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『沈黙の壁 語られることのなかった医療ミスの実像』を読む(1)

■「蚊」ではなく「水たまり」を探せ

▼医療ミスについて書かれた良書を一冊紹介したい。『沈黙の壁 語られることのなかった医療ミスの実像』。医療従事者ではない著者二人がまとめた、アメリカの医療ミスについてのルポである。

共著者の一人は経済社会調査研究所の準研究員、ローズマリー・ギブソン氏。もう一人は世界銀行のエコノミスト、ジャナルダン・プラサド・シン氏。

2600円+税だったが今は品切れか。下のアマゾンの表示だと、なぜかアップ時点では8196円になっているのだが、実際にアクセスすると中古で数百円で買える。適宜改行。

▼〈「危険な行為は蚊のようなものです。一匹なら手で叩き潰せても、次から次へと湧き出てきます。唯一有効な対策は蚊を繁殖させている水たまりをなくすことです」と、人為的ミスについての研究者ジェームス・T・リーズンはこう指摘する。

医療ミスを育てている「水たまり」は安全性を考慮せずに設計された医療機関のシステムや組織である。

過重労働を強いられている医療スタッフ、同じ患者のケアに携わる職種の違う担当者間の不十分なコミュニケーション、個々の医療従事者が起こすミス、医師や看護師さらに管理者に省力化と合理化を迫る予算の制約などが水たまりをつくっているのだ。〉(93頁)

▼蚊と水たまりのたとえは秀逸だ。もしかしたら、「威張る官僚」の増加も、「ネトウヨの増加」も、「いじめの増加」も、「児童虐待の増加」も、このたとえと同じような「水たまり」があるのかもしれない。

■「看護」は「金銭に換算」できない

▼医療ミスをなくすためには「構造的な改革」が必要なのだが、本書では、「経済学」の観点からみたときに見えてくる問題が、たくみなエピソード配置によって浮き彫りにされていると感じた。

たとえば、複数の病院の「組織改革」を手掛けてきた、やり手のコンサルタントの証言。

〈米国の指導的な看護師として知られるクレア・ファギンは、2001年度のミルバンク記念財団の年報にこんな寄稿をしている。

「あるとき一人の男性と話す機会があった。話しているうちにわかったのは、彼が以前かなり有名なコンサルタント会社にいて、いくつもの病院の組織改革にかかわってきたことだった。私が看護師をしていると知ると、やや控えめな調子で『僕はいわゆる悪い奴の一人でした』と言った。

彼は、自分が当時いかに『怖いもの知らずの危ない』人間で、仕事とはいえ病院の組織再編にどれほど罪深い提案をしてきたかを話してくれた。

その彼が医療を見る目を変えたのは、妻が産んだ子が長期にわたって新生児集中治療室の世話になったときだったという。

妻とともに病院で何日も何時間も過ごす間に、自分たちの子どもの小さな生命を助けようと立ち働く看護師の姿をつぶさに見聞きすることになった。その経験が彼に、看護師とは何をする人たちなのか、その仕事がいかに重要なものかを理解させてくれたのだと彼は語った。」〉(131頁)

▼この元コンサルが言った「怖いものしらず」とは、どういうことだろうか。それは、少し後の箇所で、〈その価値にいくら払うか〉という見事な小見出しに要約されている。

〈西海岸の医科大学の学長として知られた医師が、がんのために手術と化学療法の厳しい試練を受けなければならなくなった。後輩に当たる医師が彼に闘病経験から学んだことはあったかとたずねた。

彼の答えは、「看護師に敬意を払うことだよ」だった。医師として彼が看護師とどういう協働関係をつくろうとしてきたかはわからないが、入院経験をして初めて看護のもつ価値を実感したのである。

死と向き合うことは人を一個の人間に戻す偉大な経験なのである。(中略)

看護師は医療サービスのきわめて大きな部分を担ってきたし、いまも担ってはいる。医療ビジネスは、看護師の自主性に任せてきた患者へのサービスがもつ価値を適切に金銭に換算できないために、看護をコスト削減の対象にしている。とはいえ、看護サービスに価格をつけられる者も、その価値を金銭に換算できる者もいまだにいないのだ。

 このジレンマの責めを医療システムだけに負わせることはできない。医療は、その社会の意思と価値意識を反映しているものでもあるからだ。米国社会は、人びとを教育し、ケアし、育てる専門職の価値を低く見ている。これら三つの領域の職業がしだいに女性に占められるようになっているのも不思議なことではない。金銭は米国の文化を支えている重要な柱であり、人の価値を決めるものになっている。〉(140頁)

▼そのサービスの価値を「適切に金銭に換算できない」から、計算できないので、「コスト削減」の大義名分で削る、という現実は、医療にかかわらず、現代生活のあらゆる場面でみられるといっていい。

■「人生」は「交換」できない

▼どの分野でも、この認識から一歩踏み込むと、無限の議論が起きるだろう。その前に、上記の文章を読んだ人が一つだけ共有できることがある。

それは、経営判断する立場の人たちが、あるサービスについて〈価格をつけられる者も、その価値を金銭に換算できる者もいまだにいない〉という深刻な能力不足を抱えていたとしても、彼らの無能はそのサービスを削る理由にはならない、ということだ。

ただし、彼らは、自らの無能に気づいていない場合は、そのサービスを簡単に削って、自らの「コスト削減」の能力を誇るだろう。

それが「怖いもの知らずの危ない」所業であることに、気づく人と、気づかない人との違いは、どこにあるのだろう? おそらくそれは大学入学時の「偏差値」とはあまり関係ないのだろう。

▼この問題を、「交換価値」と「経験価値」の腑分けによって見事に描いているのが、最近話題になっている、ヤニス・バルファキス氏の名作『父が娘に語る経済の話』だ。

この本は人間そのものが交換価値としてみなされるようになる「地獄の構造」を絵解きしている。『父が娘に~』については、またの機会に。

▼元コンサルの後悔の源は、病院の価値をすべて「交換価値」のみで測ったところにあるのだろう。「その人」の人生は、「その人」のものであり、誰の人生とも交換できない。この単純明快な事実は、自分の立場に当てはめてみれば簡単にわかる。しかし、じつはこれが難しいわけだ。

▼『沈黙の壁』に書かれている、アメリカならではの極端な経験譚を幾つか、稿を改めて紹介したい。

(2019年3月30日)

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