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月は紅、猫は青

こちらはきょくなみイルカさん(pixiv:user/5549962 / Twitter:twitter/42space_pol)のキャラクター原案・イラストに基づく小説です。


◇ ◇

 降りしきる雨の中、港湾地区の廃倉庫に身を預け、女が立ちすくんでいた。
「お姉さん、この街の人じゃないね」
 声をかけられた女は弾かれるように肩を跳ねさせて振り返った。雨曇りの夜の暗がりに気配もなく潜んでいた男は、ゆっくりと両腕を前に出し、頭から被っていた薄汚れたロングジャケットのフードを上げると、人なつっこい笑顔を浮かべた。そして害意のないことを示すように、何も持たない手のひらを振ってみせた。
「驚かせてごめんね。雨宿りの間だけだから静かにしてようと思ったんだけど、お姉さん、困ってるように見えたからさ」
 雨音の隙間にすべりこむような柔らかく落ち着いた声音は、しかしよく聞けば存外に細く、高い。あらわになった顔立ちも、男というよりも少年といった方がふさわしかった。
 一見して老いた男のような印象があるのは、その白髪のせいだった。一束二束ではなく、全体に真っ白な長い髪が肩の下まで伸びている。
「おれたちも余所者仲間なんだ。行く当てがないなら、おれたちが世話になってるところを教えてあげる」
「あなた『たち』?」
 女は初めて問い返した。
「おれと弟。おれはビア。弟はエイキ」
 耳慣れない響きの名だった。夜闇に紛れてわかりにくいが、褐色の肌と白い髪、そして赤みの強いあざやかな紅茶色の瞳も、この辺りでは珍しい。女の金髪と同じように、船に乗って運ばれてきた異物だった。
「あたしは……ローザ」
「きれいな名前だね」
 ローザは目を伏せた。
「あなたたちがいるところって、娼館?」
「そうだよ」
 ビアは恬淡として頷いた。
「でも客は取ってない。おれたち、そういうのはもうしないんだ。違う仕事をしてる」
 ローザは無意識のうちに自分の髪を弄っていた。鋏で乱暴に刈り込んだばかりの毛先は鋭く尖っている。
「あたしも、そういうのはやめたの。もうしない」
 言いながら心を決めたように、ローザの目に力が宿った。ビアはそう、と頷いて、紅の目を細めて微笑んだ。雨音は次第に弱まってきた。
「じゃあね、お姉さん。この街は悪くないところだよ。長くいるなら、また会うかもね」

◆ ◆

 ビアの育ての親はテロリストだった。その後少しして軍人になった。というのも、彼と弟が拾われて二年も経たないうちにその革命組織は国の軍部と手を組み、クーデターを成功させたからだ。隣国の傀儡だったという前政権と比べてマシなのかどうか、他を知らないビアとエイキには判断できなかった。
 軍服を着て勲章をつけるようになった育ての親は、気まぐれに拾った双子の孤児の処遇をどうしたものか決めかねていた。爆弾を背負わせて戦車の下に潜り込ませる機会はなかった。しかしこのまま兵士として成長させて、変に知恵をつけられるのも面倒だ……そんな風に考えていたのは明らかだったので、ある日訓練から呼び戻されたときもビアに驚きはなかった。
 パーティーについていって、育ての親の上役にあたる、とある政府高官の荷物持ちをしろと命じられた。
「今夜六時、迎えが来るから、車に乗れ。身綺麗にしておけよ」
「おれ一人? エイキは?」
「一人で十分だろ」
 育ての親はそう言って笑った。ひどく厭な笑いだった。

◇ ◇

「一人で十分だよ」
 ビアは唇を尖らせながら言った。
「本当に弟を呼ばなくていいのかい」
「羊の脚くらい運べるって。こんなことで助けてもらってたらエイキに笑われる」
「あの無表情なエイキが? そりゃいいね。次から呼ぼう」
 肉屋のサイーハはからからと笑って、羊肉を二本くるくると紙に包んでビアに渡した。ビアはそれを糸で縛って背に担いだ。
「ああ、そういえば、うちの猫がまたいなくなったんだ。見かけたら捕まえといてくれって、エイキに伝えておくれよ」
「いいよ。急ぎで人探しの仕事があるから、そのついででいいなら」
「急ぎやしないさ。どうせどこぞで餌でもねだってんだろ。鼠もろくに捕らないくせにあちこち遊びまわって、まったく、うちの亭主みたいだ」
「あははは。それ、サイーハ姐さんがすごくかわいがってるって意味?」
「生意気言ってんじゃないよ」
「お返しだよ。羊、ありがとう」

 買い物を終えて宿に戻ると太陽は完全に昇り、通りは灯が落とされていた。汚物やらを掃除している下働きの何人かが、ビアの姿を認めて挨拶する。ビアはそれに応えて手を振る。
 海の男たちや客引きがひっきりなしに行き交う夜の間の狂乱が嘘のようだ。昼日中はこの通り一帯、呆けたように静かで白々しい。
 裏路地の娼館の二階、街路に面した一番奥の部屋には明かりがついたままだった。ビアは階段をとんとんと上がっていった。
「おはよう、エイキ。昨夜は何か見つかった?」
 背を丸めて部屋の隅の作業机に向かっていたエイキが顔を上げた。赤目に白髪、細作りな手足までもビアによく似ているが、こちらは耳の下あたりで髪を短く切っている。
「何も。北港にいたのはただのジャンキーだった」
 平坦な声とともにビアを一瞥したエイキは、夜通しの調査にもさしたる収穫のなかったらしいことを見て取ると、またナイフと砥石に向き直った。
「ふうん。やっぱり河岸を変えたのかな」
「そっちは」
「同じく。でも新しい仕事を頼まれたよ。サイーハ姐さんのところの猫がいなくなったらしい」
 エイキは手を止めた。
「あそこもか。井戸のところに居ついてる青猫のチビたち、今朝二匹とも来なかった」
「ああ、あの、エイキがいつも餌やってるやつら」
「たまに、だ」
 不本意そうな訂正を受けて、ビアは抱えていた羊肉を掲げてみせる。
「今から仕込むけど、端っこいらない?」
「……それは、いる」
 ビアは心底おかしげにくすくすと笑い、簡易キッチンのコンロの上で火打石を擦って鍋に湯を沸かし始める。エイキはわずかに眉を寄せてそっぽを向き、刃研ぎに戻った。使い慣らされた大振りの軍用ナイフを丁寧に押し込み、力強く引くことを繰り返しながら、やがてぽつりと呟く。
「関係あると思う」
「うん。探そうね」
 エイキはそれきり黙りこくった。ビアは大蒜を剥きにかかった。ややあって、部屋にはスパイスの香りが漂い始めた。

◆ ◆

 パーティーには酒と煙の匂いが満ちていた。煙草やそうでないものが燻って、天井の辺りはうっすらと白く濁ってすら見えた。供されたのがただのワインでないことをビアはもちろん知っていたが、飲まないという選択肢はなかった。
 吐き気をこらえてビアが口を押さえると、隣にいた男がいかにも親切な手振りで肩に手を回し、抱きよせてきた。金色の腕時計が照明を反射してまぶしく、ちかちかと目に痛い。瞳孔が開いているせいだとわかった。
「酔ったのかい。かわいそうに。外の空気を吸いに行こう」
 声は頭の上の方で反響しながら渦を巻いた。廊下に無数に並んだ扉はどれもぐにゃぐにゃと歪みながら閉ざされていたが、その中のいくつかからは、悲鳴とも笑い声ともつかない嬌声が聞こえてきた。
 ここに来たのが自分だけでよかった、とビアは思った。少なくとも、弟がここにいるよりはずっとよかった。

◇ ◇

 サイーハの依頼を受けた翌日の昼過ぎ、ビアは犬飼いオイエクの元を訪ねていた。
「おかしな名前だよな。ビア(一つ)にエイキ(二つ)?」
「いいじゃない、別に、名前なんてどうでも」
 オイエクは少し酔っていて、ビアにも勧めてきたが、断ると肴にしていた炒り豆を投げてよこした。
 元々ここは港から運ばれた荷の集積場であり事務所だった。しかし所有者の破産とともに放棄され、いつからか野犬たちが居着くようになった。不衛生ではないが深く染みついた獣臭が鼻をつく。ビアは今も、いくつもの静かな息遣いとこちらをうかがう視線とを感じている。
「名付け親になってやろうか。まあ、俺はそういうの全然わからんけどよ、うちには教養ある人もいるしな」
「ファミリーには入らないって言ってるでしょ。おれ仕事の話しにきたんだよ」
「気が短えよ、お前は。弟の方は静かなのによ。あっちはあっちで無愛想だけどな」
 オイエクは指笛を吹いた。やがて、人間用の扉の下にしつらえられた通用口から老犬がのそりと顔を出す。
 長い耳が垂れた大型犬だ。片目は濁り、頬と舌もだらりと伸びて、よたよたと歩いてくる。ビアは跪いた。
「やあ。よろしくね、サーチャー」
 挨拶代わりに自分の手を舐めさせると、懐から油紙の包みを取り出し、老犬の鼻先で開いた。まだ湿り気を帯びた、赤黒い靴下を丸めたようなそれを、老犬は億劫そうに嗅いだ。オイエクは不審そうな目つきでビアを見た。
「何だ、そりゃあ」
「今朝拾った、猫の腹」
「密航者探しだっつってなかったか?」
「いいんだよ、最終的に辿り着けば。エイキの勘もそう言ってる」
 オイエクはまだ何か言いたげだったが、まあ、いい、と肩をすくめた。
「金払いさえしっかりしてりゃ、うちの犬を何に使おうが構わねえよ。ただし」
「わかってる。絶対、怪我はさせない。犬たちはオイエクの家族だから」
「そうだ。家族に妙な真似をされたら」
「ぶち殺されても文句は言えない」
「よし」
 オイエクは満足した。お前らやっぱりうちに来いよ、と言葉を続け、ビアはうんざりと首を振った。

◆ ◆

 鼻先を押し付けられた車のシートの匂いに耐え切れず吐いた。尻を強く叩かれ、痛みで腹に力が入った拍子にまた吐いた。男は興奮しきっていた。
「怒ってすまないね。君はかわいそうな子だ。育ての親に売られるなんて。かわいそうに。私が大事にしてあげるからね」
 叩かれた跡をそろそろと撫でられる。覚悟の上だったにもかかわらず、ビアは反射的に太腿を強張らせた。あるいはそのつもりになっただけだったのかもしれない。男の腕は少年の片足を軽々と折り曲げて腰を浮かせた。
 息を止めて目を閉じたそのとき、車のドアを外から叩くような鈍い音がした。二度、繰り返される。男は舌打ちして窓の外を見やり、行為を続けようとしたが、すぐにもう二度音が鳴った。男は車窓を開けた。
「なんなんだ! 警備員なんか呼んでいな」
 言葉は途中で切れた。ビアは急に男にのしかかられて呻いた。のろのろと顔だけを上げる。いつの間にか車のドアが開いていた。
 外には警備員の格好をした小柄な男。その顔には紅く丸い光が二つ浮かんでいた。なぜか、月が出たのだ、と思った。月は一瞬だけ鋭く細くなり、それからビアの顔をまっすぐに覗き込んで言った。
「逃げるんだ」
 男の血に汚れたジャケットを剥がれ、何かを頭からかぶせられた。手を握られ、うまく握り返せず、手首を掴まれて走り出した。
 呼吸は乱れ、ひどい吐き気がした。心臓はどこか裂けたようにずきずきと痛み、頭を揺らすたび脳の神経すべてに緑色の花が咲いたような頭痛と眩暈に襲われた。幻覚だ。わかっていても今すぐに大声で叫びだし、座りこんでしまいたかった。
 信じられるのは弟の手のひらの感触だけだった。それだけを思いながら足を動かした。何もかもぐちゃぐちゃになった世界で、弟の手だけが確かなもので、命綱だった。

◇ ◇

 夜の手が撫でるように港を覆い、冷えた空気はうっすらとした霧となって漂う。凪の海は黒い鏡面となって、船と港と月の光を機械的に照り返す。
 埠頭には夜を徹しての荷下ろしにかかる作業員が行き来している。煌々と照らされる野積場をやや外れた路地の、淀んだような暗がりを、老犬はすんすんと鼻を鳴らしながら歩いていった。
 やがて立ち止まり、低い声で一声鳴く。うずくまっていた女が肩を跳ねさせた。
 女はまるでいつかと同じように背後を振り返った。少し伸びた髪は額に張り付いているが、それは雨ではなく、息を荒げながら行っていた「作業」による汗のためだった。
 老犬はだらりと舌を伸ばしながら、うっそりとローザを見上げた。ところどころに傷のある毛並みと、白内障らしい濁った片目が、野犬らしからぬ静けさと相まって、古びた軍服じみた気配をまとっていた。
 ローザの直観を裏付けるように、老犬の背後から一人の少年が現れる。
「また会ったね、お姉さん」
 ビアは微笑んだ。夜闇にあって穏やかなビアの笑顔と声色はいつかの雨の日を思い出させるが、今は雨避けのフードはなく、月下にあってなお白い髪は潮風にさらされるままだ。
 ローザは一瞬警戒を解きそうになり、しかし直後に再び表情をこわばらせた。
「この街は悪くないところだったでしょう。仕事もたくさんある。ルールもね」
 ビアは一歩近づいた。
「この街で仕事をするなら、他の人の仕事を邪魔しちゃいけなかったんだよ、お姉さん。肉を売るのは肉屋。女を売るのは色宿。クスリを売るのはハディ・ダッド兄弟と九紫会だ」
 ローザのナイフは血に塗れている。足元には猫の死体が転がっている。その腹はひらかれ、霧に見紛うはずもない白い湯気がまだ立ち上っている。ローザの左手は、そこから取り出された小さな包みを握っている。
「余所者の売人が入り込んだってことはわかってた。でも、最近この街に入ってきた人間を片っ端から調べても何も出てこなかった。どこに隠してやり過ごしたのか、不思議だったけど」
 ビアは語り続ける。
「どの猫にどれくらい呑ませたの? これまでいくつ見つかった?」
 沈黙が下りた。ローザは息を上ずらせ、喉から笛のような音を立てた。
「……見逃してくれない?」
「無理だね」
 そう、と呟いてうつむき、再び顔を上げた彼女の唇は、どこか吹っ切れたようにつりあがっていた。
「ああ、失敗しちゃった。逃げ出せたと思ったのに、何もかも全然、うまくいかないのね」
 ローザは天を仰いだ。疲れきった笑いを月が照らした。
「教えてよ。あなたはどうやったの? 同じ『余所者仲間』なのに、何が違ったのかしら」
「そんなには違わなかったよ。たぶんね。あえて言うなら、おれはクスリが苦手で、刃物より火薬とかが得意かな。動物もわりと嫌いじゃない」
 ビアは足元の老犬の背をゆっくりと撫でて伏せさせる。ローザは歩み寄った。
「あたしもよ。ここの猫は人に慣れて、すぐ寄ってくるから、ほんとに可哀想だった」
 ビアは無邪気な少年のようにローザを見上げた。
「そっか。おれたち、そこも似てたんだね。じゃあ、あと違うのは……」
 ローザは踏み込んだ。
 後ろ手に構えたナイフを突き出そうとし、しかし、つんのめるように立ち止まった。ローザは不思議そうな顔で、自分の腹から突き出た刃先を見下ろした。ビアは言った。
「おれには弟がいる」
 よく手入れされた大振りのナイフは、肋骨の隙間を縫うようにして肺を傷つけた。エイキはほんの少し刃をひねり、ゆっくりと引き抜く。ローザは膝を折り、地面に崩れ落ちた。目の前に下りてきた頸動脈へ、エイキはもう一度刃を振るった。返り血が散らないよう腕に巻いていた包帯をほどき、ナイフの血糊をぬぐって、ローザの背の上へ捨てた。
 ビアは電話をかけて死体の回収を頼んだ。コンクリートに赤く広がった猫の死骸をじっと見下ろす弟の手を引き、白い月から逃げ出すように埠頭を出た。

 二つの仕事が終わり、双子は宿へと戻った。
 朝の日射しの差し入る静かなキッチンの隅で、羊肉の切れ端が腐っていた。

〈了〉


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