と名づけるなら、他罰依存症は、日本社会そのものの「孤立」の証(あか)しかもしれない。

(2019年6月9日)

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