李舜臣_イ_スンシン

広島毛利藩 伝統文化の 抹茶茶碗 萩焼は 日本と李氏朝鮮との 平和のシンボル

韓国が 李氏朝鮮時代の1592(文禄元)年 豊臣秀吉の 朝鮮出兵で戦った
李 舜臣(イ・スンシン)将軍を 象徴する旗を掲げた ことに対して 
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181011/k10011667871000.html?utm_int=all_side_ranking-social_003
日本の外務省が抗議している
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181012/k10011669511000.html?utm_int=all_side_ranking-social_003

本稿では 李氏朝鮮 不滅の将軍 李舜臣(イ・スンシン)よりも
http://www.wowkorea.jp/section/interview/read.asp?narticleid=165961
「茶碗戦争」の史実を 確認しておきたい ☆
http://www.harataco.org/nagasawakama/history.html

日本の戦国時代 1590(天正18)年 関白として 天下を統一した
豊臣朝臣羽柴秀吉 による 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は
秀吉の 茶碗に対する想い入れ という背景のなかで計画されたことから
「茶碗戦争」といわれており 日本の茶の湯の歴史で 大変重要 ☆

  茶碗戦争 和議

  秀吉軍の武将小西行長と加藤清正の二人は今の平壌(ピョンヤン)の郊
  外で和議の席に着いた。李氏朝鮮軍の主席、沈惟敬は重い口を開く。

 「秀吉公は我が国の焼き物が大変お好みであると聞く。
  これにおるのは我が国の最高技術を持つ陶工の一人である。
  名を 李 勺光 と呼ぶ。
  この者をこの和議の印に秀吉公に献上する。」

「茶碗戦争」の和議として 毛利藩に 兄の 李 勺光 が 預けられ
翌年 弟の 李 敬 が来日して
< 坂 高麗左衛門 > として 萩焼の源流になった史実は
https://hagi-miwa.com/hagiyaki/#02
日本と李氏朝鮮との 平和のシンボル を物語る ☆

そして 日本の 抹茶茶碗の伝統文化は
< 一井戸 二樂 三唐津 > から < 一萩 二樂 三唐津 > へ

日朝の平和のシンボル 抹茶茶碗 萩焼は 毛利宗家の伝統文化である

< 茶道 毛利輝元流 >

茶道流祖 毛利輝元による 茶の湯は 広島文化であり
https://note.mu/ousamaosamu/n/n4df3bb7b1dc6
「広島」築城の精神 は 茶道 毛利輝元流 を
Hiroshima 未来創生として
天下一品の 抹茶茶碗 萩焼と
< 念仏天下茶禅一味一品流 > の 茶の湯を 啓発している ☆
https://note.mu/ousamaosamu/n/n36a832710f43

南無阿弥陀仏 鯉修

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