誇るものがない時、人は「内向き」になる件
▼「グローバル」という言葉が普及するにつれて、日本社会は「内向き」になっていった。その傾向が元号にもあらわれた、というお話。
朝日新聞の2019年4月26日付、社会学者の大澤真幸氏へのインタビューから。
〈元号ブーム 内向きの「誇り」/世界に広げられぬ日本の固有性〉
「元号という仕組み自体が中国由来ですし、すでに多くの人が指摘しているように万葉集の典拠になった部分が中国の古典を参照している。にもかかわらず、国書である=私たちだけのものである、と強調された。内向きの話であることがもはや前提になっていたわけです」
▼いまの日本社会は「内向き」とよく言われるが、「私たちだけのもの」という表現の補助線を引くと、「内向き」のイメージがよりくっきりする。
大澤氏は、いまの「日本人」の精神状態を「『私たち』を誇りたい。でも、世界に向けて声高に叫ぶことはない。この矛盾のため、結局自分たちの内側だけで、盛り上がってしまう」と分析する。さらに、「文化」を通して日本社会の特徴を浮き彫りにする。
〈ーー「令和」の発表でも、安倍晋三首相が日本の美しさを強調していました。
「むしろ自信のなさです。20世紀の終わりに日本のポップスを、日本でJポップと呼び始めましたが、それに近い。
歌謡曲とは呼ばずにポップスという世界的な文脈に置きながら、でもやっぱり『J』を付ける。世界に誇る日本の歌謡曲だ、とは言わずにJポップ。西暦という世界時間を生き、外からの視線の中で評価されたいという日本のナショナルプライドの持ち方が反映されている」〉
▼そういわれてみれば、「Jポップ」という奇妙な呼称も納得できる。「Jポップ」が世界の中でガラパゴス化しているのは、「名は体を表す」ということだ。
上記の指摘を違う表現でいうと、今回の元号への愛着は「虚勢に近い感覚」ともいう。また違う表現でいうと「『日本』性を外に広げていく回路を見つけられない」ということでもある。
いわく、「日本の特殊性を固有性として誇るだけでなく、そこにいわゆる世界標準を変えるような普遍性を持たせないと地に足がついた自信になりません」。そのお手本が野球のイチロー氏である、と。とても説得力がある。
そして、最もこわいのは、日本が「もはや経済すら世界に誇れなくなったとき」に、どうなるのか、というところである。
現状からこの近未来を想像するに、怖ろしくてプルプル震えるが、早晩そういうときが訪れるだろう。そのときまでに「日本の固有性」をどうやって「外」に開く回路をつくるか。この問題提起で大澤氏のインタビューは終わる。
ただ限界を指摘するだけでなく、処方箋=論理を示す。考えさせられるいい記事だった。
(2019年5月17日)
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