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鷲頭氏を祖先とする 広島毛利の徳山藩

広島 おさむる 前島(まえしま)おさむ は 山口県 徳山市に 生まれた
http://www.ousamaosamu.com/profile.htm

「徳山」の歴史は 江戸時代
広島の始祖 毛利 輝元 公 の 次男 就隆 公 が
1650年 藩邸を 「下松」 から「野上」に移し
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/kudamatu.htm
その地を 「徳山」に 改称しての 徳山藩 に始まる
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/tokuyama.htm

1982年  徳山城跡に 博物館が 建設され
11月2日 博物館の日 「徳山市文化会館」開館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B1%B1%E5%9F%8E

伯父らが 寄贈した 1階ロビーにある クスノキの一本彫り
「鷲頭」の彫刻 (高さ 三・三m 幅 二・七m 奥行 一・八m)
『鷲と虎』は 広島城 西の護り 四神 白虎であり
現在 「周南市文化会館」の < シンボル的存在 > となっている ☆

お盆の 先祖供養として キミのまにまに
自分のルーツを確認することは きっと 天意に つながることだろう
https://note.com/ousamaosamu/n/n2a65025f4b25

時代は 地域創生が 大命題

歴史を耕し 「山口」 建国の精神を 発掘すると
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/oouti.htm
渡来帰化した 多々良(たたら)氏 が 本拠とした
吉敷郡(よしきぐん) 「大内御堀」(おほうちみほり)を 中心に
勢力を 拡大していき 陶氏 と
主君であった 都濃郡の 周防國 守護職 鷲頭氏を討ち
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/oouti.htm
天長4年(827年)頃 多々良 茂村 が
https://blog.canpan.info/jointnet21/archive/345
「下松」の 降松妙見社 妙見宮 を
吉敷郡「山口」に 勧請したのに始まることを知る
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520705100/3520705100100010/ht010530/ht010530

つまり 推古天皇 仏教伝来の 百済津(くだらつ)降臨松伝説 に始まる
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520705100/3520705100100010/ht020190

因みに この時 長門國の 守護職は 厚狭郡東部の勢力 厚東氏
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/kotousiyakata.htm

周防國を 統一していた 守護職 鷲頭(わしず)氏を 祖先とする
多々良氏 は 弘世 の頃から
「大内御堀」(おほうちみほり)を 拠点の 拡大勢力となったことから
大内(おほち)氏 と 呼ばれるようになっていた

大内(おほち)氏 とは 降臨松妙見社 鷲頭(わしず)氏を 祖先とし
陶氏 厚東氏 等 も含む 豪族支配の意味の 表現である

室町幕府で 周防長門 防長二國の 守護大名となった
大内(おほち)氏 は 中世 「山口」を 拠点に
おいでませ 西の京 山口時代 の 大内(おほち)家の文化を 築く

御堀堂の 「山口」外郎は この史実を
詫び茶の茶の湯の 御菓子と 共に 現代に伝えている
https://www.mihorido.com/yurai-yamaguchiuirou.html

その後 安藝國の 大江 ノ(毛利) 元就 が
主君 大内(おほち)家の 多々良氏を滅ぼし 戦国大名となり
孫の 大江 ノ(毛利) 輝元 が
領国支配の拠点を 「山口」から 佐東郡五ヶ村に移し「広島」としたが
広島開基による 広島城 築城(天正17年 1589年)は
北辰妙見菩薩の御縁日 陰暦 4月15日 であり
降臨松伝説 下松妙見の精神の遺伝子を 広島に継承している ことが解る
https://note.com/ousamaosamu/n/n6a6ebe947d9f

南無阿弥陀仏  鯉修

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