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終戦記念日の新聞を読む2019(2)愛媛新聞「地軸」~言葉の底を読み解く

▼読み解く、という言葉の意味を考えさせてくれるコラム。2019年8月15日付の愛媛新聞「地軸」から。

▼冒頭は〈わが子を胸の下にかばい守ろうとした母親の姿は、皆の脳裏に焼き付いていた。広島市の原爆資料館には黒く焦げた親子の遺体の絵が何枚もある。〉

このコラムでは、広島市立大広島平和研究所教授の直野章子氏の知見が紹介されている。直野氏は「『原爆の絵』と出会う」(岩波ブックレット)の著者。

〈被爆直後の「地獄絵」は見る者に疑似体験を迫る。その心地悪さから逃げるため分かったような気になってはいないか。被爆者の心の涙が見えていないことを謙虚に受け止めるべきではないか〉

▼そして、以下がこのコラムの肝(きも)である。

「遭うたもんにしか分からん」。被爆者のこの言葉は拒絶しているのではない、と直野さんは読み解く。その体験は想像すらできない。だが、原爆の惨禍について私たちが分からないままでいられるよう願い、被爆者は体験を証言するのだという

▼「(お)うたもんにしか分からん」という一言を、字義通りに読んでみれば、原爆の被害に遭わない人には、遭った人の気持ちは絶対にわからない、という「拒絶」の意味にとらえる人もいるだろうし、「あ、所詮、自分とは関係ない出来事なんだ」ととらえる人もいるだろう。

しかし、「原爆の惨禍について私たちが分からないままでいられるよう願い、被爆者は体験を証言するのだ」という読み方があることを、直野氏は提示する。

▼この10年ほどで、文芸批評の英仏独の原書がさっぱり売れなくなった、と知り合いの古書店主が嘆いていたが、たとえば文芸批評は、間接的に、こうした「読み解く」力を鍛えるのに役立つと思う。経済合理性や、グローバルスタンダードや、「コスパ」や、「生産性」とは縁遠いけれども、「生きる」ために必要な力、として。

▼さて、「(お)うたもんにしか分からん」という一言は、必然的に、上記のように読み解く以外にないと思うのだが、以下は書くのも憚(はばか)られるが、被爆の証言者の方々は、「遭った人」と「遭っていない人」との分断を目的としているわけではない。

原爆の地獄が二度とこの世に現れないようにする。誰の頭上にも原爆が二度と落されないようにする。これが証言者の目的なのだ。それ以外の目的など、あろうはずがない。

▼いっぽうで、「遭った人」の心を、「遭っていない人」が理解することは、不可能ではないが、至難である。

だから、どう考えてもそれ以外に目的はないはずなのに、まったく異なる目的に読み替えてしまう人がでてくる。

言葉というものは恐ろしい。なんとでも理屈をへばりつけたり、なすりつけたりすることができる。「間違いではないだろう?」「そうも読めるではないか」「どう読もうと、人の自由だ。自由を侵害するのか」と。すべての存在をかけた証言が、拒絶の理由づけとして利用されたり、無関心の正当化に利用されたりする。

▼万感の書の内容を知っている、という「知」の力と、言葉を発した人の心を知る、という「知」の力とは、同じ「知」という言葉で表現されるが、まったく別の位相に属する。

いわゆる「教養」とは、後者に属するものであると筆者は考える。(つづく)

(2019年8月19日)

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