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ハンセン病の安倍総理謝罪を「同情の論理」で終わらせるな(2)

※今号は、映画「砂の器」のネタバレになっているので、お気をつけください。


▼映画の「砂の器」を見たことのある人は、ラスト40分以上にわたり、断続的に描かれる「音楽のみ、台詞なし」の有名なシークエンスが忘れられないことと思う。ここ数年、インターネット内で流行っている「なんとかかんとかで涙が止まらない!」式の宣伝文句は、この渾身のシークエンスの前では恥ずかしがって姿を隠すだろう。

「言語を絶する差別」を描くために、映画の最大の見せ場から「言語」を削除したのだ。松本清張の原作では描くことのできない、映画だからこその見事な表現である。

▼映画のなかで、ハンセン病の患者が、住み慣れた地で猛烈な差別を受けた直接的な描写はない。

刑事役の丹波哲郎の、切々たる語りに挟まれて、少年時代の犯人と、ハンセン病の父と、二人で物乞いをしながら延々と流浪する情景の数々が胸に刺さる。誰にも頼ることのできない二人は、春夏秋冬、とても美しい日本の風景に包まれながら、有形無形の暴力を受け続けるのだ。

▼心ない子どもたちの虐(いじ)め、無視、蔑(さげす)む眼差し。

父親が殴られ、息子が崖から突き落とされて額を割られ、村から追い出される場面では、以下のような村の立札(たてふだ)がスクリーンに映る。

〈告

一、押賣・乞食・物貰

一、傳染病人・變質者

一、其の他村人に危害を加ふる恐れのある者

村に入る事を許さず

古都村 村長〉

この立札には、一本の立札の背後に、どれほどの、国家を挙げての差別政策と、社会のすみずみまで浸透していた根深い偏見があったのかが、濃い色で滲(にじ)んでいる。

▼なぜ犯人は、最も自分たちに親切にしてくれた、緒形拳演じる村のお巡りさんに、時を経て、手をかけねばならなかったのか。あの「無言」の流浪のシークエンスは、その答えを雄弁に示している。

「日本という国そのものが、そして日本の社会そのものが、あらゆる手を使って、俺たちを差別していたのだ」と。「誰も、信頼できるはずが、ないじゃないか」と。

▼差別は人間を破壊する。人間の心を破壊する。映画のなかで起こる二つの「死」は、その「本当の原因」が、はたして何だったのか、観る者に鋭い問いを差し出す。

ハンセン病の患者と家族が、わずか数十年前の日本社会で、どのような扱いを受けていたのか、当時、「らい病」という一言が、どれほどおそろしい「破壊力」を持っていたのか、ハンセン病の歴史について知ろうと思う人にとって、映画「砂の器」は入門篇として、オススメの所以である。

▼ここまでで1000字を超えてしまった。共同通信編集委員の中川克史氏による解説記事が、「砂の器」の心象風景は、まったく過去の話ではないことを示している。筆者が読んだのは2019年7月17日付の琉球新報。

見出しは

〈ハンセン病家族勝訴確定 政府だけの責任ではない〉

次回、紹介する。(つづく)

(2019年7月18日)

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