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「平均」がわからない大学生が増えている件 文系と理系とAIと(3)

▼「平均」という言葉の意味がわからない大学生が増えているそうだ。いくらなんでもそんなことはないだろう、と思う人もいると思うが、くわしく知ると納得せざるを得ないと思う。「中央公論」2019年4月号から。適宜改行。

新井 たぶん「平均を求めなさい」と言われたら、すべての数字を足して、その数字が何個あるかという数で割るというのは、高校生でもみんな分かっている。

だけど、国民所得の平均がたとえば300万円くらいだと言われると、全国民の真ん中くらいの所得の人の年収が300万円くらいだと思っているところがあって。

実際はホリエモンとかZOZOの前澤友作さんみたいな人が数値を押し上げていて、平均値、中央値、最頻値は違うということが分かっていない。平均っていったい何なのか知らないけれど、平均は求められる。つまりただの計算機のようになってしまっていることを意味していると思います。

上田 そうですね。計算して終わりじゃなくて、その数字を知ったあなたはどうするのかといった問いと関連づけて考える習慣があればそうはならないでしょう。世界を知りたいとか、この世界をなんとかしたいというパッションがスパッと抜け落ちていますね。

新井 これでは自分の持っている知識と社会を接地できない。社会と接地できない知識はAIに取って代わられてしまうんですよ。エクセルがあれば平均は求められるんだから、人間は平均の計算をしなくていい。

平均と最頻値と中央値を見た時に、ここにはこういう問題があるに違いない、と考えることのできるリアリティこそが人間に求められているけど、そのリアリティが希薄になってしまっています。〉(34-35頁)

▼「人間とは何か」という古典的な問いが、21世紀にはあらためて問われている、という現状がよくわかる、けっこう深刻じゃん、と筆者は思った。「人間のAI化」が進めば、もう一歩踏み込んだ問いである「誰が人間なのか」が、誰の目にもわかるかたちで問われ始めるかもしれない。

▼上記のやりとりを読んでいて思い出したのは、鶴見良行の傑作『バナナと日本人』(岩波新書)である。

▼『バナナと日本人』の副題は「フィリピン農園と食卓のあいだ」だ。

たとえばこの、「異国」と「自分自身の食卓」との「あいだ」を「見る」ことができる力ーーそれは新井氏が言う「知識と社会を接地」させる力であり、上田氏が言う「この世界をなんとかしたいというパッション」に直結する力でもあり、「行間を読む」力でもあり、決して自然に身につく力ではないーーが、身についているのかどうか。いまの大学生の「リアリティ」を測る際の、一つの判断基準になると思う。(つづく)

(2019年3月17日)

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