見出し画像

京都の「おもてなし」の差別主義とファシズム?

京都でのカルチャー・ショック

私は9年前、京都に越してきた。

それまでは、外国生活を除けば、日本では東京に暮らしていた(足立区、練馬区、文京区、港区、中央区)。そして、京都に越す前の3年間は、北鎌倉に3年ほど住んだ。

ちょうど北鎌倉に住んでいた2011年、東日本大震災が起きた。長女がまだ1歳だったこともあり、放射能汚染が心配で、夫婦で話し合った結果、西日本に移住することに決めた。沖縄、熊本、大分、三重、京都など、知り合い(の知り合い)づてに移住先を探し回った。結局、沖縄の伊江島か京都か、ということになり、諸般の事情で京都に落ち着いた。

初めての京都暮らし。勤め先にもほど近い、銀閣寺と法然院と哲学の道のちょうど中間点にあたる所に家を借りた。

現在は同じ日本国内にあるとはいえ、東日本からやってきた者には、とても同時代の同じ国とは思えない、数々のカルチャーショックに見舞われた。

例えば、「ものづくり」の丁寧さ、洗練度。もちろん、工芸品などのそれが、日本のみならず世界でも突出した境位にあることは火を見るよりも明らかだが、それのみならず、ふだん使いの家具の「際(きわ)」、器の質感などが、視覚的、そして触覚的にも凛とした佇まいをみせる。サンドイッチの切り方一つでも、「冴える」のだ。たまに仕事で東京に行くと、周りのモノたちのつくりの「粗雑さ」に――それに慣れ親しんでいたはずだが――唖然とした。

歴史的倍音の深度

そして、(当たり前と言えば当たり前だが)日常的に出逢うものたちが奏でる歴史的倍音が半端なく深い。

長年暮らした東京を筆頭に、日本のほとんどの大規模・中規模の都市は、第二次世界大戦中に空襲に遭っている。空襲で物理的に灰塵と化しただけでなく、ほとんどの文化的な記憶も喪失した。だから、東京に暮らしていて日常的に出逢うものの歴史的倍音はどう遡っても明治時代、江戸時代がせいぜいであろう。3年暮らした鎌倉は、東京近郊では例外的に江戸時代より深い倍音を奏でるものに今でも出会えるが、しかしその深度も「鎌倉時代」以上には及ばない。

ところが、京都では21世紀の今、歩いていてもいたるところで何百年、そして千年以上の倍音を日常的に聴くことができる。京都在住の9年間中、後半の6年間は比叡山の麓の上高野という地に暮らしていたが、家のすぐ裏手には比叡山に登る登山道があり、私は時折ジョギング代わりに登っていた。登りながら、この同じ道を、もしかすると最澄を初めとして、法然、栄西、親鸞、道元などの名だたる仏教者たちが上り下りしていたと思うと、突然今ここで踏みしめている道が千何百年という時間的反響に震え始める。

あるいは、お茶の稽古に通っている大徳寺。この敷石の道もまた、千利休をはじめとした名だたる茶人がしずしずと歩を進め、そして豊臣秀吉をはじめとした武将たちが大股で闊歩していた、その影を今も湛えている。と思うと、近くには、紫式部の邸跡や墓所が何気なくあったりもする。

食べ物もまたしかり。500年以上前に上御霊神社近くで厄除けのために、薄くて仄かに甘い「唐板」という煎餅を作り始め、現在までただそれだけをひたすら作り続けている店があるかと思うと、やはり大徳寺の隣の今宮神社の境内で売られている「あぶり餅」などは、これまた厄除けにと、1000年以上前からここであぶられつづけ、食されつづけているという。口の中で「500年」、「1000年」が平気で奏でられるのだ。

京都では、「現在」時は、必ずと言っていいほど、何百年、ないし千年以上もの倍音を奏で続けている。

ある「おもてなし」の衝撃

人間の関係性の一つ、「おもてなし」をめぐっても、数々の衝撃を味わった。

そのうちの一つ。――京都に暮らし始めて早々、私はある女性の誘いで、ある「研究会」に参加することになった。その女性と、西陣織のある老舗の11代目の男性が、会のコーディネーターで、私よりも年配の多様なジャンルの教授たち(地質学、人類学など)が、4、5人参加していた。会のテーマは、かなり広い意味での「京都学」のようなものだったと記憶する。

その会は「研究会」として変わっていた。早朝に行われるのである。当然、朝食、しかも高級なお弁当がでる。(一度などは、精進料理の大家がゲストで、参加者はやにわに胡麻をすらされた!)

初めて会場(西陣のある町屋をモダンに改装した)に赴き、畳敷の広間に足を踏み入れた時、私は奇妙な光景を目にした。各々の席が充てがわれているのだが、席によって座布団だったり、座椅子だったり、高座椅子だったりと、さまざまに違うのだ。11代目が、皆さんのお体・足腰の具合を考えて、ご用意しました、と解説を加える。それを聞いて、私はさすが京都の「おもてなし」は違う。繊細な心づくしが込められていると、感心した。

当の11代目は、どのように座るのかと見ると、もちろんホストなので、立ったり座ったりだが、座っているときは、終始座布団なしで畳に直に正座している。自分だけ、座布団を使わない。これも京都ならではの「おもてなし」なのか!とまた改めて感心した。

ところが、である。後日、私はこのエピソードをある京都出身の女性に話し、さすが京都の「おもてなし」の洗練度はすごい、とほめそやしたところ、彼女曰く、それは半分は当たっているが、半分は外れている。たしかに、その11代目は、参加者それぞれの(全員京都出身ではなかった)足腰の具合の情報をどこかから仕入れ、それに基づいて座具を用意しもてなしたには違いないが、その裏面で彼は、そうして満足に正座もできない彼らを軽蔑してもいる。なぜなら、京都ではきちんとした躾を施された人、つまり茶道などの心得がある人は、幼い頃から長時間畳に直に正座することに慣れていて、苦でもない。現に、11代目自身、会の間中、そうしていたではないか。つまり、京都人からすれば、正座一つもできない輩は、きちんとした「躾」をうけていない、すなわちこの「都」の生活に必須な文化と教養を身につけていない、「田舎者」でしかない、という意識が裏に隠されている「おもてなし」だという。

なんと「マルチカルチュラル(?)」に“ねじれた”おもてなしだろう! 私はこうして京都に着いて早々、かくも繊細にひねられた差別主義=おもてなしの文化的深度に、唖然とした。

カフェの「ファシズム」

京都の「おもてなし」をめぐるもう一つのカルチャーショック。――カフェのそれである。

京都には、カフェにかぎらず、よくいえばこだわりが強い、悪くいえば極度にマニアックな店が多い。店そのものが、店主の「小宇宙」である場合が多い。週末、それも1日数時間しか開けないパン屋。酒を、大吟醸すら熱燗でしか出さない居酒屋。ラーメンを突き詰めすぎて、鰹と昆布だしだけでとったスープに、自家製麺がいっさいのトッピングなく沈んでいるだけの麺屋。などなど。

カフェもまた、店主の小宇宙であることが多い。自分の好み、立居ふるまいが、店主の趣味が統べる世界にうまく合致すれば、それこそ居心地がいい。が、もし合致しない場合は、悲劇だ。

あるカフェでは、パソコンを開こうとしたら、店主が飛んできて、通りから見えると、この店ではパソコンが使えると思われるから、どうしてもお客さんがパソコンを使いたいなら、通りを背にして開いてくれという。私は、とりあえず店主の言う通りにしたが、本当は自分にもパソコンを開いて欲しくないという思いがひしひしと伝わってくるので、なんともいたたまれなくなり、コーヒーを一口すすっただけで、店を出た。

また、別なカフェ。当時まだ幼稚園に通っていた長女と、幼稚園の近くの、前から気になっていたそのカフェに何気なしに入った。入ってしばらくして、店内には店主の他に、その息子と思しき子供がいて、客も2〜3人いるのだが、妙にしんとしている。改めてあたりを見回すと、入り口にパソコンの使用と大声での会話はお断りと書いてある。「しまった!」と思ったが、遅かった。カップに妙に並々と注がれたコーヒーは、番茶に近い濃度で、それをなるべく音を立てず、娘にも「シー」と合図しながら、店内の張り詰めた空気のなか、慎重に飲み始めた瞬間、店主がこちらにすっ飛んできた。何ごとか思うと、店主は、娘が椅子に座り直した際、座面に靴底をつけたと、クレームに来たのだ!

このカフェ的ファシズム(?)に、私はまたもや唖然とし、早々に店を出た。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?