泣けない話

(著:outlogging writers"高梨辣油") 

「感動大作!」などの類のものは世の中にゴマンとある。世の中は「泣ける」ものに満ち溢れている。電車に乗れば小説の広告が載っていて、映画館に行けば必ず一つは青春映画みたいなものが上映されていて、テレビを点ければ実話の努力家の話が、インターネットに少し目を向ければ何もせずとも愛の素晴らしさを解くような漫画が流れてくる。そうでなくても、世の中の大半の人間は「卒業式」やら「別れの日」などといった「泣ける」イベントに何回かは望まずとも出くわす筈である。そのほぼ全てに観客がいて、その観客の何割かは泣いているのだろう。
 しかし私はその手のものでは何故か泣けない。泣かないのでもなく、単純に泣けないのだ。別にクールを気取りたいわけでも、世の中を冷笑してマウントを取りたいわけでもない。なんなら泣けない自分に劣等感を感じてくる。
 そして自分が泣けることといえば、自分の未来のことだったり、今日700円の食料品を盗難されたこととか、そんなことばっかりだ。そのことが劣等感に拍車をかけるのである。「お前は自分のことしか頭にない人間である。」と。
 そんなことを考えていくと、逆に一種の疑いが生まれる。世の中の人間は別にホントはそんなに泣いてなくて、泣いているのはそんなに多い割合ではないのではないか。私はその調査をしたから今これを書いているわけではないし、この話で答えを出すわけでもない。でも結局はもし世の中の泣いている人間の割合が低かったところで、結局わかるのは自分が世の中よりも感性が鈍いわけでもないかもしれない、ということだけであって、他人を鏡にしたところで自分しか見てないことは否定できない。そしてその結果涙にも変換できない悶々とした感情が蓄積されていくだけであるのだが。


(written @2019/09/18)

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