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「広島」築城の精神は 茶道 毛利輝元流

茶の湯は、おいしいお茶を主が客にもてなし、客は感謝してこのお茶をいただき、主と客の間に心のかよいを深めていく道といえます。おいしいお茶とは、味覚だけにとどまらず、道具組の趣向、季節や歳時との呼応、主のふるまいの美しさや語りの奥ゆかしさ、客同志の心づかいといった、一座を成り立たせるまたとない一時がもたらす味わいといえましょう。

などと < もてなしの心 > について学んだ
http://www.omotesenke.com/02.html

京都北野天満宮は 1587(天正15)年 北野大茶湯(きたのだいちゃのゆ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A7%E8%8C%B6%E6%B9%AF
の史実から
http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/3-1-6-010.pdf
茶の湯政道 詫び茶の茶の湯文化 開化の地 とされる

日本に 詫び茶の茶の湯文化が開化して 間もない頃
1589(天正17)年 安芸國に「廣嶋」が 築城されることになる

翌 1590(天正18)年 関白 豊臣朝臣羽柴秀吉 による 天下統一

いままで 「広島」築城の精神は
陰暦4月15日であることから 北辰妙見信仰だとか
毛利元就の遺志 嚴島信仰 と考えてきたが
そればかりではなく
どうやら 戦国の世の終わりに 築城したこと自体が
大内(おほち)家 毛利(もうり)家の 歴史文化を
太田川で 集大成させる意味の
抹茶を 点(た)てる 詫び茶の茶の湯文化であるらしく想えてきた ☆

「広島」築城と 城下町建設とは 主と客の関係であり
<百万一心> にも通じる 広島独自の文化のはずである
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%B8%87%E4%B8%80%E5%BF%83

利休の門弟 「廣嶋」の始祖 毛利輝元は
茶の湯の一座として 太田川河口デルタを 選定した

お点前は 城主の器量 と 考えたに違いない

自然の川 太田川を 堀とした
「廣嶋」築城の精神こそが 茶人の発想でもある

広島とは < 日本列島 広い島 > の意味ではなかったのか  ――

つまり 戦国の世の終わりを告げる 日本 天下統一の 平和宣言

平和宣言での 一文字三星は
念仏 一品 天下 一品 茶禅一味 一品 を 意味したのだと想う

詫び茶人 輝元にとっての 鯉城(りじょう)とは
< 念仏天下茶禅一味一品 > を一座の掛物とする お点前の茶碗であった

神功皇后 鯉伝説に はじまる 平和の物語 鯉茶碗 は
平和文化である 詫び茶の 茶の湯文化が
< 日本列島 広い島 > の おもてなし文化として
広島独自に開化した 茶の湯文化を 象徴する

< 念仏天下茶禅一味一品 > 

輝元は きっと 鯉城主として 客を招きたかったことであろう

< 一萩二樂三唐津 >
http://www.geocities.jp/maruti2032/idochawan.html

「広島」には 三千家(さんせんけ)ではない
詫び茶の茶の湯文化が息づいている ☆
http://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/summary.asp?mid=100048&pid=bl&svalue=&bloop=&mloop=&floop=&shicyouson=&meisyou=&shitei=&kubun=&syurui=&jidai=&loopcnt=&m_mode=&m_value=&m_loopcnt=

< 茶の湯 オリンピック > までに
西の京 山口の 大内(おほち)家での 詫び茶の茶の湯文化発祥と
広島毛利輝元流の おもてなし文化について
茶の湯の 伝統文化の歴史認識を 改める必要がある ☆

南無阿弥陀仏 鯉修

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