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ブラウニング『普通の人びと』を読む 虐殺を正当化する論理

▼梅雨時に読むと気が滅入(めい)る本を紹介する。

クリストファー・R・ブラウニング氏の『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊 』(谷喬夫訳、ちくま学芸文庫)。1600円+税。

▼それにしても、文庫本はずいぶん高くなった。映画1本と同じ値段である。しかし、出来上がるまでにかかった手間を考えると、本とはずいぶん安いものだ。

▼この本のテーマはとてもシンプルだ。それは、「普通の人びと」がーー具体的には普通の中年のドイツ人たちがーーなぜ大量虐殺をするようになったのか、というものだ。

▼ナチスドイツの警察予備大隊が、ポーランドで3万8000人のユダヤ人を殺し、4万5000人超を強制移送した。

なぜか。

500頁を超える太い本のなかから、半頁ほどを紹介しよう。ある隊員の証言の分析である。適宜改行。

〈自分が銃殺に荷担しなくても、いずれにせよユダヤ人の運命が変わることはなかっただろうという安易な合理化に加えて、警官たちは自分の行動に対して別の正当化を編み出した。

なかでも、おそらく最も驚くべき合理化は、ブレーマーハーフェンから来た35歳の金属細工職人であった。〉(128頁)

▼それは、どんな論理なのだろう。彼は、

〈私は努力し、子供たちだけは撃てるようになったのです〉

と語る。

〈母親たちは自分の子供の手を引いていました。

そこで私の隣の男が母親を撃ち、私が彼女の子供を撃ったのです。

なぜなら私は、母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけないのだと、自分で自分を納得させたからです。

いうならば、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです。〉

▼「おれが殺してあげることがこの子にとっての解放なのだ」と、35歳の金属細工職人は一生懸命に考えたのだろう。

しかし、明らかなことはーーこれは「戦争」という言葉の裏に、決して剥(は)がせない粘度でへばりついているのだがーー〈明らかなことは、警官たちが自分の立場について持つ関心は、同僚からどう見られるかであり、それは人間として犠牲者と繋がっているのだという感情よりも強いものであった。

そこでユダヤ人は、警官たちのいう人間の義務や責任の輪の外に立たされていた。〉(129頁)

▼戦争は、「誰が人間なのか」という問いをスルーする。戦争とは、そういうものだ。

ブラウニング氏は、この中年職人の「合理化」は、とても非合理的な結論に至っていることに注目する。

〈この陳述のもつ充分な重み、そしてこの警官の言葉の選択の重要性は、ここで「苦しみから解放する(release)」といわれている言葉のドイツ語は erlosen であり、宗教的意味に用いられると、「救済する(redeem)」あるいは「救い出す(save)」ことを意味するのだと知らなければ、完全に正しくは理解できない。

「苦しみから解放する」者は救済者(Erloser)ーー救世主(the Savior)ないし救い主(the Redeemer)、なのである!〉(129頁)

▼極限状況でどう行動するのか、という問いは、「普通の人びと」にとって、極論なのだが、極論によって人生の意味が浮かび上がる場合がある。

というよりも、人生の意味は、極論によらないと浮かび上がらないものかもしれない。

▼著者のブラウニング氏は、1992年のあとがきを、次のように締めくくっている。

〈現代世界では、戦争と人種差別主義がどこにでも跋扈(ばっこ)しており、人びとを動員し、自らを正当化する政府の権力はますます強力かつ増大している。

また専門化と官僚制化によって、個人の責任感はますます希薄化しており、仲間集団は人びとの行動に途方もない圧力を及ぼし、かつ道徳規範さえ設定しているのである。

このような世界では、大量殺戮を犯そうとする現代の政府は、わずかの努力で「普通の人びと」をその「自発的」執行者に仕向けることができるであろう。わたしはそれを危惧している。〉(360頁)

▼恐ろしいのは、この本を読んで心を痛める人が、この本の登場人物と同じ行動をしない保証がない、ということだ。

民主主義の普及と、インターネットの進化によって、「普通の人びと」の範囲は無限に広がっている。

(2019年6月23日)

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