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「オカルト」と「看守」ーー人としての「耐性」は鍛えにくい件

▼『オカルト番組はなぜ消えたのか』(青弓社)という本を書いた高橋直子氏が、売れないとわかっていながら「なぜ書いたのか」を自ら説明している記事が、2019年3月25日付東京新聞に載っていた。適宜改行。

〈オカルト番組では、必然的に過剰な演出(やらせ)がなされ、不可避的にオカルトの異端性/反社会性を潜ませる。娯楽番組であり得たのは、テレビと視聴者の間に、真に受けず、謎やロマンを楽しむという〈常識〉があったから。だが、この〈常識〉は今、揺らいでいる。

他方、オカルトは拡張するデジタルメディアにのって、ときにフェイクなニュースの背後に隠れて、拡散している。

 不特定多数がアクセスするメディアで、真偽の判断を飛び越えて、信/不信によってのみ語られることの危うさを考えるーー本書が、その一助となれば幸いである。〉

▼この一文には考えさせられた。筆者は以前メモした、松田美佐氏の名著『うわさとは何か』(中公新書)を思い出した。

「あいまいさへの耐性」というキーワードである。

〈あいまいさへの「耐性」を持つこととは、黙ってあいまいさに耐えることではない。そうではなく、あいまいさを避けるために安易に結論に飛びつくことを批判するのである。〉

これが、『うわさとは何か』の肝の文章である。この「あいまいさへの耐性」というキーワードは、オカルト番組を「真に受けず、謎やロマンを楽しむ」ことのできる「常識」と、強くリンクする。もっと簡単な言葉で言い換えれば、「余裕」といってもいいと思う。

その社会に、個人に、オカルト的なものを受け入れる「耐性」「常識」「余裕」がなくなったら、たとえばフェイクニュースという形式を借りて、またはその他の形式を借りて、かえってオカルト的な奇妙なものが蔓延してしまうようになるのではないか。

▼たまたま同じ日付の朝日新聞で、まったく異なる分野の、しかし人としての「耐性」や「常識」や「余裕」について考えさせられるコラムが載っていた。北川学記者による〈マンデラ氏と看守の友情〉。

〈(南アフリカの大統領を務めた)マンデラ氏が2013年に亡くなるまで交流を続けた白人の元看守がいる。クリスト・ブランドさん(59)。高校を卒業した78年に採用され、ロベン島に赴いた。

 「上司は黒人の囚人を極悪人と呼んでいましたが、会ってみるとみんな謙虚で、私にも敬意をもって接してくれました。肌の色で人を判断する愚かさに気づきました」(中略)

 マンデラ氏の妻が面会に来た。生後4カ月の孫娘を連れていたが、子どもと囚人の面会は禁止だ。妻は孫娘を別室に預けて面会室に入った。話を聞いたマンデラ氏は、後ろで見張るブランドさんに「会わせてくれないか」と懇願した。

 ブランドさんは「だめだ」と答えたが、情を抑えることはできなかった。面会後、別室に戻った妻に、再び面会室に入るよう伝えた。孫娘を預かると囚人用の通路に行き、マンデラ氏に30秒だけ抱っこさせた。「彼は涙を流し、孫娘に2度キスをしました」

 以来、2人はさらに親しくなった。看守と囚人の会話は禁じられていたが、人目を忍んで言葉を交わした。〉

「肌の色による差別」を信じる人がいる。クリスト・ブランド氏は、その「信」を捨てた。

彼はマンデラ氏の孫娘を預かったその瞬間、何を信じる人だったのだろうか。

▼「それが規則だから」

「そういう決まりになっているから」

みんな、やってるから

たしかに、そのとおりなのだが。

思わぬところで、自分の、人としての「耐性」や、人としての「常識」や、人としての「余裕」が問われる場合がある。

そういう局面は、いつでも訪れうる。

ベロン島の監獄の面会室でも。買ったばかりのスマホの画面の中でも。

ただし、厄介なのは、自分が問われている現実そのものに気づかない場合が多いということだ。

(2019年4月3日)

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