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終戦記念日の新聞を読む2019(8)~妹と母を手にかけてしまった体験

▼2019年8月15日付の県紙に、村上敏明氏の戦争体験が載っていた。筆者は四国新聞や琉球新報で見た。おそらく共同通信の記事だろう。

数年前、村上氏の告白を新聞で知った。知る人は知っているが、その数は少ない。知らない人は知らないから、繰り返して報道することにも価値がある。見出しは、

〈終戦から74年/11歳、毒で母と妹あやめた/満洲引き揚げ時、心に傷〉

〈あやめた〉というのは、〈殺した〉という意味である。

村上氏が小学5年生の時の話。母親は「こま」という名前だった。

〈(1946年には)中国共産党軍と国民党軍の間で市街戦に。芙美子さん(引用者注、村上氏の妹)をおぶっていた村上さんの目の前で砲弾が落ち、破片が頬をかすめた。同年7月ごろ、日本への引き揚げが始まったが、「帰国困難者は殺すよう日本人会などから指示があったようだった」。

家に医者や僧侶ら男性数人がやってきて、村上さんは毒と知らずに、こまさんに抱かれた1歳の芙美子さんの口にスプーンで液体を注いだ。

「その瞬間、黒い瞳が僕をじっと見つめて、即死した」。そのときの場面が映画のワンカットのように脳裏に刻まれている。

 「芙美子、芙美子」。こまさんは引き揚げのため乗った列車で体調が悪化し、うなされた。帰国船が出る港町に着くと、近くの病院に入院。数日後、村上さんは病院職員から普段の薬とは違う白い粉を手渡され、眠っていたこまさんに飲ませると、白い泡を吹いて亡くなった。34歳だった。

 翌日、丘の中腹に穴を掘り、着物と一緒に埋葬。既に感情がまひしていたのか、泣いた記憶はない。そのとき港から聞こえた船の汽笛の音だけが、今も耳に残っている。〉

▼村上氏は京都市職員として働いた。不眠症や悪夢にうなされ続けたそうだ。

筆者は戦争を美化する人を信用できない。その理由は、「戦争はこうした体験を生む」というところにある。

(2019年8月30日)

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