『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む その2

▼きのうに続いて加藤陽子氏の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』の読みどころを紹介しておきたい。

▼本書は、近代日本史、現代日本史を知りたいと思う人にとって、優れた先行業績のエッセンスの索引にもなっている。「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」「満州事変と日中戦争」「太平洋戦争」と、知りたいところから読み始めてもOKだし、それぞれの歴史研究の参考すべき成果にたくさん触れているから、簡単な研究入門にもなっている。また、本書は「日本を中心とした天動説」(12頁)を徹底的に相対化する講義にもなっている。

それにしても、日本の近代史は、つくづく戦争の歴史だ。

▼さて、きょうも「鳥の目」と「虫の目」の切り口で、一つずつ面白い箇所に触れておこう。

まず「鳥の目」。それは「憲法」の話である。

▼加藤氏は、リンカーンがなぜ、南北戦争の悲惨な犠牲の後、あの有名な「人民の、人民による、人民のための」という演説をしなければならなかったのか、という秀逸な問いを立てる。そしてこどもたちに25文字くらいで答えを書くように課題を出す。

模範解答例は「戦没者を追悼し、新たな国家目標を設定するため」。これは、問いと答えだけを見ても、何も面白くない。ここでは省略した、模範解答例に至る問答がとても面白かった。

▼加藤氏は、このリンカーンの「人民の、人民による、人民のための」が日本国憲法の前文に正確に反映されていることに触れる。

と同時に、「歴史は数だ」という言葉から、戦争が、次の時代の社会を変える方程式のようなものを見出す。

〈戦争を革命に転化させてしまったレーニンという政治家が述べた「歴史は数だ」との断言は、戦争の犠牲者の数が圧倒的になった際、その数のインパクトが、戦後社会を決定的に変えてしまうことがあることを教えていると思います。帝政ロシアが倒れたのも、第一次世界大戦の東部戦線を担ったロシア側の戦死傷者の多さを考えなくては理解不能でしょう。

 そうなりますと、日本国憲法を考える場合も、太平洋戦争における日本側の犠牲者の数の多さ、日本社会が負った傷の深さを考慮に入れることが絶対に必要です。もちろん、こうした日本側の犠牲者の数の裏面には、日本の侵略を受けた多くのアジアの国々における犠牲者数があるわけですが。

 日本国憲法といえば、GHQがつくったものだ、押し付け憲法だとの議論がすぐに出てきますが、そういうことはむしろ本筋ではない。ここで見ておくべき構造は、リンカーンのゲティスバーグでの演説と同じです。巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となるという真理です。

 憲法といえば、大日本帝国憲法のような「不磨(ふま)の大典(たいてん)」といったイメージが日本の場合は強いかもしれませんが、ゲティスバーグの演説も日本国憲法も、大きくいえば、新しい社会契約、つまり国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を、広い意味で憲法というのです。

 ゲティスバーグ演説の“people”の部分も、日本国憲法の「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」にも、こうした強い理念を打ちださなければならなかった、深い深い理由が背景にある。太平洋戦争における日本の犠牲者の数は、厚生省(当時)の推計によれば軍人・軍属・民間人を合わせて約310万人に達しました。〉(42-44頁)

このくだりを、加藤氏は一言で要約している。いわく、

「膨大な戦死者が出たとき国家は新たな“憲法”を必要とする」

とても明快な方程式だ。加藤氏が指摘した

「巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味での憲法が必要となる」

という厳粛な真理の前では、たしかに「押し付け憲法」論は本筋ではない。負けた国の憲法が新しくなるのは必然だった。

この議論は、少し頁を進めると、同じ真理が別の言葉で言い換えられている。読者は、18世紀にルソーが唱えた

「戦争とは相手国の憲法を書きかえるもの」

という衝撃の真理にたどり着く。ぜひ本文をたどってほしいところだ。

▼もう一つの切り口、「虫の目」について。

あるこどもが加藤氏に、「たくさんの戦死者が出ているのに、その被害が日本全国に伝わらなかったのはどうしてですか」という素晴らしい質問をする。その答え。

前線の兵士は、月に一回くらいはハガキを出すことができた。

〈それがあるときからぷつりとこなくなる。たとえばニューギニアには第18軍が送られますが、10万人いた兵隊のうち9万人が飢えで死にます。故郷では、だんだんと、おかしい、お父さんから手紙がこない、隣の村の誰々さんの家もそういっていたなどと話が伝わってゆく。このように、ごくごく限られた地域では、近所の人々の話から、故郷から出立した軍団が壊滅的な打撃をこうむったことは想像できるはずですね。

 ところが、ここからが問題なのです。ある地域に限っては、たとえば、新潟県や宮城県などの新聞には第18軍関係の戦死者の名前と人数は出る。地域にとってお葬式は大事ですから。でも、日本のそれ以外の地域には情報が伝わらない。これは検閲制度の専門家・中園裕(なかぞのひろし)先生が明らかにしたのですが、地方紙の地方版に載った戦死者の情報全体を合計することはできないようになっていた。

 だからそれこそ自動車で走り回って、すべての県の新聞の地方版の一カ月単位の戦死者数を合わせれば、全国規模のその年の戦死者数の合計がわかるはずです。しかしそういうことをやれた人はいないでしょう。警察につかまってしまう。全国紙を読んでいただけでは「特攻に行きました」という飛行士の顔写真は載っていても、ニューギニアで、ある地方の師団が9割戦死しているというのはわからないのです。国民全体が敗戦を悟らないように、情報を集積できないようなかたちで戦争を続けていた。それが1944年の情況でした。〉(455-456頁)

▼読んでいて暗い気持ちになった。じつに合理的な計算を、軍という官僚組織は、行なっていたわけだ。しかし、きのうの繰り返しになるが、〈日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることができなかった国でした〉。

▼この、戦死者数が合計できないからくりの直後に、加藤氏は株価の話をもってくる。じつに面白い。

〈しかし、国民もさるもの、民の部分では、なんらかの情報が流れていたと感じさせるのは「株価」の話ですね。

 --え、株価って、戦時中に株式市場が開いていたんですか?

 そう、ギョッとするでしょう。開いていたんですね。これも吉田裕さんの本に書かれているエピソードなのですが、45年2月から、軍需工業関連ではないもの、これは当時の言葉で民需といったのですが、民需関連株が上がります。具体的には、布を機械で織る紡績関連の株などが上がりだしたというのですね。戦時中では上がるはずはなかった。こうした株に値がつきだす。つまり、そのような株の買い手が増えてくるということです。船舶もどんどん撃沈されて、43年あたりからは民間の船などはもう目も当てられない惨状になる。船舶を建造する鋼材も走らせる燃料もない。発動機もない。それなのに船舶関連の株が上がってくる。これはなにか、戦時から平時に世のなかが変化するのではないか、そのような見通しを確かに立てた人間がいて、株価が上がっていったのではないかと考えられます。〉(457-458頁)

▼すごい話だ。この株価の話を読んで、思い出した話がある。宮本常一の本に書いてあった、戦争中の話だ。株の話ではないけれども。それはまた今度。

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』は、〈過去を正確に描くことでより良き未来の創造に加担するという、歴史家の本分〉(484頁)に則り、忠実に研究を続けている人が、未来のこどものために残した、渾身(こんしん)の歴史書だ。「日本」の今を知る手がかりとして、読まない手はない。強くオススメする。

(2019年2月3日)

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