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くものある町

一章

      一

夏、人も虫もすべて溶かしてしまうような太陽の殺人光線、クーラーの効いた部屋にいるっていうのに、その日差しが窓から入ってくるせいで暑い。
「暑……」
布団から起き上がってシャツを脱ぎ、上半身裸の状態でベランダに出る。
 俺の住んでいる所はマンションの高い位置にある部屋なので、下を見れば車やら人やらがかなり小さく見える。
「ははは見ろっ、人が虫のようだ!」                                     
なんて、どっかで聞いたようなことを言ってみる。我に返って自分のバカさに泣けてくる。
 ポケットからタバコを取り出して火をつける。大きく息を吸い込み、空に向かって吐き出すと、煙が青い空を覆ってすぐに消えていった。
 今は夏休みの真っ最中。高校に入学して最初の夏休みだ。
 でも、部活に入ってるわけでもないし、頭が良いってわけでもないから夏期講習なんかも受けない。すると暇になってくるわけだから、家でゴロゴロすることが多くなってしまう。
 タバコを覚えたのだって暇だったから、親父のタバコを興味本意に盗んで吸ったのが始まりだった。だからって別に不良なわけではない。確かに、学校でタバコがばれて停学にでもなれば不良になるかもしれないけど、今のところは大丈夫だ。まだばれていない。
 まあ、こうしてタバコを吸っているといろんなことを考える。大抵は彼女がほしいとかばかりだけど。
 そんなことをぼうっと考えていて、突然ケータイの着信音が鳴り現実に戻される。
 友人の大介からだった。
「もしもし?」
「もしもし、じゃねぇよ。今日、勉強会するんだろ? もうみんな集まってるぞ」
 完全に忘れていた。
「ん……いや、忘れてなんかないぞ、大丈夫だ。今から行く」 
 通話を一方的に切る。
 部屋に戻ってクーラーを切り、急いで服を着替えて自分の部屋を出た。
 リビングを走り抜け、玄関のドアを開けようとしたところで日課を忘れていることに気づいてリビングに戻った。
「母さん、行ってきます」
 母親の遺影に手を合わせて、再び玄関まで走っていく。
 生まれたころから、母親の顔はあの遺影の顔しか知らない、俺を生んですぐに死んでしまったから。
 だから親父は、男手ひとつで俺をここまで育ててくれた。すごく感謝している。
 玄関のドアを開けエントランスまで歩いて行き、エレベーターに乗って一階まで降りる。
 一階に着くとすぐに走って駐輪場に向かい、自転車のロックを外してまたがった。
 駐輪場を出てから、猛スピードで自転車を漕ぐ。
 目指す場所は駅前の図書館、自転車なら約二十分だけど、十分ぐらいを過ぎたところあたりで現れる、長く急な坂道を下りきったところで気がついた。
 筆箱を忘れた。
「さて……、どうしようか」
 そう思いながら自転車から降りて腕を組んだ。

 結局、筆箱を取りに戻ったせいで図書館に着いた頃には、約束の時間を大幅に過ぎていた。
 仕方ないと思う。夏にあの坂道を上るのは死ぬほどつらいんだ。
 駐輪場に自転車を止めて、図書館に入っていく。
 この町では一番大きい図書館、本の数が何万冊もあるって聞いたことがあるけど、別に俺が
数えたわけじゃないからその辺は本当かどうかわからない。
 館内はクーラーがよく効いていて、汗でべっとりと張り付いたシャツにひんやりとした空気があたってくる。しばらくその場でぼうっとしていたので、周りの人たちから見れば変な人に見えていたかもしれない。
「おい変人」
 そんな俺に誰かが声をかけてきた。
「出会っていきなり変人と言われた俺はどうすればいい?」
「笑えばいいと思うよ」
 とりあえず、大介に聞いた時点で間違いだったということはわかった。
「みんなどこにいるんだ? 早く行こう」
「それが遅刻してきた奴のセリフかよ」
 大介はそう言ってエスカレーターのそばまで歩いて行き、みんながいるらしい二階へ上がっていった。
 俺もその後をついて行く。
 二階には、誰でも落ち着いて本が読めるように、大きな机と椅子が置いてある。そのうちの一つにみんなが座っていた。
「遅れてゴメン」   
 謝りながら椅子に座る。 
「アンタの遅刻癖はどうも治んないね」
 隣にいるポニーテールの少女が文句を言ってきた。
 中学からの友達の唯だ。少々、口が悪いのが難点。
 俺と大介が唯のそばにいることを他の奴らは羨ましく思っているそうだけど、確かに納得してしまう。
 認めたくはないけど、顔は可愛いんだコイツ。
「いつものことですから、もう慣れましたよ」
 唯の右側に座って、丁寧な口調で嫌味を言ってきたロングヘアーの少女が里奈。高校に入学してからできた友人だ。
 男二人女二人という、周りから見ればカップルが二組いるように見えると思うけど、気にしない。意識したこともあんまりない。
 多分。
 いつでもどこでもこの四人で過ごしてきた。
 大介にいたっては、家が近いわけじゃないけれど小さい頃から仲が良い。小学校の時に、テレビヒーローの話で打ち解けたのがきっかけだ。気楽に何でも話せる友人、かっこよく言えば親友ってとこだろうか。
 机の上に宿題を広げる。
 最初の三日間で全部終わらせると毎回決意するけど、結局終わるのは夏休み終了三日前だったりする。
「うわ、アンタの宿題ぜんっぜん終わってないじゃんっ」
 唯が俺の宿題を見て、なんとも言えない表情をしている。どうせ、俺の宿題を写そうと思っていたのだろう。
 ふと気づくと、大介と里奈の二人も俺の宿題を見て、残念そうな顔をしていた。俺のを見てそんな表情をするということは、二人も宿題が終わっていないということか。つまり、誰一人として宿題が終わっていないと。
 さすが俺の友人たちだ。               
    
 冷房の効いた図書館、互いに勉強を教えあったおかげでどうにか五つあった宿題のうち、二つを終わらせることができた。
 とはいえ、大介にいたっては途中から「眠ぃ、後よろしく……」と言って居眠りしだすし、唯は「もう無理っ」と言い出してマンガを読み出す始末。
 挙句の果てには二人とも俺と里奈の宿題を見て「出来たっ」「やっぱ俺天才」なんていい出した。
 俺は疲れていたのでとりあえず無視していたけど、里奈は許せないようで二人と軽い口論になっていた。
 そして、それが原因で図書館の係員にうるさいと怒られていた。                               
 確かにうるさかった。
 まるで図書館に蝉が紛れ込んできたかのように。
 まるで、巨大なモンスターが叫んでいるように。
 まあ、それは言いすぎだとしても、本当にうるさかった。
「ったく、お前ら本当にバカだよな。俺もだけど」
 みんなが勉強道具を片付け始めたので、俺も片付け始める。その際に腕時計を見た。
 昼の一時。
 これから遊ぶとしたらそれなりに時間はある。けど、俺としてはこのままクーラーの効いた図書館でゆっくりと過ごしていたいものだ。
「夏らしく、プールにでも行かね?」
 と、突然大介がそう言った。
 勘弁してくれ。

 仕方なく、大介の提案を受け入れてみんなで市民プールに行くことになった。あんな人だらけのところに行こうなんて考えられない。人が多すぎて泳ぐところなんて無いと、俺と里奈は最後までその提案を拒否していた。けど、唯が大介に賛成してしまいどうしても行くと言ってきかなかった。
 俺と里奈の抗議もむなしく、プール行きに決定。
 まぁ、蝉取りに行こうなんて言い出さなかっただけでもマシとするか。
 それぞれ椅子から立ち上がって、エスカレーターに向かって歩き出した。俺もみんなの後に続いてエスカレーターに向かう。
 一階に降りていく間、里奈は隣でずっとぶつぶつ言っていたけど、唯と大介はプールで何をするか楽しそうに話していた。
「優也、お前はプールで何したい?」
 大介が俺に話を振ってくる。けどエスカレーターに乗り始めてから、隣の里奈が怖くて怖くてそれどころじゃなかった。一人だけ明らかにオーラが違う。
 どんよりとしたオーラ。
 黒い感じの。
「ん、別に」                                  
 だから、大介には適当な返事をしておいた。
 二人とも気づかないのだろうか、この里奈のオーラに。
 一階に着いて、三人が外に出て行ったので俺も外に出たわけだけど、一歩外に出るとそこはまるで砂漠かと思うくらい暑かった。 
 唯も里奈も俺と同じで暑いらしく、持って来ていた団扇でパタパタと扇いでいる。大介は暑いのが苦手じゃないのか、何もせずにぼけっと立っていた。
「大介、暑くないのか?」
 と、声をかけてみる。
「あまりに暑すぎるから動きたくねえんだよ。だからぼけっと立ってんの」
 大介は無表情でそう言った後、再びぼけっとし始めた。
 なるほど、やっぱり大介も暑いのか。
「ぼけっと立ってるだけじゃ、余計に暑いと思いますよ?」
 日陰に座っている里奈が大介を見ながら意地悪そうに、くすくすと笑っている。どうやら、まだ怒っているようだ。どうせ、プールに着いたら着いたで忘れてはしゃぐくせに。
「里奈の言うとおりだな大介、どうする?」
「ん……じゃあ、しゃがむ」
 そう言って大介はその場にしゃがみこんだ。
「どう考えればその結論に達するんだよ!」
 大きな声でツッコミを入れておく。だけど、大介はしゃがんだまま立ち上がらない。
 バカだ。
 俺と大介のやり取りを見て笑いながら、唯と里奈が近くに寄ってきた。
「とりあえず、各自で水着を持ってきて、プール近くの公園に後から集合ね」
 唯がそう言ったのを合図に、四人並んでだらだらと駐輪場に向かって歩き始めた。
 今から家に戻って、また外に出るのはものすごくめんどくさいな。
 ああ、雨でも降ればいいのに……。

 数十分後。俺は公園の木陰にあるベンチに座り、みんなを待っていた。
 けど、待てども待てどもみんながやってくる気配がまったく無い。
 珍しく遅刻しなかったのに、これじゃ意味がない。
 ポケットからタバコを取り出して、火をつける。口の中に煙を溜めて、深く息を吸い込み空に向かって吐き出す。一瞬、空を煙が覆うけど風に流されて消えていった。
 未成年の喫煙は犯罪ってわかっているんだけどな。
 どうも禁煙できない。
 ぼけっと空を見ていて、ふとおかしなことに気づいた。なんだか、見覚えのある雲がある。マンションでタバコを吸っている時にも空を見上げたけど、そのときに見た雲とどこか形や色が似ている。同じといってもおかしくないくらいに。
「へえ、めずらしいな」
 再びタバコの煙を吸い込み吐き出す。
 たまたま似ているだけだろう、そう思いながら自分の口から出てきた煙をぼんやりとながめていた。
「未成年者はタバコなんて吸っちゃだめなんですよー?」
 突然、背後から声が聞こえた。
「おわっ」
 驚いて後ろを振り向く。
 里奈だ。
 里奈は手にコンビニの袋をぶら下げていて、ニコニコしながら俺の隣に並んだ。袋からは二本のアイスが透けて見えていた。
「なんだ、里奈か。遅かったな」
「なんだとはなんですか、失礼ですね」
「失礼なのはお前だ。遅い」
 俺がそう言うと、里奈が不機嫌そうな顔をして俺を睨んできた。
 その顔を見て思わず笑ってしまう。
「なんで笑うんですかっ」
 怒り出したけど、面倒なので無視してタバコを吸い続ける。
 里奈もあきらめたようで、買ってきたアイスを食べ始めた。
 まだまだみんなは集まらない、夏の暑い日差しだけが俺と里奈を照らし続ける。

 里奈が二本目のアイスを食べ終わるころ、遅れて大介と唯が来た。
「お前らが行きたいって言ったのに、遅すぎるだろ」
「ほんと、最悪です。この暑い中どんだけ待たせるんですかっ」
 隣で、数分前に来たばかりの里奈が文句を言っている。お前そんなに待ってないだろ。
 とりあえず、遅れてきた二人に文句を言おうとした。  
 けど、言い出そうとしたところで大介に遮られた。
「ごめん、家に帰ったら弟以外誰もいなくてよ。一緒に住んでるばあちゃんが買い物から帰ってくるまで弟の面倒見てたんだ。ったく、俺の母親は何してんだよ」
 よし、とりあえず大介の言い分には納得できた。大介の弟はまだ小さいからその辺は大変なのだろう。それにしても、大介の母親は俺を我が子のように可愛がってくれた人だから、小さい子を残してどこかに行くような人じゃないはずだけど。どうしたのだろうか。
「大介の遅刻の件についてはわかった。唯、お前は?」
 大介の隣で団扇を扇いでいた唯は、何の悪そびれた感じも無くさらっと言い放った。
「私? 昼寝」
 おい。
 コイツが男だったら軽く殴ってた。殴るまではいかなくとも、かなり怒っていただろう。
 いや、今でもすっごく怒っているんだがな、うん。
「俺は人としての器が大きいから今回は許してやる。次は無いぞ?」
「アンタなんかいつも遅刻じゃん」
「あう、それは……」
 俺はそのまま何も言えなくなってしまった。情けない。言え、何か言い返すんだ、とは思うけど結局は言えないのが俺だ。
 本当に情けない。
「そんなことより早くプールに行きましょうよ。暑くて溶けそうです」
 そう言って、里奈が先に歩いていった。大介もその後をついていく。俺と唯も少し遅れて歩き出した。
 腕時計を見ると時刻は午後の二時、一番暑い時間帯じゃないか……。               
 
 市民プール、そこは右も左も人だらけで泳ぐところなんて無かった。それなのに、大介と唯と里奈の三人は、人と人の間をうまく避けて楽しそうに泳いでいる。
 器用に、すいすいと。 
 俺はプールに入るのが嫌なので、椅子に座ってぼうっと三人を眺めている。別に、泳ぐことが嫌いなわけじゃないし、外で遊んだりするのは嫌いなわけじゃない。むしろ、泳ぐことに関しては好きなほうだ。なら、なんでプールに入らないのかっていうのは、一つは泳げる場所がほとんど無いのが嫌なのと、もう一つはただ単にめんどくさいからだ。
「優也! お前も来いよー、気持ちいいぞ?」
 大介が俺に向かって手招きをしている。大声で叫びながら。
 恥ずかしいな、おい。とりあえず無視だ。無視が一番いい。それでも、大介はあきらめず俺を呼んでいる。ずっと大声で。これ以上、無視していてもしょうがないので歩いて大介の近くに寄っていく。
 大介に話しかけようとしたところで気がついた。
 その場に唯がいないことに。
「オラアアアアア!」
 突然、背後でうなり声が聞こえて強く背中を押された。うなり声はどう考えても唯の声だったし、押された感覚は蹴りに近い感じがした。
「んなっ!」
 頭から水の中に落ちていく、大きな水しぶきを上げ、頭から膝まで一気に。後は自然に沈んでいった。
 突然の事に驚きながらも水の中で体勢を変え、足でプールの底を思いっきり蹴って水面に出た。
「ってめえ! 唯!」
 そんな俺を見て三人は声を出して笑っていた。 
 まったく、何がしたいんだよお前ら。大介が執拗に俺を呼んでいたのはこれのためか。俺を罠にはめるとはいい度胸だな。
「お前ら……」
 さぁ、復讐を始めようじゃないか。 
 俺は水の中に潜り込み、三人から離れて人ごみの中に紛れ込む。三人の姿は見失わないように気をつけて。ゆっくり、ゆっくりと泳いで三人に近づく。最初は大介、そっと手を伸ばし、足首を掴んで一気に引っ張る!
「っおぷ」
 見事なまでに大介を水の中に引きずり込んだ。そのまま立て続けに、唯と里奈を引きずり込んだ。 
 驚くほど上手くいった。
「どうだっ……あ?」
 水面から上半身を出し、叫ぶ。
 直後に言葉を失った。
 よく、小説やマンガとかでそんな表現がされることがあるけど、これは実によく出来た表現だと今、身をもって実感できた。だって、周囲は夕方のように暗くて、誰一人としてプールにいないから。大介も、唯も、里奈も、他の客も。
 だから言葉を失った。
「大介! 唯! 里奈!」
 と、名前を呼んでみるけど返事は返ってこない。
 ふと空を見上げれば、さっきまでの綺麗な青い空は無く、黒くてどんよりとした空が広がっていた。 
「どう、なってんだ?」
 とりあえず、プールから出よう。そう思いながらプールサイドに向かって歩き出そうとした時、何かが片足を掴んだ。
 そして一気に水の中に引き込まれた。
「んなっ」
 水の中で必死にもがく。
 口から空気が漏れていく、肺が水で満たされていくような気がした。
 全身から力が抜けていく、視界が暗くなっていく。
 もうダメだ、そう思ったとき誰かが俺の腕を掴み、一気に水の中から引き上げた。
「なんで本気で溺れてるんですか!」
 俺を引っ張り上げたのは里奈だった。
「っかはっ、ごほっ、ごほっ、っはあ、はあ……ありが……とう」
 激しく咳き込みながら礼を言う。
「ちょっと、大丈夫?」
 唯が心配そうに声をかけてきた。
「ああ……大丈夫……」
 視界がまだぼんやりとするが、周りを見てみると、そこには数え切れないほどの大勢の人がいた。
 空を見上げる、すばらしく青く綺麗な空に白い雲が浮かんでいた。
「ゆ……め?」
 頭がひどく混乱した。
「まさか自分がされるとは思ってなかったろ?」
 大介が俺を見て笑っていた。大介が俺の足を引っ張ったのか? そんな、いや、確かにあの場所には俺しかいなかったはず。
 じゃあ、なんで?
 わからない。
「なあ大介、俺、頭やばくなったかも」
「そんなの前からじゃん」
 大介はいつもと変わらない笑顔で俺にそう言ってきた。

      二   
  
「どうしよう、母親が行方不明だ……」
 プールに行った日から数日経ったある日、一人で遅めの夕飯を食べている時に大介からそんな内容の相談がケータイにかかってきた。
 電話越しに聞こえてきた大介の声は弱々しくて、不安な気持ちが伝わってきた。
 詳しい話を聞くと、大介がプールから帰っても家にいたのは祖母と弟だけで、それから何日経っても母親は帰ってこなくて、親戚に電話したり警察に助けを求めたり、家族で捜してみたけど結局見つからず、困り果てたあげくに俺に電話してきたらしい。
「どうすりゃいいんだよ……」
 電話の向こうからは大介の弟の泣き声と、それをなだめる祖母の声が聞こえる。まだ幼いから寂しく、不安なのだろう。
「とりあえず、唯や里奈にも連絡するからみんなでもう一度捜そう」
「ああ……ありがとう」
「じゃ、後でな」
 ケータイを切り、画面を切り替えて唯の番号を表示させて、電話をかける。
 少し待ったあと、明るい声が聞こえてきた。
「もしもしー? 何?」
「今って大丈夫か?」
「大丈夫だけど、何かあった?」
「プールに行った日あるだろ?」
「うん」
「あの日から大介のおばさんが行方不明だ。捜すぞ」
「マジ?」
 何かの冗談だと思っているようで、唯の声には若干の笑い声が含まれていた。冗談ではないことに気付かせるために少し口調を強めて言う。
「マジ。今から大介の家に集合な。来れるか?」
 どうやら、冗談ではないことが伝わったようで、少しの沈黙が流れた。
 先に口を開いたのは唯だった。
「私達で捜しても……ま、いいか。わかった、今から行く。里奈には私から連絡しておくから先に行っといて」
「わかった。じゃ、後で」 
 ケータイを閉じてポケットに突っ込み、部屋を出ようとしたけど寝間着を着ていることを思い出し、その場にあった適当な服に着替えて自分の部屋を出た。
 親父がまだ帰ってきていないから、リビングは妙な静けさに包まれている。  
 母親の遺影に手を合わせてから玄関に向かい、靴を履いてドアを開け、少し歩いたところにあるエントランスに向かった。
 ボタンを押すとエレベーターはすぐにやって来た。中に乗り込み、ボタンを押そうとする。
 そこで、それに気がついた。
「何で、二十二階のボタンが光ってんだ?」
 押してもいないのに勝手にボタンが光っている。中には誰もいない、けど、ボタンは押してある。いたずらだろうか。 
 誰だよこんなめんどくさい事した奴、これだと一度上まで行かないと。 
「ああ、めんどくさい。しかも、二十二階って……」
 微妙ないたずらに腹を立てている間に、ドアが自動で閉まっていく。
 そのドアを見つめていて、ふとあることを思い出した。
「あれ、たしかこのマンションの最上階って二十一階じゃ……」
 瞬間、全身に鳥肌が立った、
もうすこし、早く気づくべきだった。 
 なぜ、あるはずのない二十二階のボタンが光っているのかに。
 急いで開閉ボタンを押したけどすでに遅く、二十二階に向けて上がっていった。
 とっさに次の階のボタンを押す。エレベーター無事に指定した階で止まってくれて、自動でドアが開いた。
 完全に開くのを待たずに外に飛び出る。エレベーターは自動でドアが閉まると二十二階へと上がっていった。
 振り向いて、それぞれの階を表示しているランプを見る。 
 一番端に、確かに二十二階のランプがあった。
「いや、意味わかんねえし……」
 ドアに背を向けて、ダッシュで階段に向かい一気に一階まで駆け降りた。途中で何度も転びそうになったけど、手すりにつかまってこらえた。
 一階に着いて、肩で息をしながら歩く。胸が苦しい。
「き、気のせいだろ……」 
 確認するためにエレベーターへ向かう。
 おかしい、何度見直してもランプは二十一階までしかない。
 ポケットからタバコを一本取り出して火をつける。
 手が震えてうまく火がつけられない。 
 震える手をもう片方の手で押さえて、両手で火をつける。ようやく火がついてタバコを吸うことができた。震える足をなんとか動かして駐輪場に向かう。
「なんだよ……意味わかんねえよ!」
 俺はついに気が狂ってしまったのだろうか、白昼夢でも見ているのだろうか。
 不意に、頭の中にプールでの記憶が浮かんできた。空は黒くて、誰もいなくて、俺だけしかいない気味の悪い世界に飛ばされた時のこと。どうにも夢だとしか考えられないけど、確かにこの目で見たし、感触もあった。
 もし、もしもあのままエレベーターに乗っていたら、あの世界に連れて行かれていたのだろうか。
 二十二階があの世界。
 そう考えると怖い。
 ありえないほど怖い。
 駐輪場に着いて、自転車のロックを外している時にある考えが頭をよぎった。
 おばさんもあの世界に飛ばされて、一人でさまよっているのでは?
 こんなことを大介に言ったら殴られてしまうかもしれない。けれど、今の俺にはそれしか考えられなかった。
 とりあえず、大介の家に向かうために自転車にまたがってペダルを漕ぐ。
 タバコは口にくわえたまま。

 大介の家に着くと、車庫に一台の車と三台の自転車が置いてあった。
 唯達のほうが先に着いていたようだ。
 俺も同じように自転車を置いて、勝手に玄関のドアを開ける。
「おじゃまします……うわっ」
「お……優也君か。こんばんわ」
 ドアを開けると、目の前に誰かが座り込んでいて驚いた。
 よく見ると大介の親父さんだった。
 頬は痩せこけ、髭は生えっぱなし。よく見ないと親父さんかどうかわからない。
「こんばんは……大丈夫ですか?」
「あぁ、なんとかね。優也君こそ顔色が悪いぞ? 大丈夫かね」
 そりゃあ、立て続けに意味のわからないことが起きたんだ。顔色が良いわけがない。
「あ、はい。大丈夫です」
 嘘だ。
 大丈夫なわけがない。
「大介なら上の部屋にいるよ、さっき唯君たちも来たな、勉強会かな?」
「はい、そんなとこです。上がりますね」
「ああ」
 軽く会釈をしてから靴を脱いで、階段を上がり、大介の部屋のドアを開けた。
 部屋の中には、唯、里奈、大介の三人がテーブルを囲んで座っていて、重たい空気が漂っている。
「こんなときまで遅刻? アンタねぇ……って、顔色悪いよ? 大丈夫?」
 部屋に入っていきなり唯に怒られそうになった。
 そして心配された。
 また顔色。
 そんなに顔色悪いのか?
「まあ、うん。遅れてごめん」
「まあ、いいから座れよ」
 部屋の隅から座布団を引っ張ってきて、その場に座る。
 やわらかくて、座り心地がよかった。
「親父さん、辛そうだな……」
「ああ、一家の大黒柱なのに頼りねえよな」
 大介はそう言って笑っていた。
 けど、その笑顔は偽物の笑顔だってすぐにわかった。もう何年もの付き合いなんだ、大介はわからないとでも思っているのだろうか。
 唯だって気づいている。 
 まだ付き合いの浅い里奈だって。
「大介さんのお父さん、とても顔色悪かったですよ?」
「大丈夫……だろ」
 大丈夫じゃねぇって、あんな親父さん初めて見たぞ。いつもは優しく元気な声で俺たちに挨拶してくれるっていうのに。
「おばさん、友達と旅行に行ったとか、事故に巻き込まれたとかじゃないのか?」
 大介が静かに首を左右に振る。
「それなら連絡くるだろ? 第一、弟がまだ小さいのに黙って旅行に行くわけねぇだろ」
「だよねえ」
 唯が賛同する。確かに、言われてみればそうだけど……。
「ま、ここにいてもしょうがないし捜しに行こ?」
 そう言いながら唯が立ち上がって、部屋のドアを開けて出て行った。それにつられて大介と里奈も部屋から出ていく。俺も立ち上がってついていく。
「心当たりはあるの?」
 階段を降りながら唯が大介に聞く。大介は黙ったままポケットから紙を一枚取り出して、唯に渡した。
 どうやら、紙には心当たりのある場所がピックアップされて書いてあるようで、唯はそれを見ながら首をひねっていた。
 階段を下りると、玄関にはもう親父さんの姿はなかった。靴はあるので家の中のどこかにいるのだろう。
「そういや、弟とばあちゃんは大丈夫なのか?」
 外に出てから、気になっていたことを大介に聞いた。
「ばあちゃんは大丈夫、がんばってくれてる。弟は、泣いてばっかだ」
 そう言って、大介が黙りこむ。
 そっか、とだけ言って俺はタバコを取り出して火をつけた。街頭の光に照らされた煙がゆらゆらと舞い上がって、夜空に吸い込まれるように消えていく。
「かわいそうですね、弟さん」
 車庫から唯と一緒に自転車を出してきた里奈が、大介の家を見上げながら言う。里奈の視線の先には電気のついていない部屋があった。
 大介が言うにはそこが弟と両親の部屋らしい。
「ほんとタバコ好きだよね、アンタ」
 街灯にもたれかかりながら、唯が言う。
「実は自分だって、酒が大好きなくせに」
「はいはい。で、えっと……」
 唯がさっき大介からもらった紙を取り出し、それを見ながら考え出す。
「えっと、私と里奈は商店街を見てくるから、アンタはパチンコ屋ね」
「パ、パチンコ?」
 驚いて大介の方に振り向く。大介は少し恥ずかしそうにして頭を掻いていた。
「いや、昔に家族で行ったことがあってさ……」
 いや、じゃねえよ。家族でパチンコって、どんな家族だ。少なくとも、俺の家じゃそんなとこに行った事はないぞ。
 同意を求めて唯の方を見る。
 一瞬目が合ったけど、唯は恥ずかしそうにうつむいた。
 ほう、なるほど。お前の家でも行くんだな、パチンコ。
 おかしいのは俺の家族だったのか。
「で、大介は駅前の本屋ね」
「わかった」
「じゃ、後でプール近くの公園に集合ね」
 唯と里奈は自転車にまたがり、あっという間に夜道を走っていった。
 大介も自転車を出してきてまたがり、駅に向かって走っていく。
 取り残された俺もパチンコ屋に向かうことにした。
 タバコを消して携帯灰皿に捨てた後、車庫から自転車を出してきてまたがる。
 ふと、ある疑問が浮かんだ。
 どこのパチンコ屋だ?

 まず、捜すとか以前にどこのパチンコ屋かわからないのが難点だった。
 一応、自分の知る限りのパチンコ屋を見て回ったけど、大抵のパチンコ屋は十一時を過ぎると閉まるので、すでに閉店したパチンコ屋に大介の母親らしき人影があるわけがなかった。ついでに、周辺を捜してみたけど結果は同じ。
 見つからない。
「はあ……」
 ため息をつきながら、公園の入口に自転車を止める。
 公園には街灯が入口にある一本しかないので、奥の方は真っ暗で誰がいるか見えない。
 けど、自転車が無いってことはまだみんな来ていないということだろう。
 街灯の下でタバコに火をつけて、暗闇に包まれた気味の悪い公園を見続けた。
 誰もいない公園。
 真っ暗な公園。
 見ていると嫌でもあの世界を思い出してしまって、無意識のうちに大介の母親の件と関連付けてしまう。大介のおばさんもあの世界に飛ばされたという考え。あまりにも安易な考えすぎる。自分の気が狂っているだけかもしれないのに。
 こんな自分が嫌だ。 
 すごく嫌だ。
「おーい、優也ー」
 誰かが俺を呼ぶ声が聞こえた。誰の声かはすぐにわかった。
「大介。おばさんいたか?」
 ブレーキをかけて俺の目の前に止まった大介は、自転車から降りながら首を横に振った。
「優也は?」
「見つけてたらこの場にいるだろ」
「そっか、サンキュ」
 大介はそれだけ言うとその場に座り、黙り込んでしまった。
 ぼうっと空を見続ける大介。
 なんとなく気まずい空気が漂う。いつもならここで冗談の一つや二つを言うのだが、とてもじゃないけどそんな気分にはなれない。
 短くなったタバコを踏み消して、携帯灰皿に入れる。
「俺も吸いたい気分だよ」
 大介が弱々しくつぶやいた。
「バカ言え」
 しばらくすると、遠くから自転車がやってきた。
 二台。
 唯と里奈だ。
「や」
「さっきぶりです」
 と、微妙な挨拶をしながら自転車を止めた。
「言わなくてもわかるよね……」 
 唯は自転車から降りてスタンドを立てた後、申し訳なさそうな顔をして大介を見た。
 大介は黙ったまま頷いて、わかったという意図を示す。
「今日はもう遅いですし、また明日捜しませんか?」
 自転車にまたがったままで、里奈が提案する。
 確かに、ケータイの画面を見ると十二時を過ぎていた。
 本来ならみんなもう寝ている時間だろう。
「だな。……大介」
「……わかってる。ありがとうみんな」
 大介は立ち上がり、頭を下げた。
 普段とは明らかに違う大介の態度に戸惑った。
 唯が大介に近寄り、背中を叩いた。バシッという乾いた音が響く。
「大介らしくないよ。さ、帰ろ?」
 唯のその一言聞いて、俺はスタンドを戻して自転車にまたがった。
 里奈と大介も同様に。
 唯を先頭に、ゆっくりと暗い道を進んでいく。道を照らすのは一定の間隔で立っている街灯と、自転車のライトだけ。誰も喋ることなく、聞こえる音と言えば自転車の走る音だけ。
 この重たい空気が明日も続くかもしれないと思うと正直、気が滅入る。
 俺の一番嫌いな空気。けど、どうすることもできない空気。何とかしたいと思って行動するけど結局は空回り。
 あぁ嫌だ。
 思考が段々とマイナス方向へと流れてしまっている。だから、この空気は嫌いなんだ。
 憂鬱だ。
     

            二章 
                                  
      一

 マンションの駐輪場に自転車を止めてロックして、くたくたの足を引きずりながら階段に向かう。
 途中でエントランスを通ったけど、とてもじゃないけど乗る気にはなれなかった。
 また二十二階に連れて行かれそうになったら、そう考えるだけで全身に鳥肌が立つ。
 あの世界と二十二階は多分同じ。確信はないけど、エレベーターがあの世界への入り口なんだろう。運が悪ければ連れて行かれる。
 それに比べれば、階段を上がることなんてどうってことない。
 むしろ大歓迎だ。
「ぬおあああああっ!」
 なんて、意味のわからないことを叫びながら一気に階段を駆け上がる。
 三階くらいのぼったところで息が上がり、動けなくなってしまった。
 もう無理。

 どうにか、無限にさえ思えた階段を自分の部屋のある階までのぼりきって、肩で息をしながら部屋に向かう。鍵を開けて中に入ると部屋の中は真っ暗だった。おかしい、親父が帰ってきていない。いつもならもう帰ってきているはず、残業だろうか。
 ケータイっを取り出して画面を見る。
 着信は無し。
 心配になって親父に電話してみるけど、呼び出し音が鳴り続けるだけで、電話にでる気配が全くない。
「酔っ払って終電逃したか?」
 過去にも何度かこういったことがあったので、それくらいにしか思わない。
 しょうがない親父だ。
 風呂に入って、適当に飯を食って、タバコを吸って、そのあと何かをするわけでもなくすぐに布団に入った。 
 せっかくの夏休みなのだから、夜更かししてゲームでもすればいいのだけど、そんな気にはなれない。今は、一刻も早く眠ってこの疲れた体を休ませたかった。
 目を閉じてから、眠りにおちるまで数分とかからなかった。

 夢を見た。
 とても嫌な夢。
 自分があの世界のような場所にいる夢。
 空には月と太陽が同時に登っていて、どちらも赤いペンキをぶっかけたように真っ赤。見ていると吸い込まれそうでとても怖い。
 俺はそれをベランダから見上げている。そして、何を思ったのかベランダの柵に登った。
 柵の上で直立状態。
 飛び降りた。
「ぬあああああああああ!!」
 そんな奇声あげながら布団から跳ね起きた。
 こんな起床の仕方、ドラマの中だけだと思っていたけど、まさか自分がすることになるなんて。
 汗でぐっしょりと濡れたシャツを脱いで、別のシャツに着替える。ついでに、タバコとケータイを持って部屋のベランダに出た。
 朝日が昇っている。暑い夏の一日が始まる。
 タバコに火をつけて、朝の澄んだ空気と一緒に煙を吸い込み、吐き出す。
 勢いよく吐き出された煙は風に揺られながらすぐに消えていった。
 朝から不健康この上ない。この上ないけどやめられない。
 そのやめられないタバコをくわえたまま柵にもたれかかって下を見る。人や車が小さく見える。
「ははは! 見ろ! 人が虫のよう……やっぱいいや」
 そのまましばらく下を見ていた。
 本当にここは高い。飛び降りたら助かる確率は限りなく無いだろう。なのに、夢の俺はここから飛び降りた。
 まるで、空を飛ぼうとするかのように。
 まるで、それが普通だというように。
「……ねえよ」
 つぶやきながら座り込んでケータイを開いた。
 午前八時、画面にはそう表示されている。
「早起きだな俺」
 最近、独り言が増えたような気がする。寂しいのだろうか。寂しいと独り言が増えるって聞いたことがある。
 ケータイをポケットに入れて立ち上がる。
 相変わらず蝉はうるさく鳴いていて、空を見上げれば太陽は殺人光線のような日差しを放っている。
「……え?」
 最初は気のせいだと思った。
 その後、偶然だと思った。
 雲。
 見たことある雲。
 プールに行った日見た雲と同じ雲が空に浮かんでいる。似ているとかじゃなくて、記憶と同じ。忘れられないような形だったからよく覚えている。
 その雲だけ風に流されていない。止まっている。
「気のせい……?」
 と言いつつも、ケータイで写真を撮る。
 突然、着信音が鳴り響いた。
 驚いてタバコを落としそうになる。
 画面を開く、大介からだ。
 デジャブ。
「どうした? おばさん帰ってきたのか?」
 沈黙。 
 大介からの返事がない。
「おい、どうした? 大介?」
 すう、という息を吸う音が聞こえた。
「家族が……」
「は?」
「朝起きたら家族がだれもいない……」
「か、勘違いだろ。どっかに出かけたとかさ」
「靴はある……」
 一瞬、何かの冗談かと思った。けれど、大介の声は震えていて、今にも壊れてしまいそうなくらい弱々しい声で、その考えはすぐに吹き飛んだ。
「い……」
 今からすぐにそっちに行く。そう言おうとしたけど家の電話が鳴りだした。
「後でかけ直すから」
「……わかった」
 大介の返事を聞いてケータイを閉じる。
 部屋に戻ってリビングに入り、うるさく鳴り続けている電話の受話器を取った。
「もしもし、神宮寺です」
 電話は鳴るのを止め、代わりに受話器から声が聞こえてきた。
「優也……さん?」
 里奈の声だった。気のせいか、声が震えて聞こえる。
「どうした?」
「今さらなんですが、……実を言うと、私の家族も行方不明みたいなんです。プールに行った日から……家族全員」
「……え? マジ? なんでもっと早く言わないんだよ」
 なんだろう、この嫌な予感。
「私もさっき両親の会社に電話して、ようやく気付いたんです……、どうしたんですか?」
「ごめん、後でかけ直す」
 里奈にそう伝えて、電話の受話器を置く。
 そして、ケータイで親父の会社に電話をかけた。
 しばらく呼び出し音が鳴った後、女性の声が聞こえてきた。親父の名前を言って、電話をかわってほしいと伝える。
「お待ちください」
 そう言う女性。
 しばらく待った後、聞こえてきたのはさっきと同じ女性の声だった。
「神宮寺さんは昨日から出社していないそうですよ?」
 昨日?
 昨日って、朝、笑顔で出社していったじゃねえかよ。
 もしかして、親父まで……。
「ありがとうございました……」
 そう言って、ケータイを閉じる。
 目の前が真っ暗になった。
 何も考えることができなくなって、力無くその場に座り込む。
 ポケットからタバコを取り出して中を見た。
 空。  
 一本さえ残っていない。
「っああ!」
 空箱を壁に向かって投げ捨てた。カサ、という音を立てて床に落ちる。
 どういうことだ? 大介の家族だけじゃなく里奈の家族も。そして、俺のただ一人の家族である親父まで。
 この順番だと、次に消えるのはおそらく……。
 落ち込んでいる場合じゃないな。
 手遅れにならないうちにどうにかしないと。
 ケータイを開いて、大介、唯、里奈の三人にメールを送る。
 今から図書館に緊急集合、と。

      二

「なんで、アンタや里奈まで暗い顔をしてるの……?」
 図書館、この前集まった時と同じテーブルに集まり、無言で向かい合っていた俺たちの中で唯がため息まじりに言った。
 俺と大介は何も言わず、うつむいてテーブルを見続けている。ふと、里奈を見ると不安なのか今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「あの……さ、聞いてくれ」
 タイミングを見計らって、口を開く。
 何? と、唯と里奈は俺の方を向いたが、大介は俯いたままだ。
「俺の親父も昨日から行方不明っぽいんだ」
「昨日って、まだ行方不明って決めつけるのは早いんじゃない? っていうか、も、ってまさか……」
 唯が口元をひきつらせながら里奈を見る、瞬間、里奈は泣き出した。声を出して泣いているわけじゃないけど、目からは次々と涙があふれ出している。唯が必死になだめるけど、里奈はひどく嗚咽を繰り返すばかり。
「大介の残りの家族は今朝に全員消えた。そして、里奈の家族はプールに行った日から誰もいないらしい」
「全員って……」
 唯が口元に手をやる。
「仕事だと思ってたら、なかなか帰ってこなくて……そしたら大介さんのおばさんが行方不明だって言うから、私も心配になって両親の会社に電話したんです。そしたら……二人とも出社していなくて……」
 少し落ち着いたのか、里奈は自分で説明し始めた。
 里奈の両親は仕事の都合で家を空けることが多いそうだ。
 両親がいない間は里奈一人。
 お互いを信頼しているからなのか知らないけど、今日は帰れないとか、そういった連絡を取り合うことはほとんどないらしい。
 おかしいと思うけど、それは人の家の事情だから深く知ろうとは思わない。
 けど、そのせいで里奈は気付くのが遅れた。
「なんで普段から連絡を取り合うようにしておかないのよ……」
「ご……めんっ……」
 里奈が俯いたまま唯に謝る。唯がそっと里奈の肩を抱くと、里奈はそのまま唯の肩で再び泣きだした。唯は無言で里奈の頭をやさしく撫でる。
 友人が泣いているのを見るのは、どうも気分が晴れない。晴れない原因はそれだけじゃないけど。
「……アンタの父親も、里奈と大介の家族も、夜逃げとかじゃないの?」
 里奈の頭を撫でていた唯の手が止まる。
「それはないだろ、親父は勝手に借金作るような奴じゃないし、里奈の家族は金持ちだし、それに大介の場合だとこのタイミングで夜逃げする意味がわからない」
「じゃあ、心中とか……」
 びくり、と里奈の肩が震える。
「なんで、俺たちを残して心中するんだよ。少しは考えろよ」
「ごめん……」
 唯は、深くため息をついて再び里奈の頭を撫で始めた。
「あのさ、俺、気味悪い体験したんだよ」
 言い出すには、少し早いタイミングだろうか。
「気味悪いって?」
 唯が首をかしげる。
 泣き止み、落ち着いた里奈が俺の方を見る。
 大介は、うつむいたままだ。
「ああ、実は……」
 俺はゆっくりと話し始める。
 プールに行った日にどこか違う世界に飛ばされたこと、エレベーターのこと、動かない雲のこと。そして、それらが俺たちの家族の失踪事件と関係あるって思っていることを。
 三人とも、途中で話を遮ることなく、静かに聞いてくれていた。
「……ってなわけだ。ははは、俺、気が狂ってるよな」
 自分を馬鹿にするように笑う。
「狂ってねえよ……」
 それまで、黙ってうつむいていた大介が顔を上げた。俺を見て話を続ける。
「俺は信じる、優也は嘘をつくような奴じゃない。ちょっとSFじみた感じがあるけどな」
 そう言って、大介は笑った。二重の目が細くなる、人懐っこい笑顔だ。
 けど、やっぱり心から笑っているようには見えない。
「私も、信じます……」
 里奈がそう言って、毛先をいじりながら話を続ける。
「っていうか、これこそ変な話なんですが、今、優也さんが話した内容を私知っています」
「へ?」
 間の抜けた声を出してしまう。いや、だって二人が信じてくれただけでも驚いたのに、里奈が俺の話を知っているって言うから。あり得ないだろ、普通。
「知っているというか、昔似たような内容の小説を読んだことがあるんです」
 もっとあり得ない話が出てきた。
「小説?」
 大介が、何言ってんだこいつ、みたいなのを思ってそうな表情で里奈に聞く。正直、俺もそう思ったけど、最初に信じられないような話をしたのは俺の方だ。それでも、二人は信じてくれたんだから、俺も里奈の話を信じるべきだろう。
「はい、風景の一部が動かなくなるとか、人々が消えたりとか」
 そこまで言ったところで、突然、唯が机を叩いて立ち上がった。割と大きな音がしたように思う。けど、館内の人は誰も注意に来ない。
「バカじゃないの?」
 唯が鬼のような形相で俺をにらみつける。
「おま、え?」
 唯がなぜ怒っているのかわからず、ぼうっと唯を見ているといきなり胸ぐらを掴まれた。
 ぐいっと唯が俺を引き寄せる。
 本気で怒っているようだ。
 唯はそのまま、ゆっくりと大介と里奈を見る。
「なんでよ! そんなバカみたいな話を信じてる場合じゃないでしょっ? そりゃあ、親友の話だし、不安だから信じたいのもわかるけどっ」
 唯の言っていることは間違っていない
「じゃあ、どうすりゃいい」
 そう言いながら、大介が立ち上がった。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ! 警察は頼りにならない、家族やお前らと一緒に捜しても見つからない! 挙げ句の果てには家族全員がいなくなったんだぞ! そんな時に信用できる親友の、このSFじみた話だ。これを信じる以外何を信じればいいんだよっ!」
 大介は一気にそこまで言って、唯の表情に気がついた。
「わからない……よ」
 唯の目から涙が頬をつたって落ちていく。
 一粒じゃない、何粒も。
 小粒じゃない、大粒の。
 唯は俺達から一歩離れると、背中を向けて走りだした。みんなの視線はエスカレーターを降りていく唯を見続けている。追いかけたいという俺の意に反して、足はその場から動かなかった。
 違う、こんなことがしたかったんじゃない。 
 なんでだよ、なんでこうなる。
「ごめん、優也」
 大介は椅子に座り、テーブルに肘をつき、顔を手で覆いながらつぶやいた。
「ああ」
 大介を怒りたい気持ちを抑え、気のない返事を返した。
 ここで怒ったって何にもならない。 
 堪えろ。 
 堪えろ……。
「唯は俺が後から連れ戻す、だから、里奈」
「はい?」
 うつむいて、黙っていた里奈が顔をあげて俺を見た。
「もっと詳しく小説の話をしてくれ、覚えていればタイトルも」
「はい、タイトルは確か……『パラレルタウン』っていう海外の小説です。私が読んだのは日本語版で、内容はさっき言ったとおりです」
「内容って?」
 大介が顔を手で覆ったまま里奈に聞く。
 少しあきれたような顔をして里奈は答えた。
「景色が変わらなかったり、町の人々が消えたり、です」
「ん、ありがとう」
 大介はそう言いながらため息をつくと、机に突っ伏した。
 俺はそんな大介を横目に見ながら、里奈に続きを話すように促す。
「作中でのその原因は、パラレルワールドと主人公の世界がズレて重なってしまったからなんです。町の人々はそのズレからパラレルワールドに行ってしまい、主人公は町の人々を助けようと奮闘するんです」
 里奈は本を読んでいない俺たちにもわかるように詳しく話してくれた。
 パラレルワールド、現実の世界と平行して無数に存在すると言われている世界。
 俺の体験と、里奈の話から考えると、あの世界はパラレルワールドだと思った方がいいのだろうか。
 まるで予言書のようだ。
「優也が飛ばされた世界がパラレルワールドなら、小説と同じだな。その小説、予言書だろ」
 机に突っ伏したまま大介が喋る。俺の思っていたことと同じだ。
「ズレって何度もできるのか?」
 予言書だなと言われて、毛先をいじりながら黙っていた里奈に質問する。
 考え事するときに毛先をいじるのは里奈の癖だ。
 数秒の間が空いて、返事が返ってきた。
「作中では、ズレは数十年に一度できるって書いてありました。私は今思うに、作者は私たちと同じような体験をしていて、それを知ってもらうために本を書いたんじゃないですか?」
 事実は小説より奇なり。
 昔の人は便利な言葉を残してくれたもんだな。
「つまり、過去にも今と同じ異変が起きていて、その数十年に一度できるズレが偶然にもこの町で生じたってわけか」
 腕を組み、軽く説明口調でそう言って椅子に深く座り直す。
 里奈を見るとまだ毛先をいじっていた。まだ何かを考えているのだろうか。
 一つ疑問に思ったけど、数十年って作者はどうやってわかったんだ? 古い史料でも調べたのだろうか。
「ま、この異変が起きなきゃ作者の考えや里奈の推測なんて、ただのバカげた妄想だけどな」
 そう言いながら里奈を見て少し笑う。
「なっ」
 笑われたのがよっぽど悔しかったのか、顔を真っ赤にして俺をにらみつけてきた。
「本当にその小説が事実なら、家族を助ける方法が見つかるかもしれない。みんなでその小説を探して読むぞ……」
 突然起き上がった大介はそれだけ言うと、一人でそそくさと本棚に向かって歩き始めた。
 あまりに突然だったので、少しだけ大介をぼうっと見ていた。
 なんだか、大介が変わった気がした。大介が頼れる奴に見えてしまう。
 まあ、なんにせよ、大介の言う通りだ。
 俺も立ち上がり、大介に続いて本棚に向かって歩いて行く。
 本棚は俺より少し高くて、横に異常に長い。通路だって、俺と大介が並んで歩くのはちょっと厳しい狭さだ。だから、俺は大介の後ろについて歩く。
 椅子から立ち上がる音が後ろから聞こえた。多分里奈だろう。
 その音と同時に大介が立ち止まった、俺も大介に合わせてその場に立ち止まる。
「小説のタイトルなんだっけ?」
 振り向いた大介は俺と里奈に向かって、そう聞いてきた。
 一瞬でも大介を頼れる奴だと思った俺がバカだった。
「忘れるの早すぎです。『パラレルタウン』ですよ」
 後ろからぶつぶつと文句を言いながら俺と大介の横を通り過ぎて、奥の棚に向かって歩いて行く。黙って俺達も里奈について行く。
 しばらく歩くと本棚には英語でタイトルが書かれた小説や、カラフルな表紙の小説が目立ち始めた。
 大介が一冊を手にとってパラパラとページをめくって、その後に難しい表情をして本棚に戻した。俺も興味がそそられて同じ本を手に取り、ページをめくったけどやっぱりすぐ本棚に戻した。
 だって、細かい文字でびっしり。読めない文字大量。そりゃ大介もあんな顔するわけだ。
 ふと、エスカレーターのある方向を見た。  
 このメンバーで初めての仲間割れ。確かに信じれないのは仕方ないけど、けど信じてもらわないと困る。
 だって、俺の予想が当たっていれば次に家族が消えるのは……多分唯の番だから。
 やっぱり、あの時追いかけるべきだった。
 どうして動いてくれなかったんだこの足は。
「何ぼうっとしてんだよ、行くぞ」
 大介に注意されて我に返る。
 そういえば、今日は館内の人が少ない気がする。いつもはもっとたくさん人がいるのに。気のせいか?
「あ、おう」
 気の抜けた返事をして再び里奈について行く。
 さすがに広いなこの図書館。
「これです……あ」
 先を歩いていた里奈が急に立ち止まった。本棚にある本を指さしている。
 でも里奈はやっと見つけたっていう表情より、あれ? みたいな表情をしていた。
「どした? これか?」
 大介が本を取ってタイトルを見た。予想していたよりだいぶ分厚くて大きい。
「『パラレルタウン前編』、だとよ」
 大介が眉間にしわをよせて、頭を掻いた。
「なるほど、な」
 そう言って、大介の肩にポンと手を置いた。
「いや、その、えと、ごめんなさい。前後編あるのを忘れていました」
「まあ、いいよ。後編は?」
 またしてもパラパラと流し読みしていた大介が里奈に尋ねた。
 里奈はしばらく本棚を見ていたけど、浅いため息をついて首を横に振った。
「貸し出し中か。まあいいや、今はこれだけ借りて行こう。後編はまた後から借りにくればいいだろ」
 大介はそう言って来た道を戻ろうとする。
「待てよ」
 肩を掴んで止める。
「どこで読むんだ? なんなら俺の家に来いよ。んで、そのまま泊っていけばいい。みんなで一緒にいる方が安全だろ?」
 一人いないけど。
「そりゃ名案だ。けど、里奈はどうすんだ?」
 大介が里奈を見る。
「だっ、大丈夫です! 泊ります! あの広い家に一人は辛いですし……」
 そういえば、里奈の家は和風建築で、とても大きいんだったな。
「え、あのお手伝いさんも消えたのか?」
 大介が驚いて里奈に聞くと、里奈は黙ってうなずいた。
「ん……ん……」
 大介は軽く二、三度うなずくと再び歩きだした。
「俺達も行こう。帰りに里奈の家に寄るから、着替え取ってこいよ」
「ウ、ウス」
「ウスってなんだよ、バーカ」
 軽く笑いながらそう言うと里奈が背中を叩いてきた。
 唯がこの場にいたら一緒になって叩いてきたかもしれない。

      三

「なあ優也……」
「何だよ大介」
「やっぱり、エレベーター使おうぜ……」
 マンションの階段をのぼっている最中、ふと立ち止まった大介が文句を言ってきた。
 大介はびっくりするほど汗をかいていてとても辛そうだ、情けない。
 かく言う俺も汗だくで、息も荒くなっている。
 性的な意味ではなく。
「大介さんは運動不足。優也さんはタバコのせいですよー。情けないですねえ」
 里奈がひょいひょいと軽く階段を上がって、俺達を追い抜いていった。
 その姿はまるで野に舞う蝶! ではなく、バッタみたいだ。
 けど、女子に負けるなんてなんと情けないことだろうか。
「俺はともかく大介が」
「ん? 何か言ったか?」
 隣で崩れて落ちている大介が反応する。
「やべ、心の声が口から出てしまった」
「あー、悪いがお前にかまっている余裕が無い」
「情けないぞ大介」
「けどよお……」
 そう言って、ダンゴ虫のように丸くなった。
 全く動かない。
「うおらああ!」
 突然跳ね上がるように立ち上がり、雄たけびを上げて一気に階段を駆け上がっていった。
 里奈に負けるのがそんなに嫌か。
 バカめ。
 面白いからいいけど。
 いや、面白くない。全く面白くない。みんな平然を装っているけど、本当は不安で、怖くてしょうがないはずだ。
 それに、唯がいないとすごく寂しい。一人欠けているんじゃダメだ。
 ダメなんだ……。
 唯と早く仲直りしたい、というより早く助けないといけない。手遅れになる前に。
 なのに、なんでこんなことをしているんだ。
 俺は何をしているんだ?
 俺は怖がっているのか?
 何を怖がっているんだ?
 わからない、わからない。
 わからない。
「っぐうう」
 頭が痛くなってその場に座り込んだ。足に力が入らない。
「ぐああああああ」
 突然、悲鳴が聞こえた。
 大介の声。
「なっ?」
 両足に無理やり力を入れて立ち上がり、階段を駆け上がる。
 全身に鳥肌が立つ。
 四つん這いになりながらも、必死に階段を駆け上がった。
 嫌だ、仲間が消えるのは嫌だ。
 肩で大きく息をしながら声がした場所にたどり着く。
 そしてすぐに体から力が抜けていった。安堵からの脱力。
 そこにいたのは、ただ単に疲れて動けなくなっている大介と里奈だった。
「優也、水くれ……」
「優也さん、水……」
 里奈と大介が呻きながら手を伸ばしてくる。
「……バーカ」
 そう言いながら、ペットボトルの水を二人に頭からかけてやる。
「飲ませて……くれよ」
 大介の一言と同時にペットボトルが空になる。
「ああ……」
 里奈の呻き声。
「なあ大介」
 そう言いながら、大介のすぐそばにしゃがみ込む。
「なんだよ」
「唯、助けに行ってやんねぇと」
「大丈夫だろ」
「何でだよ」
「あいつは、お前が思ってるより強い女だぜ」
「強い?」
「ああ、強いよ。唯は」
 ゆっくりと大介が立ち上がる。フラフラと、頼りなさそうに。
「でも」
 俺もつられて立ち上がる。
「唯は、自分でできる限りは自分でやるよ。限界が来たら助けを求めてくるから、待ってやろうぜ」
「けど……」
「待ってやろうぜ! それが、今俺達にできることだ」
 そう言って、大介がゆっくりと階段を上がっていく。
 いつの間にか起き上がった里奈も大介の後ろをついていった。
 ゆっくり、ゆっくりと。

 ようやく階段をのぼりきって部屋に入った頃には、みんな喋る気力を失くしていた。
 無言のまま靴を脱いで部屋に入る。
 そのままリビングを通って俺の部屋に入ると、大介と里奈はすぐに倒れこんだ。
「お茶でいいよな」
 クーラーをつけて部屋を出る。そのままリビングに向かい、母親の遺影に手を合わせた。
「ただいま、母さん」
 そう言って目を閉じると、そばに母親がいるような気がした。
「母さん、俺、どうしたらいいんだろう、わかんねえよ」
 目を開けて遺影を静かに見つめる。当然、答えが返ってくることはなかった。
 台所へ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐ。
 四人分。
「っと、ミスった」
 コップをその場に一つ残して部屋に向かう。
 部屋のドアを開けると、里奈はすでに本を読み始めていた。
「お茶、ここに置いておくぞ」
 コップを三つ机の上に置いて、朝起きたままの状態で敷いてある布団に座り込む。
 大介がコップを一つ持っていった。
 こぼさないでくれよと密かに思う。
「里奈が全部読むのか?」
 里奈に向かって言ったつもりなのだが、読むことに集中しているのか無視された。
「何ページかごとに三人で分けて読むんだ。最初に読んだ人は、次の人に読んだ内容を簡単に説明する。そうすりゃ早いだろ?」
 俺が運んできた麦茶を飲みながら、大介が代わりに説明してくれた。要は、一人ずつ全部読む必要がなくなると。こういうことには頭がよく回るみたいだ。
「なるほどな、了解。タバコ吸ってくる」
「おう」
「俺の順番は?」
「最後」
「了解」
 立ち上がってベランダに出る。
 日差しが強い時間は過ぎているのと、風が少しあるおかげでベランダは気持ち良かった。
 ポケットからタバコを取り出して火をつける。帰る途中で買った新品のタバコ。吐き出された煙がゆらゆらと空に浮かんで消えていく。
「唯……大丈夫かよ」
 ぽつりと独り言。
 大介の言う通り、待ってみることにした。
 もし唯に会って、次にお前の家族が消えるんだなんて言ったら余計に怒らせてしまったかもしれない。それに、助けに行ったって俺には何もできなかっただろう。大介が待てと言ったのは、俺を冷静にさせる意味も含んでいたのかもしれない。それでもやっぱり助けに行きたい。     
 ただ、怖いのも事実。
 どうしたら良いかわからなくなってきた。唯からのアクションを待つしか無いのか?
 突然、ケータイが鳴って、体をビクリと震わせる。
 ……唯からだ。
 通話ボタンを押して恐る恐る耳に持っていく。
「もしもし、唯?」
「……けて」
 向こう側から鼻をすする音が聞こえる。
 嫌な予感がする。
「え?」
「助けて優也っ!」
 予感的中。 
 大介の言うとおり。
 しばらく何も返事ができなかった。
「ま、待ってろよ!」
 叫んでケータイを閉じ、急いで部屋に戻る。
 そんな俺の様子を見て二人が驚いていた。
「唯を、唯を助けに行ってくる!」
「え?」
 里奈が、わけがわからないというような表情をしている。
「な、言っただろ」
 と、大介が得意気な顔をしていた。
「ああ」
 俺はそう一言だけ残し、部屋を飛び出した。
 リビングを通り過ぎる途中、今度は忘れなかった。
「母さん、俺に力を貸してくれ」
 そう言って手を合わせ、すぐに玄関に向かい、ドアを開ける。
 車の走る音も、蝉の声も、人の声も、何も聞こえることはなかった。


            三章

      一  

 私は怒って図書館を飛び出し、一人で帰路についていた。
 何でこんなことになったのだろう。
 何で私は一人でいるのだろう。
 私は間違っていないはず。
 図書館に着いて、テーブルに集まったみんなの顔を見たとき、何が起こったのかある程度想像できた。だって、昨日の夜に大介がしていた表情を優也と里奈がしていたのだから。
 けど、問題なのはその後だった。
 優也の言ったことが信じられない。大介や里奈の家族、優也のお父さんだって、もしかしたら単純にどこかへ出かけているだけで、別に警察沙汰じゃないかもしれない。
 なのに、優也は自分が体験した不思議なこととみんなの家族が消えたことを結びつけて、別の世界に飛ばされたって言う。大介は簡単にそれを信じて、さらに里奈は昔に読んだ小説と同じだなんて言う。
 パラレルワールド。
 そんなもの、実際に存在するわけがない。したとしても、私たちに何ができるの?
 バカみたい。
 親友の言うことだから信じてあげたいのは山々だけど、あまりにもふざけすぎている。
 みんなで私を騙そうとしているの?
 バカにしているの?
 全部信じられなくなってしまいそう。
「なんでよっ!」
 そう叫んで近くにあった電柱を蹴飛ばす。当然、女の力で電柱が揺れたり壊れたりするわけもなく、ジーンとした痛みが足の裏から伝わってきた。
 空しい。
 悲しい。
 イライラする。 
 寂しい?
 わからない。
 あの時、別に悲しくて泣いたわけじゃない。あの場から逃げ出すためにわざと泣いただけ。  
 でも、大介は言いすぎたと思って反省してくれるはず。
 そう、反省すればいい。
 嘘。
 本当は悲しくて泣いた。 
 あんなこと言われないと思っていたから、大介は言わないと思っていたから、悲しくて怖くて涙が出た。
 自分に嘘をつかないと自分を保てない。
 でも、このままじゃダメなのはわかってる。自分に嘘をついてでも、何をしてでも優也達の目を覚ましてあげないと。
 どうすれば目を覚ます?
 大人に言われれば、自分達の考えがバカだったって気付くかな。
 そうだよ、大人を頼ればいい。
 ポケットからケータイを取り出して母親に電話をかける。
 けど、いくら待っても母親の声は聞こえてこない。ずっと同じ電子音が聞こえるだけ。
「……おかしい」
 父親にも電話をかけたけど、結果は同じ。家の電話にも出なかった。
 なんでだろう、今日は二人とも仕事が休みで家にいるはず。家の電話に出ないのだから、もしかしたら二人でどこかに出かけているのかもしれない。
 今、私のすべき行動は親友達の目を覚ますこと。
 大人が手伝ってくれなくても、私一人で。 
 がんばろう。 

「……はいー?」
 家の前に着いて、私は思わず首をかしげた。
 優也ならこれをマンガみたいだと笑うだろう。それを大介がさらに面白おかしくして、里奈が毒づいたことを言う。
 想像して、思わずクスリと笑った。
 でも、これは笑っている場合じゃないかもしれない。
 だって、出かけたと思っていた両親の車が家にあるんだから。
 あ、そうか。車じゃなくて歩いて行ったのかも知れない。歩いて行ったのなら車があるのも納得できる。いや、でもそれならケータイに出れるはず。どういうことだろう。
 ふと、嫌な考えが頭に浮かんだ。
 優也の話。
 そんなバカなことあるわけがない。これはきっと私の思い過ごし。
 門扉を開けて、玄関のドアに鍵を差し込んで回す。けど、鍵が開いた感触がない。違う、感触がないんじゃない。 
 鍵が開いている。
 なんで? いつも外出するときは鍵を閉めるのに。
 今日に限って鍵をかけ忘れた?
 いや、両親に限ってそんなことあるわけがない。
 じゃあ、泥棒?
 不安になりながら、ゆっくりとドアを開ける。
 そこで私はまた首をかしげた。
 両親の靴が玄関にあるからだ。
 私の両親は靴を履かずに出かけたということになる。あまりにもバカげている。
 ふと、脳内に浮かんだある思い出。大介が裸足で学校に来た時のこと。いや、自分の両親が大介と同じことをするわけがない、とも言い切れない。百パーセント無いと言い切れない。
大きく深呼吸をする。何を考えているのだろう私は。一般常識のある大人がそんなことをするわけがない。絶対にありえない。
 じゃあ、なんで。
 靴を脱いで家に上がり、リビングのドアの前に立つ。
 食べ物の匂いが漂ってきた。
 なんだ、やっぱり家にいたんだ。
 胸をほっと撫でおろす。なんだか、一人で色々と考えていた自分がバカみたいだ。そう、急に人が消えるなんてあるわけがない。
 安心して、ドアを開ける。
 ……これで首をかしげるのは三度目。ここまで来るといい加減疲れる。
 リビングの中には誰もいなかった。
 飲みかけのコーヒーが置いたまま。さっきまで、ここに人がいたという空気が漂っている。
 暑さのせいでの汗なのか、それとも別の汗なのかわからない汗が、額から頬をつたって床の上に落ちた。
 いや、まさか。そんなわけがない。
「お父さん? お母さんっ?」
 リビングを出て叫んでみる。返事はない。
「ちょっと! 何かの冗談なの? ねえっ」
 やっぱり返事はない。
 廊下を走って、家中のドアというドアを開けてみたけど、どこにも両親の姿は無かった。
 家を飛び出して、物置まで見た。けど、いない。どこにもいない。
 家に戻ってリビングに入る。
 テーブルの上にはさっきまで食事をしていた形跡が残っていて、そして、本来ならそこにあるべきパーツが無い。
 両親。 
 人。
 混乱してきて、思わず笑ってしまった。
 これは、もしかしたら、本当に優也が話していたことが起きているのかもしれない。それでもまだ、信じられない。
 いや、信じられないのじゃない。信じたくないだけなのかもしれない。
 落ち着こう。
 落ち着こう、私。
 冷蔵庫の中から麦茶の入った容器を取り出して、コップに注がずにそのまま飲む。半分くらい一気に飲み、口から離す。容器からこぼれた少しの麦茶が、ポタポタと床の上に落ちた。
 冷蔵庫に容器を戻して、近くに置いてあった椅子に座った。
 カチ、カチという時計の針の進む音だけが聞こえるほどに静まり返った部屋。
「どうなってんの……」
 頭を抱え込む。
 そういえば、外がすごく静かだ。いつもなら近所の主婦たちの笑い声や、犬の吠える声、子供たちの遊ぶ声が聞こえるのに、聞こえない。今は夏休みの真っ最中なのだから、一人の声さえ聞こえないなんておかしい。
 私は急いで外に飛び出した。
 外はかすかに風が吹いている。
 どこからか人の声はしないだろうかと耳を澄ますけど、何も聞こえない。蝉の声すら聞こえてこない。地域全体が閑散としている。まるで、作られたおもちゃのような街。 
 私が狂ってしまったのだろうかとさえ思ってしまう。
 ゆっくりと歩いて、順番に家を見る。門扉を開けて庭を覗いてみたり、インターホンを押してみたりする。でも、どの家にも誰もいない。
 勝手に玄関のドアを開けて、他人の家に入っていく。鍵は開いていた。
 家の中はやっぱり静まり返っていて、人の気配がしない。人がここいたという形跡は残っているけど。例えば、片づけられていない食器とか。
 まるで、あるタイミングで人だけを消してしまったように。
 なんだか怖くなって、家の外に出た。
 相変わらず人の気配はしない。
「いやいや、そんなわけないよ。きっと……」
 言葉が続かない。
 もう、何も思いつかない。
 ふと後ろを見ると、道の先に何かがあるのに気がついた。
 陽炎だろうか、ゆらゆらと動いている。
「ま、いっか。それより人を捜さないと」
 そう言って、前を向いて歩く。けど、なんとなく気になってもう一度後ろを振り向いた。
「んん?」
 気のせいか、陽炎が近くに来ている。さっきより、ずっと近くに。
 いや、気のせいじゃない。陽炎が近付いている。しかも、よく見ると揺れ動いている範囲が広がっている。徐々に大きくなりながら私に近づいている。
「なんなのよっ!」
 叫んで、前を向いて走り出した。
 必死に、必死に。
 髪を振り乱しながら。
 心臓が破裂してしまいそうなくらい苦しい。すぐに口の中が乾いていく。
 走る。
 走る。
 ひたすらに、走る。
 追いつかれないように。
 自分の限界を超えて。
 いつもより速く走る。
「はあっ、はあっ」
 走りながら後ろを見た。
 陽炎はもう、すぐ後ろにまで迫っていた。
 ダメ、このままじゃ追いつかれる。でも、これ以上速く走れない。なんで陽炎が迫ってくるの? そういうものなの? だとしたら私はなんで怖がって逃げているの?
 考えながら走っていたせいで、足をひねって転んでしまった。
 無様に、顔面からアスファルトの上に滑り込む。その拍子に腕を擦りむいたのか、ヒリヒリと痛む。泣きそうになる。でも、泣いている暇はない、早く立ち上がって逃げないと。
 そう思いながら起き上がろうとする。
 ズキリ。
 左足首に激痛。
「うっ」
 小さく悲鳴を漏らして、顔をゆがめる。
「こんのおおおっ!」
 自分を奮い立たせて、無理やりに立ち上がった。
 ズキズキと絶え間なく迫ってくる痛み。けど、歩けないほどではない、と自分に嘘をついて
再び走り出す。もちろん、さっきと同じ速度で走れるわけがない。左足を引きずっているせいで歩いているのと同じくらいに遅い。
 むわりとした熱気を背後で感じる。
 もう、ダメ。
 私一人じゃダメ。
 ケータイを取り出して、履歴から電話をかける。
 優也に。
 ほとんど待つこともなく、優也の声が聞こえてきた。
「もしもし、唯?」
 そう言う優也の声は、どこか不安気な声に聞こえる。
「……けて」
 体が震えて声がうまく出ない。
「え?」
 優也が聞き返してきた。
 お腹に力を入れて、全身の声を振り絞る。
「助けて優也っ!」
 叫んだ直後、体中が熱気につつみこまれた。

      二

 私は、目を覚ますと不思議な場所にいた。
 さっきまで外は明るかったのに、辺りはすでに暗くなっていて、空を見上げれば黒くてどんよりとした空が広がっている。
「なに、ここ」
 不安になり、胸の前で手を握り締める。
 相変わらず周りに人はいない。
 私が気を失っている間に日が暮れてしまったの? 
 ふと、脳裏をよぎる優也の話。
 パラレルワールド。
「まさか、そんな……」
 私がその世界に迷い込んでしまった? あの陽炎のせい?
 もう一度空を見上げる。おかしな空だった。一か所だけ、晴れた昼間に見るような色をした雲があって、その周りにどんよりとした黒い空がある。
 あまりに不自然。
 ゆっくりと辺りを見回す。視界の端に不思議なものが見えて、思わず二度見した。空間に隙間のようなものがある。しかも、その隙間の中だけ、昼間のように明るい。ここまでくると、バカげていると言うことができない、認めるしかない。
 そう、わかった。
 信じる。
 優也の話を信じる。
 だって、私が実際にパラレルワールドにいるんだから。
 だから、お願い。 
 助けて優也!
 なんて思ったところで、ヒーローのように都合よく現れるわけがない。
 はあ、と深いため息をつきながらその隙間に近づいて行く。隙間の先は周りと同じように道が続いていて、手を伸ばせばその先に入れそう。
 でも、試しに手を入れてみるような度胸を私は持っていない。
「私は、ずっとこの世界からでれないの?」
 口に出して確認する。わざわざ言わなくても、薄々感づいていたこと。誰かが助けてくれないと私はこのまま。
 両の目から涙があふれ出てきた。とめどなくあふれ出てきた。
「うああ、うあああっ、助けてよっ、優也あ……」
 力無く、その場に両手をついて倒れこむ。ポタポタと涙が地面に落ちていく。
「唯い!」
 優也の声が聞こえた気がした。気がしただけ、助けになんて来てくれるわけ無い。あんなひどいことを言ったんだから。
「手を伸ばせっ! 唯!」
 また、聞こえた。幻聴が私の耳にまとわりついて消えない。
「いやっ! いやああ!」
 叫んで、両手で耳をふさぐ。
「こっちを見ろよ! バカ!」
 ふさいでも聞こえる。
 まさか。
 期待と不安が混ざり合う。恐る恐る顔をあげて隙間を見た。 
 伸ばされた手。誰かの顔。涙で濁ってよく見えない。涙を拭いて、もう一度隙間を見る。
 優也だ。
「早く手を伸ばせって!」
 優也が来てくれた。
「優也……?」
 優也が助けに来てくれた!
「優也っ!」
 飛び起きて、優也の手に両手で捕まる。優也も、もう片方の手で私の手を掴んだ。交互に重なる私と優也の手。
「ぬおおおおおっ!」
 そんな叫び声と一緒に私は隙間の向こうへ引っ張り出された。
 優也と一緒に地面に倒れこむ。
「いってえ……」
「優也! 優也ああ」
 涙を流して、優也の胸にすがりつく私。もう、恥ずかしいとか、みっともないとかそんなの関係無い。今はただ、優也が助けに来てくれたことがうれしかった。
「落ち着け、落ち着けって唯」
「だって、だって私あんなこと言ったのに!」
「バーカ。友達だろ?」
 そう言って、優也がやさしく私の頭を撫でた。
「……ん」
「恥ずかしいから、そんな声出すなって」
 優也が笑う。冗談っぽく言いながら笑う。
 その時見た空はもう黒くてどんよりした空ではなく、青くて、とても綺麗な空だった。
 
      三

 誰もいない町の中を、私と優也を乗せた自転車が進んでいく。
 自転車のカゴには私の荷物。
 私は優也の背中にもたれかかって、静かに景色を見ていた。
「ねえ優也、本当に誰もいないんだね」
「ああ、そうだな。まあ、家族以外の人が消えていること、俺もさっき知ったんだけどな」
「ねえ、優也」
「なんだよ」
「……ありがとね」
「そういや、お前、俺のことアンタって言わなくなったな」
「ちょっと、話をはぐらかさないでよ」
 そう言って優也の背中にそっと抱きつく。
 確かに、私は優也に助けられてから名前で呼ぶようになっている。気分的に? そうじゃない。私の中で、優也の存在が今まで以上に大きくなっているから。こればっかりは嘘をつきたくない。
「な、ん……」
 そう言って優也が黙り込む。恥ずかしがっているのだろうか。なんだか、可愛く思える。
「恥ずかしい?」
「違う、あ、暑いから」
「嘘つき」
「うるせえ」
それっきり、お互い黙り込んでしまった。でも、気まずいとかそういうのは無い。
 私は恥ずかしがっているのだろうか。
 目をつぶって、頬を優也の背中にくっつける。少し汗ばんでいて、決して気持ちよくはないけど、なんだか安心できた。
「おい、見てみろよ」
 そう言って、優也が自転車を止める。
 スムーズに自転車から降りて、優也の指差す方向を見る。
 夕焼けの空。
「夕焼け、まぁ、綺麗だよね」
「ちがうちがう、そうじゃない」
「じゃあ、何?」
「あの雲を見てみろよ」
 自転車から降りた優也が、もう一度空を指差す。私は目を凝らしてその先を見つめた。
 真っ白な雲がある。
「あの雲がどうかしたの? 白くて綺麗な雲じゃん」 
「おかしいだろ?」
「何が?」
 はあ、と優也のため息。ちょっと不機嫌になった。
「なんで、あの雲だけ白いままなんだよ。他の雲は赤く染まってるだろ?」
「あっ……」
 言われて初めて気がついた、確かに白いままだ。
「あと、これを見てくれ」
 優也はケータイを取り出して、画面を私に見せてきた。画面に表示された画像。
 雲の写真。
「これって、え?」
 画面と空を交互に見る。何度も見る。
「え、え、え……」
 同じ雲。
 画面の雲と、空の雲が同じ。
「な、変だろ。まるで、あの雲だけ時間から取り残されたみたいだよな。何か、関係あるのかも」
 そう言われて、ふと思い出すあの世界での記憶。
 黒い空の中に、一か所だけ浮かんでいた白い雲。あんなの、忘れるわけがない。
「優也、あのね」
「なんだ?」
「パラレルワールドに連れて行かれた時、あの雲みたいなのが一つだけ浮かんでた」
 空の雲を指さす。
「その時の空、黒かったか?」
「うん。黒い空の中に、ポツンと浮かんでた」
「なるほど。そして、今俺たちが見ている雲も時間が止まったように白いまま」
「うん」
 短く応答。
「里奈の話と合わせて考えると、パラレルワールドとこっちの世界はズレて重なっていて、その重なった部分があの雲なんだと思う。そして、そのズレからパラレルワールドに連れて行かれるんだと思う」
「重なってるのは雲だけなの?」
「わからない」
「じゃあズレは?」
「いろんな所にあると思う。俺はプールの水の中で連れて行かれたし、その後にマンションのエレベーターでも連れて行かれそうになった」
「私は陽炎だった」
 優也が腕を組んで目をつぶる。
「てことは、ズレの形は色々あるわけか。油断できないな」
「ねえ、優也」
 目を開けて優也が私を見る。腕は組んだまま。
「この異変は、世界中で起きてるのかな」
「さあな。電気が使えるから、多分、この町だけ起きてるんじゃないか? 里奈の言ってた小説でもそうだったしな」
 そう言いながら、優也が自転車に乗る。
「小説?」
「あー、まあその辺は気にすんな。説明がめんどくさい」
「ちょっとまってよ優也。頭がこんがらがってきた」
 それは本当。あまりにも話がぶっ飛びすぎていて、頭が追いつかない。理解できたような理解できていないような、そんな感じ。
「簡単に言うと、多分この町にだけ異変が起きている。その異変のせいで人が消えていく。しかも、原因はパラレルワールドとこっちの世界がズレて重なったせい。それは、小説によると数十年に一度起こる。以上だ」
 わかりやすかったような、わかりにくかったような、そんな説明だった。
「ええと、うん。ありがと」
 そんな曖昧な返事しかできない。
 きっと、優也だってすべてを理解してないんだと思う。優也だけじゃない。里奈だって、大介だって。
「んなことより、早く後ろ乗れよ。行くぞ?」
 優也が自転車の荷台を私に向ける。
「うん」
 軽くそれだけ返事をして後ろに乗った。
 落ちてしまわないように、優也の腰に手をまわして抱きつく。一瞬、優也の体がビクリと震えた。
 自転車がゆっくりと動き出す。最初はふらついていたけど、すぐに安定した走りになった。
「ちょっと遅くない?」
「大丈夫、すぐに下りの坂道だから」
 優也が言うと同時に、自転車のスピードが上がった。一気に加速して、坂道を下りていく。
 私の髪が風になびいてうっとおしかった。
 ふと、西の空を見る。
 夕焼け、オレンジ色の光が空を包んでいる。なんだか切なくなって、優也により強く抱きついた。
 優也とずっとこうしていたい、心のどこかで密かにそう思っている私がいた。
   


            四章
       
      一

 日も暮れて、今日は何を食べようかと思っていたころ、優也が部屋に帰ってきた。
 唯を連れて。
 ドサ、と荷物が置かれる。
 一瞬、唯と目が合う。何をどう言ったらいいのかわからない。
「よ、よう」
 なんて、弱々しい挨拶しかできなかった。
「う、うん」
 それは唯も同様だった。
「その、俺さ、ついカッとなってさ……ごめん」
「……私こそ、ごめん」
 それ以上会話が続かなかった。お互いの目を見たり離したり、気まずい雰囲気になった。
「はいー、めんどくさい空気はそこでおしまいです。次は優也さんが読む番ですよ」
 里奈がそう言って、俺と唯の間に割り込んできた。
「里奈……」
 唯が里奈を見つめている。なんだか、今にも泣きだしそうな表情だ。
「ケンカなんて、誰だってしますよ。それに、ここに来たってことは優也さんの話を信じたってことですよね? なら、一緒に解明していきましょうよ」
 唯の両目が涙に滲んでいる。
 あ、泣くぞ、泣くぞ。
「ごめっ……うあああああああ」
 ほら、泣いた。
 唯がその場にしゃがみ込む。
「ま、がんばろうぜ」
 そう言った優也が唯の頭をやさしく撫でて、俺を見た。
 え、俺?
「小説、お前が読んだ部分、どんな内容だったんだ?」
 ああ、それか。
「ちょいまち」
 書いておいたメモを手にとって、優也に渡す。
「俺の口からの説明だけじゃわからなくなるだろうから、それを見ながら聞いてくれ」
「わかった」
「じゃあ……」
 自分の頭の中でできる限り整理して、わかりやすく説明する。これが結構むずかしい。

 説明が終わった頃には、口の中がカラカラに乾いていた。多分、時間にしたら十分くらいはかかっていた。里奈に説明してもらった時はもっと短く感じたんだが。
「お前、もうちょっと短く説明できねえの?」
「ごめん」
 反論できないのが悔しい。俺なりに頑張ったんだが。
「どういうことなの?」
 優也の隣で、黙って話を聞いていた唯が聞いてきた。
「この町の異変は、この小説の内容と似てんだよ。だから、この本を読めば解決策が見つかるかもしれねえから、みんなで読んでるんだよ。少しずつ、交代制で」
「ん、わかった。だから大介が優也に説明してたんだ」
 そういうこと。
「唯は優也の次に読んでくれよ」
 持っていた小説を優也に渡す。
「サンキュ」
 優也がその場に座って本を読み始める。
 ふと里奈を見ると、一心不乱に何かをノートに書いていた。
 ちょっと気になって覗いてみる。
 俺がさっき優也に話した内容と、里奈が俺に話した内容が要点だけを抑えて書かれていた。
「あ、そっか。それをしないと意味ねえよな」
「そーゆーことです」
 里奈の動きが止まる。ピタリと。
「忘れると大変なので、今は話しかけないでください」
 再び里奈は動き出した。
 まあ、みんなで話し合う時にそれが必要になってくるから、今は喋りかけないでおこう。
 気がつけば、唯の姿が見当たらなかった。さっきまでここにいたのに、部屋にいない。
 二人の邪魔にならないように部屋を出て、軽く唯を捜す。
 唯はすぐに見つかった。
 台所に。
「何してんだ?」
 エプロン姿の唯が振り向く。
「見てわからない?」
 わかります。聞いた俺がバカでした。
「料理以外のなんでも無いな」
「手伝ってくれるの?」
「いや、俺は家に戻って着替えをとってくる」
 コイツとさっきまでケンカをしていたなんて言っても、誰も信じないだろうな。
「……今から?」
「ああ」
「一人で?」
「ああ。お前も着替えいるんじゃねえのか?」
「さっき持ってきてたでしょうが」
「そういえばそうだな」 
 俺は忘れっぽい性格なんだ。なんて、恥ずかしくて言えない。いや、本当は恥ずかしくなんてないが、男のプライドが邪魔した。
「夕飯って、なんでもいいよね?」
「多分な」
 そう言って、玄関に向かおうとする。
「気をつけてね」
 なんて、母親みたいなことを言われて、胸が締め付けられるような思いがした。
「さっさと帰ってくるよ」
 そう言い残して俺は部屋を出た。

 自転車で夜道を走る。
 夏の夜空は星がきれいだ。
 ものすごくたくさん、というわけでもないが。
「おおっとっがっ」
 上を見ながら走っていたせいで、バランスを崩してこけそうになる。ぎりぎりでこけることはなかったが。
 それにしても、人の気配がしない。嫌な予感はしていたけど、俺たち以外の人がいない。俺の母親から始まって、順番にみんなの家族が消えて、最終的には町の人全員。俺たち以外。
 街灯があるおかげでまだ明るい。電気が通ってるってことは、この町以外には人がいるっていうこと。それなら、隣町まで行って助けを求めた方が良かったかもしれない。いや、信じてもらえないかもな。
「誰か助けてください! 俺の町から人が消えたんです!」
 なんて、試しに叫んでみる。
 自分でも涙が出るくらいに変人だった。
 絶対信じてもらえない。
 少し、自転車の速度を上げた。早く用事を済ませて帰りたい。それに、一人でいるのはなんだか怖い。優也の言っていた世界に俺まで飛ばされるのはごめんだ。
 けど、優也はどうやって戻ってきたんだ? なんかの拍子に偶然戻ってこれたとか、そんなとこだろうか。
 そこまで考えて、俺は首をひねった。あれ。
 優也は確かに戻って来れた理由を言っていた気がする。困った、忘れてしまった。
「ぬおー」
 思い出せない。全く思いだせない。ここまで来ると俺の脳は壊れてるんじゃないかって思ってしまう。いや、これ間違いなく壊れてんだろ。
「おおっとっがっ」
 考え事をしながら走っていたせいで、目の前に迫ってきている電柱に気がつかなかった。寸前で避けたからよかったけど。
 いつか死ぬな、俺。
 その世界に飛ばされたってことは、その世界に行けば人はいるはず。助けるには一度その世界に行って、人々を連れて戻ってこないといけない。なのに、その世界から戻ってくる方法どころか、行く方法さえわからない。絶望的だ。
 そんなことを考えているうちに、我が家が見えてきた。
 マイホーム。
 誰もいないマイホーム。
 自転車を車庫に置いて家の中に入っていく。壁のボタンを押すと廊下まで一気に明るくなった。
 誰もいないとわかっているのに、笑顔を作ってリビングに入っていく。
「ただいま」
 当然、返事はない。ただ空しく、俺の声が聞こえるだけ。
 なんで……なんでこんなことになったんだ? 俺たちが何かしたのか? 何もした覚えはないのに。日中は優也達と楽しく遊んで、夜にはこのリビングで、家族で笑いながら夕飯を食べる。弟の面倒を見て、眠って一日が終わる。ただ、それだけしかしてないじゃないかよ。
「親父…」
 いつも親父が座っているイスを触る。
 毎日仕事で疲れて帰ってきても、幼い弟に遊んでと言われれば喜んで遊ぶような優しい父親で、俺が幼いころもよく遊んでくれた。今では、俺のテストの低い点数を聞くたび笑って、俺を励ましてくれた。
 親父のイスの向かい側には母親のイス。
「母さん……」
 誰よりも自分を強く持っていて、賢くて、優しかった母親。
 母親が消えたあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
俺の人生の中で一番大きい事件なんだ、忘れるわけがない。 
「うっうあっ……」
 その場に泣き崩れた。
 両目から涙があふれ出してくる。ポタ、ポタと床に落ちていく。
 止まらない。
「なんで……なんでなんだよ……!」
 ドン、と強く床を叩いた。
 何度も、何度も。
 手が赤くなる。
 叩くたびに赤くなる。
 涙は止まらない。
「っざけんじゃねえよっおお!」
 叩けば叩くほど悲しくなって、叫べば叫ぶほど辛くなって、涙があふれてくる。
 もう、痛みに対しての涙なのか、悲しみに対しての涙なのかわからない。
 不意に、聞きなれた音楽がリビングに鳴り響く。俺のケータイだ。
 ボタンを押して耳に持っていく。
「ばい、もじもじ……」
「うわあ、なんて声してるんですか」
 里奈の声だった。
「うるぜえ」
 ずっ、と鼻をすする音。
「もう夕飯出来てますよ? 早く帰ってきてください」
 そうだ。
「おう、わがっだ」
 今の俺にはみんながいる。
 まだ、すべてを失ったわけじゃない。
 みんなが、俺には残っている。
 失うわけにはいかない。
「じゃ、待ってますからねー」
 その声を聞いて通話を切る。
 スムーズな動きでケータイをポケットにしまうと、俺はすぐに起き上がった。
 さあ、帰ろう。
 みんなのところへ。

      二

「遅い! 心配しただろ!」
 玄関のドアを開けて、いきなり優也に怒鳴られた。
「ごめん、ちょっとあって。 もう大丈夫だからよ」
 靴を脱いで部屋に上がる。荷物は玄関に置いておくことにした。
 おいしそうな夕飯の匂いが漂ってくる。
「ま、いいじゃん。無事なんだし。早く食べてよ」
 奥から唯が顔を出した。さっきと同じでエプロン姿、結構似合っている。
「私お腹すきましたよ」
 リビングの方から里奈の声が聞こえた。多分、イスに座って待っているのだろう。
「俺も腹が減った、食べよう」
 リビングへと進んでいく。
「お前を殺したいと思ったのはこれで何回目だろうか……」
 後ろから優也の物騒なセリフが聞こえてきた。今までよく生きてこれたな俺。
「実行しないのが、お前の良いところだ」
「お前ちょっと表出ろ」
 笑いながら優也が俺の肩を掴まえる。ガシッと。
 触らぬ神になんとやら。
「悪かった、俺が悪かった。これをやるから許してくれ」
 すっと差し出した写真。 
 水着姿の唯の写真。
「いつ撮ったのよおおおっ!」
 電光石火のごとく唯が写真を奪っていった。
「ああ、この前のプールの時の写真だ」
 俺はいたって冷静。続けざまにもう一枚取り出した。
 今度は里奈の写真。
「おお、これは……」
 優也が大げさに反応する。
「な? だから許してくれ」
「これは、そうだな。許す」
 優也はその写真をポケットにしまいこんだ。
 確かに、あの写真はすばらしい。里奈の美しく長い黒髪が水に濡れていて、襲ってくる水しぶきに怯える表情はまさに、奇跡の一枚。
「そして、一番のポイントはあのふくよかなバスト……」
「早く来いって言ってんでしょうがっ!」
 スパーン。
「ぬおっぐうう」
 唯にスリッパで叩かれた。音は軽いが、重たい一撃だった。
「やっぱり、空っぽの頭は良い音がしたな」
 優也はそう言い残し、笑いながら歩いて行った。
 余計な御世話だ。俺の頭は繊細なんだぞ?
「ほら、行くわよ」
 唯が歩いて行く。俺は黙って後ろについて行った。頭をさすりながら。
 リビングに入ってすぐにイスに座った。
 里奈と向かい合う位置。俺の隣に唯が座り、里奈の隣に優也が座った。
 テーブルの上には簡単ながらもおいしそうな手料理が並んでおり、それを里奈が獣の眼で見つめていた。
「もういいです……みんなは里奈を餓死させる気なんですね」
「ごめん里奈。食べよう」
 触らぬ獣に祟りなし。
 素直に謝っておいた。
「じゃ、食べるか」
 優也がそう言う。
 いつもより遅めの夕飯だ。
「こうやって、みんなで食べるのって何だかいいね」
 ぽつりと唯がつぶやく。
「だよな」
「そう……ですね」
 同意したのは里奈と優也だった。
 唯は、両親が共働きで帰ってくるのが遅いから、夕飯はほとんどいつも一人らしい。よくよく考えれば唯が料理上手なのもそのせいだろう。優也も似たような感じだ。親父さんと二人だけの食事、親父さんの帰りが遅い時には一人で食事。里奈なんかもっとひどい。一応お手伝いさんが家にいるが、両親にはほとんどほったらかしにされている。
 だから、三人とも多人数で食事をするのが楽しいんだろう。
 俺は、俺はどうだろう。三人に比べれば幸福な家庭かもしれない。夕飯時には一家全員がそろって食事して、一人で食事をすることなんて滅多にない。
「何ボケっとしてんだよ、大介」
「へ? いや、別に何でもねえよ」
「食わねえなら、焼き魚もらうからな」
 優也の箸に挟まれ宙に浮く俺の焼き魚。
「おいっ」
 ガシッと俺も焼き魚を挟んだ。
「いいだろ? くれよ」
「俺の焼き魚だ」
 お互い一歩も引きさがらない。焼き魚は今にも引きちぎれそうだ。
 ああ、焼き魚の悲鳴が今にも聞こえてきそうだ。というか、なぜそこまでして俺のを奪っていこうとするんだよ。
 ちらりと優也の目を見る。あきらめろという意味を込めて。
「あきらめるのはお前だ大介」
 まさか、本当に通じるとは思ってなかった。
「あきらめるのは優也でしょうが!」
 スパーン。
「ふぬおおっ」
 唯が優也の頭をスリッパで叩いた。
 不意に離される焼き魚。あと少し反応が遅れていたら落としていた。
「ふう、ありがとう唯」
「ありがとうじゃないよ、行儀悪いでしょ?」
「ごめん」
「そうですよ、行儀悪いです」
 会話に里奈が入ってきた。
 一瞬だけ視線を里奈の方に移す。思わず二度見してしまった。だって、山のような白いご飯に焼き魚が刺さっている。しかも、それを一気に口の中へかきこみやがった。
「お前、人のこと言えねーよ」
 里奈に一言。隣で唯がうなずいていた。
「まったくだ」
 優也もうなずく。
「余計なお世話です」
「マナーで減点一だな」
 優也がポン、と里奈の肩に手を置いた。
 里奈は一瞬だけ体をびくつかせて、優也を睨んだ。でも口元が笑っている、本気で怒っているわけではなさそうだ。
「減点ってなんですかっ」
「うるさい、さらに減点だ」
「え、ちょ、やめてください」
 さすがに里奈が本気で嫌がりだした。
 そんな里奈を見ても優也は笑っている。
「今度は優也が減点一だな」
 そう言って、優也の漬物を奪った。
「ほんと、最低ー。嫌がってるのを見て笑うなんて」
 唯の箸先が優也の茶碗に突き刺さり、白いご飯を奪っていく。
「なっ、おい」
 時すでに遅し。白いご飯は唯の口の中へ、漬物は俺の口の中へと入っていった。
「優也さん」
 少なくなった自分の夕飯を見て、何とも言えない表情の優也に里奈が声をかけた。
「なっ……」
 里奈を見た優也が小さく悲鳴を上げた。
 気のせいか、里奈の体から黒いオーラが出ている。
「ざまあみろ」
 笑顔でそう言った里奈を見て、その場にいた全員が震えあがった。

 夕飯後、部屋でこれからどうするか考えていた。
 部屋にいるのは俺と優也だけ。里奈と唯は洗い物をしていた。
「タバコ吸ってくる」
 優也が立ち上がる。が、そのままベランダに出て行こうとはしない。
「どうした、吸ってくるんだろ?」
「大介、お前も来いよ」
「俺は吸わねえぞ」
「違う違う。ま、いいからいいから」
 優也が部屋のドアを開ける。台所から食器を洗う音が聞こえてきた。
「ベランダじゃねえの?」
「ん、まあ」
 気の抜けた返事をして、部屋を出ていく。意図がわからないが、とりあえずついて行くことにした。
「どこ行くの?」
 リビングを通る時に唯に声をかけられた。里奈も俺たちに気がついたようで、ぼけっとこっちを見ている。
「タバコ吸ってくる」
 優也はそれだけ言うと、そそくさと靴を履いて玄関から外に出て行った。
「大介さんも行くんですか?」
 里奈が首をかしげる。そりゃそうだろう、俺はタバコなんて吸わないから。
「俺はただの付き添い」
「ま、そのほうが良いかもですね」
「危ないからな」
 軽くそう返事して、外に出た。
 マンションからみる景色の中にところどころ明るい場所がある。多分、朝から電気をつけっぱなしにしていた家とかコンビニとかだろう。
 電気はついているくせに、車の走る音も何も聞こえない。まるで別の世界に迷い込んだようで、とても不気味だった。
「不気味だよな」 
 マンションの壁にもたれかかって、タバコを吸っていた優也がそうつぶやいた。
「ああ。町から人が消えただけでこんなにも変わるんだな」
 タバコの煙がゆらゆらと漂いながら俺の方へとやってくる。
「ベランダなら、雲が見えるんだよ」
「雲?」
「前に話したろ?」
「ああ、動かない不思議な雲か」
 動かない雲、優也の話では色も形も変えず、風に流されることもなくその場に留まっているらしい。
 優也がその雲を最初に見たのはプールに行った日、そして、俺の母親や里奈の家族が消えたのも同じ日。関係が無いと考える方が難しかった。
「唯にも話したんだけど、多分、あの雲がパラレルワールドと重なってる部分だと思う」
 ふう、と優也の口から吐き出される煙。月の光に照らされて、どこか綺麗に見えた。
「何でそう思うんだ?」
 そう言いながら俺はその場に座り込んだ。タバコは吸わないので、代わりに口の中にガムを放り込んだ。噛むと瞬時に広がるミントの味。悪くない。
「唯がさ、あの世界に連れて行かれてたんだよ」
 初耳。驚いてガムを噛む口が止まった。
「マジかよ。どうやって助けたんだ?」
 一つの疑問が解決していないのに、新しい疑問を上書き。
「なんか、空間に隙間みたいなのがあって、そっから唯が見えたから引っ張り出した」
 そう言いながらタバコを消して、携帯灰皿に入れる。吸いがらをポイ捨てしたところを見たことが無い。
「ものすごく簡単に言ってるが、裏には苦労が隠れてるんだよな?」
「当然。唯が重たかった」
 優也が笑った。俺も笑う。くだらないことを言い合って笑うこと、それが今はすごく大切な時間に感じた。
 もし優也が消えてしまったら、こんな会話もできなくなるから。
「なあ優也」
 ある程度笑いが弱くなったところで話しかけた。
「なんだ?」
「雲の話、続き」
「ん。で、まあ、唯があの世界で、同じ白い雲を見たって言ってるんだよ」
「なるほど、それで、さっきの話か」
「そゆこと。あと、人を連れていくズレはいろんなとこにあると思う。てか、ある」
「言い切ったな」
 古いガムを捨てて、ガムを新しく口の中に放り込んだ。優也にも勧めたが断られた。
 優也が慣れた手つきで二本目のタバコに火をつける。
吸いすぎ。
「だって、俺が二回連れて行かれそうになったのと、唯が連れて行かれたのは方法が違うからな。俺はエレベーターとプール、唯は陽炎」
「陽炎?」
 聞いていない話だった。優也の方は前に聞いたけど。
 陽炎って、空間がゆらゆらってなるやつだろ?
「いや、俺も実際に見たわけじゃないんだ、唯がそう言ってた。陽炎が追っかけてきて飲み込まれて、気がついたらあの世界にいたんだとよ」
 気がついたら、か。優也の時も唯の時も、無意識のうちにあの世界に連れて行かれている。
 事前に察知して逃げられない。
「エレベーターの時、何でお前は助かったんだろうな」
「さあ、運が良かったんじゃね?」
「二回も危ない目に遭ってる奴の運が良いとは思えないけどな」
「それもそうだな」
 そう言って優也が肩をすくめて笑う。
 でも、本当に運が良かったとしか考えられない。
 ズレから逃げるには、その時の自分の運に任せるしかないのか。そんな不安定なものに任せるしか。
 俺達は、いつ自分たちが連れて行かれてしまうかわからないという恐怖に怯えるしかないのか。
 どうにかして、みんなの身の安全を確保したい。
 どうにかして、自分の身の安全を確保したい。
 なのに、方法も何も見つからない。
 どうすりゃいいんだよ。
「ま、あんまり遅いと二人が心配するから部屋に戻ろうぜ」
 悩んでいるのを優也に気づかれないように少し明るめにそう言って、ドアノブに手をかけた時、優也に肩を掴まれた。
「まだ本題を話してない」
 真顔でそう言う優也。
「……唯や里奈が聞いてると困る話か」
「ああ。俺さ、小説、唯に読ませずに一人で最後まで読んだわけよ」
「それで?」
「前編には人達を助ける方法なんて書いてなかった。それだけじゃない、俺達の情報になるようなことも書いてなかった」
 優也が三本目のタバコに火をつける。
「二人には話したのか?」
 何も言わずに首だけを横に振る。
「言えるわけねえよ。家族を、町の人達を救う方法が現段階ではありませんなんて。第一、後編に書いてあるかもしれないしな」
 前編には方法が書いてあるだけで、実行するのは後編っぽい。みたいなことを二人に話したんだろう。本当のことを言うのが怖いから、悲しむ二人を見るのが怖いから。二人が後編を読めばバレてしまう嘘なのに。
 でも、時と場合によっては嘘が優しさになる時だってある。真実ばかりが優しさとは限らない。残酷な真実を教えて悲しくなるくらいなら、希望のある嘘を教える方が良いに決まっている。
「二人に町の人達を救う方法を聞かれたら、なんて答えりゃいいと思う?」
 助けを求めるような目で俺を見つめてきた。
 二人に話した時には聞かれなかったのか。
「話をはぐらかすとかは?」
 優也がため息と一緒に煙を吐き出す。
「唯がそれを認めないと思う。答えるまでしつこく聞いてくるぞ」
 多分、唯と一緒になって里奈も聞いてくる。そうなるとはぐらかすのは難しいか。
「嘘の方法を言うとか?」
「それだ」
 優也の目が大きく開かれる。
 嘘か、この嘘は二人にとって優しい嘘になるのか?
「気乗りはしないが、ま、仕方ないか。どんな嘘にする?」
「俺が考えとく。どうせ、後からみんなで話し合うんだからその時を楽しみにしとけ」
 楽しみじゃない。
 全く楽しみじゃない。
 友人が友人に嘘をつくところなんて、楽しみにしておけるわけがない。俺は、その場面を目のあたりにして黙っていられるのだろうか。いや、黙っておかないといけないのか。
「なあ、優也」
「どうした?」
「いいのか、これって」
 俺の質問に優也が苦虫を噛みつぶしたような表情になった。腕を組んで黙り込む。
「俺にもわからない。けど、こうするしか……」
「ごめん」
 思わず謝ってしまった。
 聞くべきじゃなかった。優也だって嘘をつきたくてつくわけじゃないんだから。
「なんで謝るんだよ」
「いや、ごめん」
 一度否定して、次に出てきた言葉がまた謝罪の言葉。
 自分が嫌になる。
「ま、とりあえず部屋に戻るか。助ける方法以前に、あの世界に行く方法と戻ってくる方法を考えねえと。なんか、順番が逆だよな」
 そう言って笑う優也。後先考えずに敵の陣地に飛び込むのは、アニメの主人公によくあることだ。そんな主人公を見るたびにバカだなと思っていたが、もうバカにできないな。
「ああ」
 短くそう返事しておいた。何を言ったらいいか浮かばなかったから。
 優也がドアを開けて部屋に入っていく。
 ドアが開いても部屋に入ってこようとして来ない俺を見て、優也が首をかしげた。
「ああ、悪い。先に行っててくれ」
「ん、おう」
 そう言って優也がドアを閉める。
 なんだか自分だけがみんなから隔離されたような、そんな感じがした。
 外には俺一人。それは今この街で外に出ている人間が俺だけというのではなくて、言葉通りの意味。
 通常ではありえないようなこと、アニメや映画の中でしか見たことのない世界が今、目の前に広がっている。聞こえはいいかもしれないが、実際はひどい。やっぱり、現実ってのはこんなもんだ。
 口の中の古いガムを捨てて、新しいガムを放り込む。
 噛むと広がるミント味。悪くない。
「悪くない……」
 思ったことを呟いてみる。
 もし、この町での誰かが何か悪いことをして、そのせいでこんな目に遭っているのだとしたら、その誰かが悪者で、俺達が正義の味方。でも、実際は悪者なんていないし、俺達は正義の味方でもない。いっそ、悪者がいてくれたらどんなに楽だろうか。そいつを倒せば終わりなのだから。アニメや映画みたいに。
 夜空を見上げる。名前も知らない綺麗な星が浮かんでいる。
 叫びたくなった。なので、実行する。
「俺達が何をしたって言うんだよ!」
 恥ずかしいのか少し声が小さい。
「家族を返せよ!」
 二回目は大声が出た。もっと出るな。
「どうすりゃいいんだよ!」
 自分でも驚くような大声。
「誰か答えろよクソがー!」
 やっぱり俺はバカなんだな。でも、バカでもいいさ。天才なんかよりバカでいい。バカがいい。理由なんていらない。バカだから。
「バカで何が悪いーっ!」
 肩で大きく息をしながらその場に座り込む。叫ぶってのは、こんなにも疲れるもんなんだな。
「どうした大介!」
 優也の声。
「何! なんなのっ?」
 これは唯か。
「どうしたんですか?」
 なら、これは里奈だな。
 三人の声が聞こえたのとドアが開いたのは、ほとんど同じタイミング。
 立ち上がって三人を見る。
 そして一言。
「どうしたんだ?」 
 帰ってきたのは言葉ではなくて、三人の大きなため息だった。
「それはこっちのセリフ……」
 そう言いながら唯が気だるそうに俺を見ている。
「で、さっき叫んでたのはお前だよな?」
 いや、なんで疑問形? 俺しかいないだろ。
「いかにも。俺の叫び声だ」
 三人に背を向けて、大きく息を吸い込みもう一度叫ぼうとする。
「いいですいいですっ! もう叫ぶのはいいですよっ!」
 里奈が必死に止めてきた。そんなにうるさかったのか?
「やっぱお前は何をするかわかんねーな」
 カチッ、とジッポの音。
 後ろを見ると優也がまたタバコに火をつけていた。
「吸いすぎ」
 唯が優也の口からタバコを奪って、その場で踏み消した。
「ぬおお……」
 哀れな声を出して優也がタバコを拾い上げる。そして、ボロボロになったタバコを名残惜しそうに見つめながら携帯灰皿に入れた。
 ヘビースモーカーめ。 
 そしてすぐにもう一本取り出して着火。
「……はあ」
 唯が大きくため息。夫婦かこいつら。
「大介さん、どうして叫んでいたんですか?」
 里奈からの質問。今になってようやく。
「気分だ。なんとなく叫びたくなった」
 俺的には、理由として完璧だ。
「バカですね」 
 笑顔でそう言う里奈。続けてクスクスと笑いだした。
 本気でバカにされてる。
 なんと悲しい。
 よし、叫ぼう。
 腹に力を入れて大きく息を吸い込む。が、最初の言葉が出るというタイミングで後ろから誰かに蹴られた。
「ぬっ」
 間抜けな声を出して地面に手をつく。そのままの姿勢で後ろを見た。
 唯がケラケラと笑っている。隣で優也もケラケラと笑っている。
「いじめだっ」
 そう言いながら両腕を横に大きく広げて、足をクロスしながら立ち上がった。
 途端に、三人が腹を抱えて笑いだした。里奈なんか目に涙を浮かべている。
 多分、みんな久しぶりに笑ったと思う。ここ何日かはみんなずっと何かを無理矢理抑えてるような表情をしていて、見ていて辛かった。俺だってそんな表情をしていただろう。
 だから、みんなが笑っているのを見て俺は嬉しかった。
「こうなったら叫ぶしかないだろ」
「もう叫ばなくていいって」
 笑いながら優也が止めてくる。
「止めないでくれ! 俺は叫びたいんだ!」
 身振り手振りを大きくして叫ぶ。
 それを見て、三人がまた笑いだした。こいつら、今なら何を言っても笑うな。
 大きく息を吸いこむ。
「お前ら大っ嫌いだー!」
 一瞬だけ思ったことを叫ぶ。
「笑うなー!」
 いや、笑ってくれ。笑うことで少しでも気が楽になるのなら、いくらでも笑ってくれ。
「バカだ」
 優也の声。
「バカがいる」 
 唯だな。
「バカですね」
 じゃあ、この声は里奈か。
 笑いながら俺を罵る三人。なんとひどい光景だ。
「バカじゃねー!」
 もうのどが痛い。叫ぶのはこれで何回目だ。
「里奈ー! 好きだー!」
 瞬間、ピタリと三人の笑い声が止まった。
「な……な?」
 名前を呼ばれた本人が一番困っている。
 自分が叫んだことの重大さを瞬時に理解した。
「嘘じゃー!」
 とっさに出た言葉がそれだった。
「バカっ!」
 里奈の声が聞こえた瞬間、ひざの裏に鈍い痛み。 
 蹴られた。微妙なとこを蹴られた。
「んおっ」
 情けない声を上げてその場に崩れ落ちる。
「バカだねー」
 そう言って唯が俺のそばにしゃがみ込んだ。その後ろには優也が立っていて、本気で残念そうな顔をして俺を見ている。
「大介。俺、こんな時どんな顔をすればいいかわからない」
「わ、笑えばいいと思うよ」
「……バーカ」
 ああ、バカでいいさ。お前らが笑ってくれるのなら、俺はバカでいい。


                                                      
            五章

      一

 玄関のドア越しに声が聞こえる。
 唯と優也さんと、大介さんの声。
「バカですよ……」
 ドアの向こうにいる大介さんに向かって小さくつぶやく。こんな小さい声では聞こえるわけが無いけれど。
 大介さんの口から出た言葉。
 好きだ、という言葉。
 深い意味は無いのだと思う。大介さんにとってはいつものバカのうちの一つで、あの場で誰かに突っ込まれて終わり。実際、私が大介さんを蹴ることで一応あの場は片付いている。だから、後から会う時大介さんはいつも通りにしてくるだろう。
 けど、私はいつも通りでいられる自信が無い。あの言葉が冗談だとわかっていても、生まれて初めて告白されたせいもあってか、かなり意識してしまっている。
 大介さんのことを意識している。
「もう、何でこうなるんですか……」
 ため息まじりにそう呟いて、ゆっくりと歩きだす。
 優也さんの部屋に入ると同時に、玄関からドアの開く音が聞こえた。
 続いて聞こえてくる三人の声、なぜか大介さんの声だけよく聞こえた。でも、今はそんなことを気にしてる場合じゃない。
 早くこの異変をどうにかしないと。
 早く家族を助けないと。
 机の上に置かれているノートを手に取って、その場に座り込む。私が小説のまとめを書いたノートで、大切と思ったところは赤で書いてある。でも、そこにはまだ家族を助ける方法を書いていない。それどころか、パラレルワールドに行く方法すら書いていない。
 行く方法は後編を読んだらわかるとして、助ける方法は前編を読み切った優也さんが知っているはずだから、早く聞かないと。
 なんであの時に聞いておかなかったのだろう、ボケていたとしか考えられない。
 ノートを見つめながら悩んでいると、静かに部屋のドアが開いてみんなが入ってきた。
「まだ怒ってるの?」
 そう言いながら唯が私の隣に腰を下ろす。残りの二人も好きな場所に座り込んだ。
「もう怒ってなんかいませんよ」
 言ったことは本当。もう怒ってはいない。
「マジか。心が広いな里奈は」
 そう言う優也さんの表情はどこかおもしろくなさそうだった。どうせ、私が大介さんを怒る姿を見たかったのだろう。
 ふと、大介さんのほうを見る。
 私の視線に気づいた大介さんがこっちを向いたせいで目が合った。
 思わず目をそらす。
「ちょ、ごめんて。俺が悪かった。うん」
 何を勘違いしたのか、いきなり大介さんが謝ってきた。
「だから、もう怒ってないですって」
 私の言葉を聞いて、大介さんがほっとしたような表情を浮かべる。おかしいなあ、さっきもう怒ってないって言ったはずなのに。直接自分に言ってほしかったのだろうか。
「ま、おふざけはその辺にして、本題に入ろう」
 そう切り出したのは優也さん。その場の空気が一瞬にして変わったのが感じられた。
「だな、じゃあ、まずパラレルワールドに行く方法についてだけど……」
「待ってよ。まだ優也から助ける方法を聞いてない。小説に書いてあったんでしょ?」
 話を始めようとした大介さんを唯が遮った。
「だってよ、優也」
 どこか不安そうな表情を浮かべて、二人が優也さんを見る。
「そういやそうだったな、ごめん。えっと、前編には方法が書いてあるだけで、実行するのは後編っぽい」
 その話は優也さんが小説を読み終わった時に聞きましたよ、なんて言わずに黙って耳を傾ける。言われなくても優也さんが一番わかっているはずだから。
「それはもう聞いたよ?」
 唯があっさりと聞いてしまった。せっかく言わなかったのに。
 いつもこうだ。私が頭で考えているうちに、パッと唯が先に言ってしまう。
「一応言っただけ。で、まあ、家族と町の人達を助ける方法だけど、小説の中では、パラレルワールドから連れ戻すとしか書いてなかった」
 言葉だけを聞くと、まるで算数の問題を解くかのように簡単に思える。でも、連れ戻すにしてもどういう風に連れ戻すのかがわからない、第一、パラレルワールドに行く方法がわからない。
 やっぱり、前編だけじゃダメ。
「連れ戻すって、そんなの、行く方法もわからないのに」
 私が思っていることを代わりに唯が言ってくれる。唯には、私の思っていることがわかるのかもしれない。
「それは多分後編に書いてある。でも後編は今は貸し出し中だから、俺達で考えるしかなさそうだな」
 行く方法は自分達で考える……。
 後編が貸し出されていなければ考えなくてもよかったのに。
「その後編には連れ戻す場面が書いてあるんですよね?」
 詳しく方法が書いてなくても、その場面を読めばなんとかなるはず。
「そりゃ書いてあるだろ。書いてなかったら小説にならねえだろ。ま、連れ戻す方法はその時になったら考えりゃいいだろ」
 大介さんはそこまで言って、途中で「あっ」と何かを思いついたように声を上げた。
「どうした?」
 優也さんが不思議そうな顔をしている。けど、そんなことも気にせず、興奮気味に話を始めた。
「町の人達と家族を救う方法思いついた。まず先に、優也」
「なんだ?」
「唯が連れて行かれたことを里奈に話してやれよ。まだ話して無かったろ?」
 え、何それ。唯も連れて行かれてたの? 優也さんと同じで、パラレルワールドに? 聞いてないよ。全く聞いてない。
「唯、どういうことですか? 話してくれれば良いじゃないですか……」
「ごめんごめん。タイミングが見つかんなくってさ」
 唯が顔の前で手を合わせて謝ってくる。
「ま、詳しくは俺から話すよ」
 そう言って、優也さんが話を始めた。

「戻ってこれてなによりでしたね……」
軽くため息をつく。
 優也さんが話し終えるまでに、三十分もかからなかったように思える。それは、優也さんが話をするのが上手なのも手伝っているだろう。無駄なことは言わずに、大切なところをわかりやすく簡潔に話してくれる。
「ホント、一時はどうなるかと思った……」
 唯が暗い表情になった。ふと手を見ると小刻みに震えていた。きっと、その時のことを思い出しているのだろう。表現できないほどに怖かったに違いない。
「唯……」
 そっと唯の肩に手をまわして引き寄せた。
「ま、唯の体験は無駄にならねえよ。それがきっかけで方法が見つかったんだからさ」
 大介さんは、唯を励まそうとしているのだろうか。
「結局、方法ってなんですか?」
「今から言う。で、優也の話にも出てきた隙間、あれは多分ズレによって生じた隙間だと思うんだよ」
「まあ、そうだろうな。それ以外浮かばんし」
 優也さんが大介さんに同意する。
 私も同意。ズレがある限り、どこかで隙間がないとおかしいのだ。
 エレベーターやプールでも、どこかがズレてパラレルワールドと繋がったのなら、ズレたところが隙間になって現れていたはず。陽炎の時は運よくそれを優也さんが発見できた。
「細かいことは気にすんなよ。で、ズレから唯を連れ戻せたってことは、他の人も連れ戻せるだろ、多分」
 話を聞いた優也さんは小さくニ、三度うなずいた後、ゆっくりと首をかしげた。きっと、何か腑に落ちないことでもあるのだろう。
「ありがと、里奈」 
 唯が私から離れていく。
「うん」
 小さな声で短く返事しておいた。
「その隙間、毎回毎回あるのかな……。それに、隙間を見つけるにはまずズレを見つけないとダメなんでしょ? 見つかるわけないよ……」
 唯が誰に言うわけでもなく、独り言のように言った。
 そこまで考えていなかったからだろうか、大介さんが深いため息をついて黙り込んでしまった。
「俺もそれ思ってたんだよ。ズレがどっかに固定されてれば良いんだけど」
「さっき首をかしげていたのはそれが原因だったんですね」
 そう言いながら、頭の中で優也さんの言葉を繰り返し思い浮かべる。
 固定されていれば良い、その一言に何かが引っかかったから。断片的に浮かんではいるのに頭の中で上手くまとまってくれない。
 固定。
 固定。
 動かないこと。
「陽炎の時みたいに動かれたら探しようもねえもんな」
 大介さんが両腕を伸ばしてその場に寝転んだ。
 陽炎として現れたズレは動く。
 エレベーターも人を乗せて動く、優也さんを連れて行こうとした時みたいに。
 ……エレベーターに乗る場所自体は動かない……。
「あっ」
 私が突然声を出したせいで、みんながビクリと驚いてこっちを見ている。
 けど、そんなことはどうでもいい。
 まとまった。断片的に浮かんでいたものが、まとまった。
 エレベーターに乗る場所なら動かない。エレベーターがズレて繋がっているのではなくて、エレベーターに乗る直前の場所がズレているんだ。
「エレベーターですよ! そこなら動かない!」
 もう一度みんなの体がビクリと震えた。
「な、なんのことだ?」
 戸惑いながら優也さんが私に聞いてくる。大介さんも、起き上がって私の方を見た。
「陽炎の形をしたズレなら移動してしまいますけど、エレベーターなら動かないじゃないですか」
「いや、動くだろ。人を乗せて」
 大介さんが、コイツバカだろみたいな表情で私を見ている。たしか、図書館でもそんな顔で見られた気がする。
「失礼しました。正確にはエレベーターじゃなくて扉の前、乗る直前の場所です。目に見えないズレがそこにあったんですよ」
「見えないのなんてあったのか……」
 腕を組みながら、大介さんがそうつぶやく。
 ズレに形があるとは限らない、目に見えるとも限らない。
 深呼吸をして話を続ける。
「優也さんは、気づかないうちにズレを通ってパラレルワールドに行ってしまって、その世界での最上階に連れて行かれそうになっていたんですよ」
「でも、別の階で降りたらこの世界だったぞ?」
「きっと、偶然にもその階に隙間があったんですよ。しかも、目の前に」
 優也さんの顔が一気に青ざめていった。もし他の階で降りていたら、なんてことを想像しているのだろう。
「ま、本当にそうかどうかはわからないですけどね」
 私の考えが外れていた時の保険に、そう言っておく。 
「待て待て」
 大介さんまで青ざめた表情で、私に話しかけてきた。
「はい?」
「その場所があるのってこのマンションなんだよな……?」
 一同沈黙。
 沈黙の時間は、体感時間ではとても長く感じた。
「だ、大丈夫でしょ。それがある階でエレベーターを使わなければいいわけだし……」
 強がってそう言う唯だけど、顔がものすごくひきつっている。
 優也さんと大介さんも顔がひきつっている。
「だ、だよな。なあ優也、何階でエレベーターに乗ったんだ?」
 ゆっくりと優也さんが大介さんの方を向く。そして、私と唯の方を見た。
「この階だ……」
 再び一同沈黙。
「だから何よ」
 ゆっくりと唯が立ち上がる。
「どっちにしろ、この階でエレベーターを使わなきゃいいんでしょう? それに、もし間違って乗っても隙間がある階で降りればいいじゃん」 
 さっき同じようなこと言った時より強くそう言う唯は、本当にかっこよく見えた。
「たしかにそうだな。おい優也。降りたのは何階だ?」
「十九階」
 短くそれだけ答える優也さん。
 はぁ、とみんなが深いため息をついた。
 十九階ならこの階の上だからすぐに戻ってこれる。
「……てことはよ」
 何かを思いついたのか、大介さんがちいさくつぶやいた。
「どうした?」
 それに気づいた優也さんが大介さんに話しかける。その表情はもうひきつってはいない。
「いやさ、そのエレベーターを上手く使えば家族と町の人達を助けられるんじゃねえか?」
 なんでさっきから大介さんはこんなにも色々思いつくんだろう。
 天才とバカは紙一重とはこのことなのだろうか。
 唯が軽く頷きながら隣に座りなおした。
「あー、たしかに、できるね。一度パラレルワールドに行って、人達を乗せてまたこっち戻ってくるってことでしょ?」
「そういうことだ」
 大介さんが笑顔になった。人懐っこい、可愛らしい笑顔に。
「でも、成功するとは限らないですよ? 失敗したら戻ってこれないかもしれないですし、それに私の考えが間違っているかもしれません」
 戻ってこれない、その単語を聞いて大介さんの表情から笑顔が消えていった。戻ってこれないまま死ぬ可能性だってある。不確かな情報に命を懸けるわけにはいかない。
「となると、やっぱり後編が必要ね……」
 ため息交じりにそういう唯を見て、大介さんと優也さんが困ったような表情をしている。
「後編が必要になると何か困ることでもあるんですか?」
 思いついたことを、そのまま聞いてみる。
「いや、何も」
「別に、無い」
 私の方を見て、短くそれだけを言う二人。……何か隠している。
 これは、問い詰めるべきなのだろうか。いや、二人して隠すくらいなのだから問い詰めない方が良いかもしれない。
「なあ、ふと思ったんだけど、話していいか?」
 優也さんが不安げな表情をしている。
 唯と大介さんが黙ってうなずいた。私も頷く。
「これって、人は救えるかもしれねえけど、異変自体の解決にはならないんじゃね?」
 またまた一同沈黙。
 確かに、異変自体を解決しないとまた誰かが連れて行かれる。なんで思いつかなかったのだろうか。まず最初に異変の解決法を考えるべきだ、先に助ける方法を考えているのでは、前後が逆。
「やっべえ……」
 顔を両手で覆いながら、後ろへと倒れていく大介さん。
 それを見ていた唯も、額を押さえてうつむいた。
「どうすんの? 何か方法ある?」
 うつむいたまま話す唯。
「現段階では無いですよね。……後編になら書いてあるかもしれないですけど」
「後編、か。勝手に直ったりしてくれねえかな」
 腕を組んで考え込む優也さん。
「もう、家族と人達を連れ戻してから考えりゃいいよ。俺達四人で考えるより、助け出した大人が考える方が良いだろ」
 起き上がりながら、そう言う大介さん。
 冷静な意見だと思う。人脈のある大人たちが集まって考えれば原因も詳しくわかるし、異変も完全に解決するだろう。                                      
「私もそう思います」
 大介さんが意外そうな顔をして私を見た。
「じゃあ……先に助け出す。それでいいか?」
「良くないよ。後編はどうすんの? 読まないの?」
 唯が不安げな表情で言う。
「読まなくても問題ないだろ。大丈夫、何とかなるって」
 笑顔でそう言う優也さん。
「まあ、優也がそう言うならいいけど……」
 そう言って、唯は何かを考え込むように黙ってしまった。
「とりあえず、作戦会議だな。役割を決めよう」
 優也さんはそう言ったものの、そのまま黙り込んでしまった。
 何も浮かばないのだろう。
「作戦なんていらなくない? パラレルワールドに行って、手当たり次第に人達を連れ戻せば良いじゃん。家族を優先させてもらうけど」
 唯がとても簡単なことのように話した。
「もし、その途中で何か問題が起きたらどうするんですか?」
 私の質問に、今度は唯が黙り込んでしまった。
「その時はその時だろ。第一、作戦を考えててもそれを実行できないような問題が起きたら意味ねえって」
 確かに、言われてみればそうかもしれない。
「じゃ、作戦は無しだ。その時その時考えていこう」
 優也さんがタバコを取り出して、火をつけようとする。けど、途中で自分の部屋だということを思い出したようで、ポケットに戻した。
 無意識で吸うようになったんですね、未成年なのに。
「どうなっても知らないですよ?」
 そう言っておく。なんだか、私が性格の悪い女性に思えた。
「ところで、いつパラレルワールドに行くの?」
 唯の質問に、優也さんが眉間にしわを寄せる。
「みんなの覚悟ができたら、だ。パラレルワールドに行ったら、もう戻って来れないかもしれないしな」
 それを聞いてみんなが黙り込む。少し間をおいて、優也さんは話を続けた。
「命が懸かってるようなもんだから。覚悟ができたら俺に言ってくれよ」
 言い終わると同時に立ち上がって部屋を出て行こうとする。
「タバコですか?」
「ああ。あ、悪いけど、布団をタンスから出してリビングと俺の部屋に置いといてくれよ。俺の部屋では里奈と唯が寝てくれ。俺と大介はリビングで寝るから」
「はい。あの、優也さん?」
「なんだ?」
「本当に、もう後編読まないんですか?」
「助ける方法も行く方法も見つかったんだ。読まなくてもいいだろ」
「そうかもしれないですけど……」
「大丈夫だよ、きっと」
 頼んだぞ、と短く言って部屋を出ていく。
 納得いかない。さっきから、何が大丈夫なのだろう。
 どう考えても後編を読んで、もっと確実で安全な方法を調べるべきだと思う。私の考えを基にして実行しても、基が間違っていたら意味が無い。
 こうなるんだったら言わなければよかった。
 ふと二人を見る。
 大介さんは仰向けになって寝転がっている。唯は座ったまま。
 会話は一切無い。悩んでいるんだろう。
 命を懸ける懸けないで悩んでほしくない、大切な友達に命を懸けてほしくない。    
 別の方法を見つけないと。
 その為にはやっぱり後編が必要。
 明日図書館に借りに行って、私一人ででも読まないと。

      二
 
 布団に入って二時間ぐらい経った頃、私は布団から起き上がった。
 ゆっくりと布団から出て、簡単に畳んでおいた。
 隣で寝ている唯を見て、完全に寝ていることを確認する。
 唯が寝静まるまで起き続けるのは、なかなか辛かった。何回眠ってしまいそうになっただろうか。寝るわけにはいかない、図書館に後編を借りに行くためだ。普通ならこんな時間に行っても閉まっているけれど、人がいないのだから鍵が開いているかもしれない。それに、後編が返却されているかもしれない。可能性としては、すごく低いけれど。
 思い立ったらすぐに行動したくなってしまうのが私の悪い癖で、どうしても後編を借りに行かないと気が済まない。
 それに、こっそりと夜中に抜け出して借りに行かないと、絶対に優也さん達に止められてしまう。特に、大介さんと優也さんは必死になって止めようとしてくるだろう。隠している何かがバレてしまうから。
 一人で出歩くと危険なのはわかっている。もし、ズレに連れていかれたらって考えるとものすごく怖い。でも、どうしても借りに行きたいという欲求のほうが勝ってしまった。
 図書館に行ってきます、みんなが起きる頃には帰ります、と書いたメモを置いてゆっくりと部屋のドアを開ける。
 多分、みんなが起きる頃には帰ってこれるはず。
 廊下に出るとリビングからテレビの音が聞こえてきた。
 一瞬、二人ともまだ起きているのかと驚いたけど、どうやらテレビをつけたまま寝てしまったらしい。
 テレビから聞こえてくる番組司会者の声。なんだか、見ていて複雑な気持ちになった。他の町でこの番組を見ている人はたくさんいるだろうけど、この町で今見ているのは私だけ。 
 司会者の笑い声が不快に感じてテレビを消した。恨みがあるわけじゃないけれど。
 寝ている二人を踏んでしまわないように、気をつけて歩いて玄関を目指す。
「んー、誰?」
 あと数歩で玄関という時に、そんな声が背後で突然聞こえた。
 あまりに突然だったので、心臓が止まるかと思った。
 ゆっくりと振り向くと、目が半分ほどしか開いていない優也さんが私を見ていた。
「り、里奈ですよ。ちょっとお手洗いに」
 心臓の音が、優也さんに聞こえるんじゃないかってくらいにうるさい。
「おー、トイレならそこ……」
 そう言いながら、優也さんが布団に沈んでいった。
 全身から力が抜けて、深いため息が出た。
 私の気配で起きたのだろうか。
 危なかった。 
 乱れる呼吸を、どうにか落ち着けながら玄関のドアを開ける。ドアの開く音は思っていたよりも大きくて、一瞬ヒヤリとしたけど誰も起きなかった。
 少し早歩きでエントランスを通り過ぎて、階段を駆け降りる。ズレがすぐそばにあるというのが怖くて、一秒でも早く離れたかった。
 一階まで下りてから、早歩きで駐輪場に向かう。
 駐輪場の中は数多くの自転車で埋め尽くされていて、一瞬自分の自転車がどこにあるかわからなかった。
「あ、あった」
 他の自転車と同じように置かれた私の自転車、ロックを外して、その場で乗って駐輪場の外へ出た。
 深夜だからか、それとも人がいないせいだろうか、外はとても静かだ。
 聞こえるのは私が乗っている自転車の音だけ。
 生暖かい風が、私の髪を揺らして通り過ぎていく。
「本当に、誰もいないんだ……」
 普段なら、こんな時間でも車の一台や二台は通り過ぎていくけれど今はそれが全くない。
 もし、別の町から来た人や車がこの町を見たらどう思うのだろう。何も思わず、今日はたまたまそういう日だったんだろうって思うのだろうか? それとも、おかしいと思って原因を探ろうとするのだろうか。
 そう考えていて、ふと疑問が浮かんだ。
 なんで車が一台も通らないのだろう? 宅急便のトラックぐらい通ってもいいはず。宅急便に限らず、他の町から来る車だってそう。
 一台も通らないというのは明らかにおかしい。
「まさか……」
 思わず自転車に急ブレーキをかけた。
 キー、という甲高い音を上げて自転車が止まる。
「この町に入ってこれない……?」
 この町に入れない、いや違う。
 多分、この町に入ってすぐに消えてしまうんだ。
 きっと、町に入る道にズレがあって、そこからパラレルワールドに連れて行かれてしまうんだ。
 入ったら最後、パラレルワールドから戻ってこない限り町から出れない。
 この町自体がブラックホールのようなもので、その中に私達はいる。
 全身に鳥肌が立った。
 この考えがもし正しかったら、どんどん人が消えていってしまう。
 早く町の人達を助け出して、ズレを直す方法を大人達に考えてもらわないといけない。
 ペダルを強く踏んで、再び自転車で走り始めた。さっきよりも速いスピードで。
 急がないと。
 早く後編を読んで、助け出す確実な方法を見つけ出さないと。
 
駅前に来ると、電気がついたままのコンビニなどがあってそれなりに明るかった。
 適当な場所に自転車を止めて、図書館の入り口に立つと自動ドアはちゃんと作動して開いてくれた。本当に、送電が止まっていなくて良かったと思う。
 明るい図書館の中を少し早歩きで歩く。電気がついているとはいえ、なんだか怖い。
 図書館ではない、どこか別な建物の中を歩いているような気がした。人がいるといないではここまで変わるのだろうか。
 少し不安な気持ちになりながらエスカレーターに乗る。
 ゆっくり、ゆっくりと上へ進んでいくエスカレーター。
 二階へ着いてすぐ、私は走り出した。
 あまり長くこの図書館にいてはいけない気がする。本能的な部分がそう告げているのだろうか。
 後編を借りて早く帰ろう、この町の中で一番安全なみんなのところに。
 無数に本が並べてある本棚の間を走り抜ける。元々、運動が苦手なせいもあって途中で何度か転びそうになった。
 もうすぐ後編が置いてある場所に着く。
 ドク、ドクと心臓の音がうるさい。
 あと少し。
 ほら、もう目の前。
 手を伸ばすより先に、視線だけ本棚に向ける。
 本棚の一番上。
 ほら、そこに後編が……。
「そん、な……」
 全身から力が抜けていく。
 後編がない。
 本棚に後編は置いていない、まだ返却されていなかった。
 冷静に考えればわかることだった。
 事実を受け入れられなくてその場に立ち尽くす。
「も、もしかしたら他の棚にっ」
 震える声でそう言いながら周辺の本棚を探すけど、やっぱりなかった。
「そうだ、誰が借りていったのか調べれば……」
 振り向いて、歩き出そうとしてすぐに止まる。
 ダメ、調べれない。そういうリストはきっと全てデータ化されていて、しかもそれを管理するパソコンにはロックがかけられているだろう。
 プライバシー保護のため。
 力無くその場に崩れる。立ち上がる気にもなれない。
 このままじゃ、不確かな方法のせいでみんなの命を危険にさらしてしまう。
「ここで、ここで諦めちゃダメ……ですよね」
 そうだ、諦めてはいけない。
 パソコンのロックがなんだ、そんなもの、どうにかして解除してやる。
 プライバシー保護なんて、くそくらえだ。
 立ち上がると同時に走りだす。
 時間がもったいない、少しでもロックを解除するための時間に使いたい。どのくらいの時間がかかるか想像もつかないけれど。
 みんなの命を危険にさらさない方法が見つかるためなら、どれだけ時間がかかったって構わない。
 だから、必死に走った。
 二階へ上がる時に使ったエスカレーターで下に行き、カウンターに向かって走る。
「……ん?」
 疑問を感じてその場に立ち止まり、エスカレーターの方に振り向いた。
 エスカレーターは下に向かって動いていた。
「あれって、上に行くエスカレーターのはずじゃ……」
 瞬間、背中に熱気を感じた。
 おそるおそる振り向く。
「な、え、うそ」
 ゆらゆらと気味悪く歪む空間。
 本来なら、こんな場所で発生するはずのない現象。
 陽炎。
 たしか、唯はこの陽炎に連れて行かれたって言っていた。
 じゃあ、これって、まさか。
「み、みんなに電話しないと!」
 ポケットからケータイを取り出そうとして、手が滑って落としてしまった。
 拾おうとするけど、目の前が歪んでよく見えない。
 歪む? 目の前が?
「な、んで、です……か」
 そう言って、その場に倒れ込む。
 全身が熱気につつまれていくのを感じた。
 
 

 


 


            六章     

      一
 
「優也! 来てっ」
 朝からそんな叫び声が聞こえて、俺は飛び起きた。
 それは隣で寝ていた大介も同じで、起きたばかりで頭が寝ぼけている俺達は、お互いに顔を見合わせて首をかしげた。
「優也! 大介!」
 もう一度名前を呼ばれて、俺達はようやくはっきりと目が覚めた。
 立ち上がると同時に駆け出して、急いで部屋に向かう。
 ふらついた大介が途中で壁にぶつかった。
「どうした!」
 そう叫びながら部屋のドアを開ける。
 寝ぐせで髪型がぼさぼさになった唯が、座って一枚の紙を見ていた。
「あ、れ? 里奈は?」
 遅れて部屋に入ってきた大介が不思議そうに首をかしげている。
 確かに、里奈の姿が見当たらないからだ。
「唯、里奈は?」
「これ見てよ」
 唯が一枚の紙を差し出してくる。
 受け取って大介と一緒に見た。
 図書館に行ってきます、みんなが起きる頃には帰ります、とだけ書かれていた。
「これって」
「うん、里奈の字だよ……」
 一人で図書館に行ったのかよ。そういえば里奈のやつ、俺が後編を読まないって言った時、納得してなさそうな顔してたな。
 里奈は後編が読みたかったんだ、でも、俺と大介に止められるのが嫌で夜中にこっそり借りに行ったんだ。
 くそっ。
「大介、里奈に電話してみてくれ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ケータイがリビングにあるから取ってくる」
「大介、私の使って」
 唯が枕元に置いてあったケータイを大介に放り投げる。
 見事にキャッチした大介は、すぐさま里奈に電話をかけ始めた。
 数秒の間、俺も唯も黙って大介を見ていた。
「ダメだ、出ねえ」
「何度もかけてみろよ」
 無言でうなずいて、もう一度電話をかける大介。
 初めにかけた時より長くかけたけれど、里奈が電話に出ることはなかった。
「やばいな、嫌な予感がする。俺達も図書館に行くぞ」
 目に見えないズレが存在するとわかった今、里奈を一人にしておくのは危険だ。
「ねえ、優也、まさか……」
「言うな! 唯、それ以上言うな、考えたくない」
 里奈はズレに連れ去られてしまった、なんて考えたくない。
 口にも出したくない。
「ほら、行くぞ」
 そう言いながら、泣きそうになっている唯の手を引いて玄関に向かった。

「優也、やっぱり私走るよ?」
 図書館に向かう途中、後ろに乗った唯が申し訳なさそうに言ってきた。
 唯は自転車に乗ってきたわけじゃないので二人乗りだ。
「いや、大丈夫」 
 そう答えるけど、正直心の中では走ってほしかった。
「頑張れ優也、図書館までもうすぐだ」
 涼しい顔で隣を並走する大介。
「お前、すべてが終わった後覚えとけよ。絶対殴ってやる」
「何をだ? 何でだ?」
「……もういい」
 ペダルを漕ぎながら喋ると体力が減るので、黙って漕ぐことにする。
 ……すべてが終わるのっていつだろう。
 そもそも、大人達でもこのズレを直すことなんてできるのだろうか。
 科学的に直す? それなら大量の金が必要になる。そんな金がこの町のどこにあるっていうんだ。この町は別に金持ちが集まっている町でもない。
 じゃあ、金のかからない別の方法? そんな方法がどこにある。
 結局、パラレルワールドとズレて重なったこの世界を救う方法なんて無いのかもしれない。
 自然にズレが戻るまで待ったとしても、何年何十年下手すりゃ何百年かかるかわからない。その年月の間にズレが悪化することもあるかもしれない。
 ズレがある限り人達は何度も連れていかれて、そのたびに危険を冒して連れ戻さないとならない。
 繰り返し。
 繰り返し続けられる。
 連れて行かれては連れ戻す。
 永遠とも言えるような長い間、ズレに怯えながら暮らさないといけない。
「いっそのこと、パラレルワールドで暮らせば……」
「ん? 優也、何か言った?」
「いや、なんでもない」
 そう、と小さく言って唯は黙り込んだ。
 パラレルワールドはこの世界と比べたら空がおかしかったり、周囲が暗かったりと色々違う点があるけれど、住めなくもないかもしれない。
 住めば都って言うしな。
 この世界に住む人と、パラレルワールドに住む人に分ければいい。里奈の考えが正しければエレベーターを使ってこの世界に戻って来れるんだから。
 人達を助け出すことだけ、この世界で暮らすことだけを考えていたから思いつかなかった。
 この話、みんなに言ったらどんな反応するかな。
「着いたぞ」
 そう言って、図書館の前に自転車を止める。盗まれるようなこともないだろうから、駐輪場に置かなくても大丈夫だろう。
「うん、ありがと」
 自転車から降りた唯が、風で乱れた服を直す。
 遅れて大介もやって来た。俺と同じ場所に自転車を止める。
「よし、行くぞ」
 少し早歩きで図書館の中に入る。
「うわ、涼しいなここは。いつからクーラーついてんだ?」
 中に入ってすぐ、大介がそう言いながらシャツをはためかせた。
「多分、昨日からずっとついてんだろ」
「あ、あれって」
 突然、隣にいた唯が走り出した。
「お、おい!」
 わけもわからず唯を追いかける。
 里奈を見つけたのか? 
「里奈がいたのか?」
「違うよ、これ見て」
 少しして立ち止まった唯が何かを拾い上げる。
 ケータイだ。
「ケータイ? 誰の?」
 唯に近づいてケータイを受け取る。
 白くて丸っこい形をしたケータイ。どこかで見たことがある。
「里奈のだよ、これ」
 ああ、里奈のか。
 でも、里奈がケータイを落としたことに気づかないなんて考えられない。意図的に落としたか拾えなかったかのどっちかだ。
 でも、意図的に落としたとしても、こんなとこに落としておく意味がわからない。
 落としても拾えなかったと考えていいだろう。
 てことはやっぱり、里奈はズレに連れて行かれたのか。
「お、おい優也……」
 不安げに大介が話しかけてくる。
「ああ、嫌な予感が当たっちまったよ」
「そんなっ」
 唯が泣き崩れた。ポタリ、ポタリと涙が床に落ちていく。
「おい、嫌な予感ってなんだよ! 里奈はどうなったんだよっ」
 感情的になった大介が叫びながら俺の襟を掴んできた。
「ズレに連れて行かれたんだよ」
「ま、マジかよ……」
 大介が襟から手を放して離れていく。
「ねえ」
 俺の腕を掴んで、鼻をすすりながら唯が立ち上がった。
「どうした?」
「なんか、暑いんだけど……」
 唯の一言を聞いて、俺と大介が目を見開く。
 言われてみれば、確かに暑い。クーラーがついてるのに?
 ゆっくりと後ろを振り向く。
「なあ、優也、これってまさか」
 周りが歪んで見える。
 うだるような熱気。
 額から汗が流れた。
「ああ、陽炎だな」
「陽炎って外で起きるもんだろ!?」
「陽炎じゃないよ。これは陽炎の形をしたズレだよ。私を襲ったのと同じだもん……」
 ぼうっと見ていた唯が表情一つ変えずにそう言った。
「に、逃げるぞ!」
 そう叫んで大介が走り出した。
 俺も大介に続いて走ろうとする。けど、唯が走り出さなかった。それどころか陽炎に向かって歩き出した。
 俺から離れて、どんどんと陽炎に近づいて行く。
「何してんだよ! 唯っ」
「ちょうどいいじゃん」
「は?」
 少し離れた所から、俺と唯を呼ぶ大介の声が聞こえる。
「パラレルワールドに行こうよ。町の人達を、家族を、里奈を助けるために。怖かったら逃げなよ、私だけでも行くから」
 少しずつ、唯の体が陽炎の中に入っていく。
「おい! もう戻ってこれないかもしれないんだぞっ?」
「四人そろって遊べない世界なんて考えられないよ……」
 その声を最後に、唯の体は完全に陽炎の中に入っていった。
 目の前から唯が消えた。
 ふざけんなよ。
 ふざけんなよっ!
「怖いわけねえだろうが!」
 そう叫んで俺も陽炎の中に飛び込んだ。
 熱気に全身がつつまれる。
「俺を置いて行くんじゃねえーっ!」
 気を失う寸前、大介のそんな叫び声が聞こえた。

      二

「……也っ」
 声が聞こえる。
 聞きなれた声だ。
 同時に、体が揺さぶられているのも感じた。
 一定のリズムで揺らされるので、逆になんだか気持ちが良い。
 きっと、これは誰かが俺を起こそうとしてるんだな。
 ていうことは、俺は眠っているのか? 今までのことは全部夢?
 みんなの家族が消えたことも、俺の家族が消えたことも夢?
 良かった。
 夢でよかった。
「起きろって言ってんだろが!」
 直後、頬にすさまじい痛みが走った。
「んぬおっ?」
 なんて、間抜けな声を出して飛び起きる。 
「良かった、生きてた」
 そう言って、唯が抱きついてきた。
「ったく、死んだかと思ったぞ」
 大介の声がしたので振り向くと頭を叩かれた。
 頬を叩いたのもお前か。
「何でこんなに暗いんだ?」
「送電が止まってるんじゃね?」
「なるほど。で、ここはどこだ?」
「寝ぼけてんのか? ここはパラレルワールド、みたいだな」 
 ああ、そうか。
 里奈を助けるために陽炎の中に飛び込んだんだっけ。
 そして、熱気のせいで気を失っていたと。
 プールの時は気を失ってはいなかったからな。
 夢じゃなかったのか。
「唯、動けない」
「あ、ごめん」
 顔を赤くして俺から離れていった。
 唯が立ち上がるのに合わせて俺も立ち上がる。
「なんか、あんまりパラレルワールドっていう実感がわかねえな」
 大介がキョロキョロと周囲を見渡している。
 確かに、図書館の中は何も変わっていない。エスカレーターの位置や本棚の位置、全く同じといっても過言じゃない。ただ、送電が止まっているせいかわからないけど、クーラーと電気がついていなくて館内は暑くて暗かった。
「唯、里奈は? 見つかったのか?」
 黙って首を横に振る唯。
「館内にはいない、俺が先に捜しといた。外にいるんじゃねえか?」
 そう言って、先に出口の方へ歩いて行った。
「待てよ大介」
 俺と唯も出口に向かって歩き出す。
「ねえ大介」
 歩きながら唯が大介を呼んだ。
「ん?」
「本当に図書館の中全部捜したの?」
「ああ、館内にはいなかった。里奈は意外にも行動的だから、目が覚めてから外に出たんじゃねえか?」
「でも……」
「いや、大介の言う通りだ」
 二人の会話に割って入った。
 もし図書館の中にいたなら、それはそれで外にいるより安全だ。けど、外は何がいるかわからない、俺達の世界では存在しない生物がいるかもしれない。
 だから、外にいるならできるかぎり早く見つけてやらないと。
「まあ、二人がそう言うなら」
 一言そうつぶやいて唯は黙り込んだ。
「なあ、優也」
 少し先を歩いていた大介が突然立ち止まった。
「なんだよ」
「そこの自動ドアから外が見えるんだが、今って夜だっけ?」
「ああ、あれな。この世界、なんでか知らねえけど暗いんだ」
「あー、なるほど。気味の悪い世界だな」
 大介はそう言いながら先に自動ドアを無理矢理こじ開けて外に出た。 
 瞬間、外から悲鳴が聞こえた。
 大介の声だ。
「おい! どうした!」
 叫んで走り出す。開いたままのドアを通って外に飛び出した。
「なっ……」
 言葉を失った。
 一言たりとも声が出せない。
 思わず両手で顔を覆う。
「ちょっと、優也っ、だいじょ……いやああああああ!」
 遅れて出てきた唯は外にあったそれを見て悲鳴をあげ、その場にしゃがみこんだ。
 見たくなかった。
 見ていたくなかった。
「ゆ、優也、これ、お前の……」
「い、言うなっ、なんかの冗談に決まってる!」
 目に浮かんだ涙を袖で拭いて、再びそれを見る。
 そこにあるもの。
 それは間違いなく、親父の死体だった。
 直視できないほどのひどい死体。まるで猛獣に襲われたように服は引き裂かれていて、辺り一面が血で真っ赤に染まっている。
 ひどく歪んだ表情は、親父が受けた苦痛を容易に想像できた。
「嘘だろ……なんかの冗談だろ? 返事しろよ親父いいっ!」
 死体が返事をするわけがなく、むなしく俺の声が響くだけ。
 全身から力が抜けてその場に座り込んだ。
 なんで、なんで俺の親父が死んでるんだよ。
 わけわかんねえよ。
 もう二度と親父に言ってらっしゃいって言ってやることも、お帰りって言ってやることもできない。
 頼むよ、返事してくれよ親父……。
「ゆ、優也、周りを見てみろよ」
 大介の声が震えている。
 ゆっくりと顔をあげて周りを見渡した。
「おい、マジかよ……」
 目に映ったもの、それはまるで地獄絵図。
 辺り一面に死体が倒れていた。どれも無残な姿で、見るに堪えない。
 ふと、視界の端に見覚えのある何人かの顔が映った。
「あ、ああ……」
 大介もそれに気づく。 
「俺の家族まで……はは、おい、マジかよ……」
 そこにあった死体は大介の家族だけじゃなかった。里奈の両親と唯の両親の死体、親父の死体と同じように無残な姿で倒れている。
 みんなの家族とは何回か会う機会があったから、よく覚えている。
 覚えているから気づいてしまった。
 忘れればよかった。
「そんな、そんな」
 大介が、よろめきながらゆっくりと歩いて死体のそばに近づいて行く。
「ねえ、優也、まさかあそこにいるのって私の両親じゃないよね……?」
 唯も気がついたようだった。
 自分でもどんな表情をしていいかわからないようで、口元をひきつらせながら涙を流している。
 唯の質問に答えてやることができなかった。
「ねえ、違うって言ってよ、お願いだからそう言ってよ!」
 はは、と不気味な笑い声を上げながら 唯がその場でうつむいた。
 もう、見ていられなかった。
「し、死んじまったもんはしょうがねえだろうが! 手遅れになる前に早く里奈を捜しに行くぞ!」
 無意識のうちにそう叫んでいた。
 俺の声が聞こえたようで、大介がこちらを振り向いた。
 その顔は怒りに満ちた表情をしている。
 唯の手を引いて立ち上がらせた。
「唯、しっかりしろ」
「はは、あはは」
「しっかりしろって!」
 そう叫んで、唯の頬を叩いた。
「ゆ、優也?」
 戸惑いながら俺の名前を呼び、怯えた目を俺に向ける。
「ごめん、けど泣くのは後だ、里奈を捜すぞ。里奈の死体を見て涙を流すなんてことになってほしくない」
「ごめん……私」
「いいから」
 唯の手をしっかりと握って大介のそばに駆け寄る。
 もう、大切な誰かを失いたくない。
 失ってほしくない。
「大介!」
「……おう」
「行くぞ、死体は後から運ぼう」
 そう言ったところで、唯が俺の肩を叩いた。
「どうした」
「あ、あれ……」
 震えながら道の先を指差す。表情は一目でわかるほど何かに脅えていた。
 何に怯えてるんだよ、そう思いながら唯が指差す先を見る。
「り、里奈……と何だアレ?」
 唯が指差した先には里奈がいた。
 そして、倒れている里奈のそばに何かがいた。
 人の形をしているけど人ではなくて、異常に手足が長くて、口からは異様に長い牙が生えている。
 例えるなら、ゲームのモンスターのような姿をしたソイツは、今にも里奈に喰らいかかろうとしている。
「アイツか、アイツが俺の家族を殺したのか」
 そう言った瞬間、大介が化け物に向かって走り出した。
「おいっ、大介! やめろ!」
 大介の耳に俺の声は届いていない。
 化け物との距離が一気に縮まった。
「こんのバケモンがーっ!」
 そう叫びながら化け物にとび蹴り。
 化け物が気づくより先に大介の蹴りがヒットした。聞いたことのない叫び声を出しながら化け物が吹っ飛んで地面に叩きつけられる。
 信じられない、バカだろアイツ。
 起き上ろうとする化け物の上に馬乗りになって、何度も何度も殴り続けた。
「優也! 今のうちに里奈を連れてマンションまで逃げろ! エレベーターを使って俺達の世界に戻るんだ!」
 返事するより先に駆け出してそばに行き、唯と一緒に里奈を抱きかかえようとする。
「大丈夫だ、息してるぞ」
「よかった……」
 唯の肩から力が抜けて表情が柔らかくなる。
「うあああっ」
 大介の悲鳴が聞こえて、振り向いた。
「大介っ」
 化け物と目が合う。
 俺達と同じような二つの目が俺を見つめている。
 その瞳を見ていると吸い込まれそうで、身動きできなくなった。
 コイツ、この世界の住人か? いや、それはないだろ。こんな化け物に家が作れるはずがない。多分。
「優也っ」
 後ろから唯の呼ぶ声が聞こえる。
 ごめん、動けねえんだ。見ろよアイツ、動けない俺に今にも俺に飛びかかってきそうだぜ? 
 ほら、両腕を伸ばして飛びかかって……。
 こなかった。
 俺の息がかかるギリギリのところで止まっている。
「え……?」
「行かせねえぞ化け物っ!」
 そう叫ぶ大介の声で我に返った。
「だ、大介」
 目の前の化け物に大介が後ろから抱きついている。両腕を押さえ込まれている化け物は見動きが取れなくて、必死に暴れていた。
「い、今のうちに、逃げろっ!」
「でも、お前が」
「は……やく、しろ」
「わ、わかった」
 振り向いて里奈を背負い、唯の手を引いて全力で走りだした。
「優也っ、大介どうすんの! ねえ!」
「知らねえよ! 大介に聞けよっ」
 なんでだよ、なんでこうなるんだよ。
 ふざけんじゃねえよ!
「うあああああっ」
 再び聞こえた大介の声に足が止まる。
「優也! 止まんじゃねえっ、走れええ!」
 大介の声が聞こえて、俺は再び走り出した。
 唯を握る手に力が入る。唯も強く握り返してきた。
 頼むぞ、死ぬなよ大介。
 生きて俺のところに戻ってきてくれよ。

      三

 あれからどれくらい走っただろう。
「優也、もうダメ、走れないよ……」 
 唯が俺の手を放してその場に座り込んだ。額には汗が浮かんでいて、肩で大きく息をしている。
 それは俺も同じことだった。大介と別れてからほとんど止まることなく走り続けたから。でも、ここで休んでいる暇なんてない。もしまたさっきの化け物が現れたら今度は逃げきれない気がする。
「唯、がんばれ。またあの化け物に襲われるかもしれないだろ」
「ちょっとだけでいいから……」
 まあ、周りを見る限りじゃ何もいないし、少しだけなら大丈夫かもしれないな。
「俺がタバコを吸い終わるまでだぞ」
 背負っている里奈を地面に寝かせ、ポケットからタバコを取り出して火をつける。口から吐き出した煙がゆっくりと流れて消えて行く。
「ありがと」
「ああ」
 走って疲れている体にタバコって、大丈夫なのだろうか。今さらか。
 しかし、本当に気味の悪い世界だな。この世界では常にこんなに暗いのだろうか。
「ねえ、優也」
 ぼうっと空を見上げていた俺に唯が話しかけてきた。
 返事はせずに視線だけを唯に向ける。
「なんか、車が走って来る音がするんだけど、気のせいだよね?」
 言われてみれば、そんな感じの音が聞こえる。まさかとは思うが、さっきの化け物が車を運転して俺達を追っかけてきたのか? いやいや、あの化け物にそんな知能があるようには見えなかったけど。
 そんなことを考えているうちに車の音がだんだんと近づいてきていた。
 もう、すぐ後ろで聞こえる。
「ゆ、唯! 走れっ」
 里奈を背負い、座り込んでいる唯の腕を掴んで立ち上がらせ、無理矢理に引っぱって走らせる。唯も何が起きているのかある程度理解したようで、黙って俺についてきた。
「もっと速く走れっ、追いつかれるぞ!」
「そんな、速くなんて、走れないよっ」
 ヤバい。この道は一本道だから、すぐ追いつかれる。
 背後からうるさくクラクションの音が鳴る。何度も、何度も鳴り続ける。
「ふっざけんなよっ! クソがあっ」
 俺のそんな叫び声もむなしく響くだけで、車が俺達を追い越してすぐ目の前に止まった。肩で大きく息をしながらゆっくりと後ろに下がる。乾いたのどに唾が張り付いてうまく飲み込めない。
「どうする……?」
「ごめん、わからない」
 唯を握る手がガタガタと震え、本当に握っているのかどうかも分からなくなってきた。
 車の窓がゆっくりと開いていく。
 車の中は暗くてほとんど何も見えないけど、突然ついたライトで中が見えるようになった。
 ビクリ、と体を仰け反らして後ろに下がった。
「おい、何ビビってんだよ」
 車の中から聞こえた聞きなれた声。いつも俺のそばにあった声だ。
「……え?」
 眉間にしわを寄せながら窓にゆっくりと近づく。
 ぬっ、と見覚えのある顔が窓から出てきた。
「だ、大介!」
 大介だった。
 どっからどう見ても、大介以外の誰でもなかった。
「大介っ、生きてたの? どうやって? 車は? あの化け物は?」
 目じりに涙を浮かべながら唯が窓のふちに手をかける。
 マジかよ、お前、無事だったのかよ。
「そんないっぺんに聞かれてもどれから答えたらいいのかわかんねえよ」
「本当に、大介なのか?」
「俺以外に誰がいるんだよ」
「じゃ、じゃあ里奈の体で最高の場所は?」
「バスト以外に考えられないな」
 正真正銘、大介だ。
 思わず俺まで目じりに涙が浮かんできた。
「ねえ大介、あの化け物はどうなったの?」
 落ち着いた唯がもう一度大介に質問する。俺も気になっていたことなのでちょうどいい。
「殴ってたら動かなくなった」
「車はどうしたの?」
「パクってきた。車についてはあんまり聞かないでくれよ」
 そう言って笑みを浮かべる大介。
「けど、本当にお前が無事でよかったよ」
「それより、早くお前らも乗れよ。一気にマンションまで行くぞ」
「ああ」
「うん」
 短い返事をして後部座席のドアを開け、背負っていた里奈をそっと寝かす。唯は里奈の隣に乗り込んで座った。
 俺は助手席のドアを開けて乗り込む。
「里奈は、まだ目が覚めないのか」
 完全に乗り込むのを待って大介が話しかけてきた。
「ああ」
 そう言いながら小さくうなずく。
 そうか、とだけ返事をした大介はアクセルを踏んで車を発進させた。
「大介って運転できるの?」
 後ろから唯の不安そうな声が聞こえる。安心しろ唯、不安なのはお前だけじゃない。俺も不安だ。
「まあ、任せとけって」
 大介がそう自信満々に言うので、任してみることにする。
 窓からは民家がまるで流れ星のように流れていくのが見えた。

 大介が猛スピードを出したおかげで、マンションには思っていたよりも早く着いた。
 マンションの形とかそういうのは俺達の世界のと何も変わっていない。だから、一階からエレベーターに乗って十九階で降りれば隙間を通って帰れるはず。
「この世界に人間はいねえのかよ」
 車から降りようとした時、大介が話しかけてきた。
「わからない。けど、あの化け物にマンションとか建てられるとは思えないから、どっかにいるんじゃないか?」
「どっかって、どこだ?」
「俺が聞きたい」
「そんなのどうでもいいから早く行こうよ」
 少しきつめの口調でそう言いながら、唯が里奈を背負って車から降りた。俺と大介も車から降りる。
 下から見上げたマンションは心なしか老朽化して見えた。もしかしたらこの町は、住人が化け物から逃げ出した後の町なのかもしれない。
 俺達の世界が平和な世界だとしたら、この世界は人類が滅亡に向かっている世界。そう考えるとこの空や人がいないこともある程度納得できる。
「唯、里奈は俺に任せろ」
 重たそうに里奈を背負っていた唯に声をかけ、唯の背中から俺の背中へと里奈を移す。目を覚ます気配はまだない。
 先にマンションの自動ドアの方へ歩いて行った大介が、ドアの前で首をかしげている。
「どうした?」
「どうやら、このマンションも電気が通ってないみたいだな。多分エレベーターも使えねえだろ」
 大介がそう言いながらドアを無理矢理こじ開けて中に入っていく。図書館の時も同じようにして開けていたけど、コイツすごい怪力だな。
 ていうか、エレベーターが動かないなら、俺は里奈を背負いながら階段を上がらないといけないのかよ。早く起きてくれよ里奈。
「エレベーターが動かないなら、また階段を使うの?」
「そうなるな」
 そう答えると、唯が気だるそうな表情を浮かべながらマンションの中へと入っていった。俺も続いて中に入ると、エレベーターの前に大介が立っていた。
「やっぱり動かねえ。階段で行くぞ」
 無言でうなずき、階段に向かって歩いて行く。里奈を背負っているため歩くスピードも遅くなり、先を歩く唯と大介を追いかける形になった。
 みんな、無言でひたすら階段をのぼっていく。
 俺達の世界に帰るため、以前のような暮らしはできないかもしれないけど、それでも帰るために十九階を目指してのぼっていく。

 階段をのぼりだして数十分経った頃、ようやく俺達は十九階へ着いた。
 みんな、疲れ切った体を無理矢理動かしてエントランスへと向かって歩いて行く。
 でも、元の世界に戻ったって結局何も変わらない。
 家族はいないし、町に誰もいない。帰っても待っているのは絶望という二文字だけ。希望という二文字はこの世界に来て消されてしまった。
 それでも俺達の世界に帰りたかった。
「で、大介、どこら辺に隙間があったんだ?」
 エントランスに着いて、エレベーターの前に立った大介が周囲を見渡しながら話しかけてきた。
「いや、わからない。里奈の話なら扉付近にあるはずだけど」
 そう言って、俺も周囲を見渡すけど、それらしきものはどこにもなかった。周囲が暗いせいで見つからないのかと思ってケータイで照らしてみるけど結果は同じ。
 隙間なんて無い。
「ねえ、もしかして扉の向こうにあるんじゃない?」
 唯が扉を見つめる。
 確かに、その可能性は十分にある。
「大介」
「任せろ」
 短くそう言った大介は、閉じた扉の隙間に指を入れて無理矢理にこじ開けようとする。
 けど、どんなに大介が力を入れても扉は開かない。
「俺も手伝う」
 里奈を唯に任せて扉に近づく。
 扉の隙間に指を入れ、俺が右側のドアを右に引っ張り、大介が左側のドアを左に引っ張る。
 お互い、渾身の力を入れて引っぱる。腕が引きちぎれそうな感覚がした後、扉は鈍い音を上げながらゆっくりと開いていった。
「見て、あった!」
 扉が開ききるのを待たずに、唯がエレベーターの中を指差して叫んだ。 
 扉を押さえたまま中を覗き込む。
 あった。 
 隙間だ。
 隙間があった。
 でも、おかしい。
 隙間が小さすぎる。人一人がようやく通れるくらいの大きさしかない。俺が唯を助けたときに見た隙間はこんなに小さくなかったぞ?
 まさか、ズレが元に戻り始めているのか?
「クソ、小さい隙間だな」 
 最後まで扉を開けきった大介が隙間を見て、ため息まじりに言った。
「多分だけど、ズレが戻り始めてるんだろ、早くしないと帰れなくなっちまう」
 そう言いながら俺も扉を完全に開ける。
「マジかよ。唯、お前里奈を置いて先に入れ」
 里奈を置いて、という言葉に一瞬躊躇した唯だけど、すぐ素直に隙間へと入っていった。
「早くっ、隙間、どんどん小さくなってるよっ」
 隙間の向こうから唯の必死に叫ぶ声が聞こえる。
「優也、次はお前が行け。里奈は俺に任せろ」
 もう、今はあれこれと考えている場合じゃない。一分一秒でも遅れれば帰れなくなってしまう。
「わかった」
 短くそれだけ返事して、俺も隙間に飛び込むようにして入った。
「優也っ」
 唯が俺を受け止めてくれた。
「ありがと」
 そう言いながら振り向いて、隙間の向こうへと手を伸ばす。
「大介! 早く!」
「うるせえ、わかってるっ」
 大介自身も焦っているのが声からよくわかった。
「優也、引っぱれ!」
 大介の声がして、隙間から里奈の両腕が出てきた。
 唯と一緒に、その腕を渾身の力を入れて引っぱり出した。
 ちょっと乱暴だけど、許してくれよ里奈。
「大介! 後はお前だけだ!」
 そう言った瞬間だった。
 突然、隙間が一気にサッカーボールほどまで小さくなった。
「ちょ、ちょっとなんで! 大介!」
 唯がパニックになって隙間の中に手を入れる。 
「唯! 落ち着け! 大介、大丈夫だ、手をこっちに伸ばせ」
 そう言う俺だって落ち着いてなんかいない。
 だって、このままじゃ大介がこっちに帰ってこれない。
 こんな小さな隙間じゃ通れない!
 どうする? 考えろ、考えるんだ俺! 
「大介、いい? 手を放さないでよ?」
 震える声で唯が手を戻してくる。その手の先には大介の手。
 その手を見て少しほっとした。
 手を放さなければ、なんとかなるかもしれない。
 絶対に手を放さないでくれよ。
「唯、もう無理だ。手を放してくれ」
 隙間の向こうから聞こえた大介の声は、パニックになっている俺達とは違って、とても落ち着いた声だった。
「何が無理だよ! ふざけんな! 唯、いいか? 絶対に手を放すなよ?」
 唯が黙って何度もうなずく。そのたびに、目に溜まった涙が頬を伝って流れていった。
「いいから放せって言ってんだよっ!」
 突然、大介が怒鳴り声を上げた。
 驚いた唯が大介の手を放す。
「大介っ、お前」
「そう、それでいいんだ。怒鳴ってごめんな唯」
 大介の手が唯の頭をそっと撫でて、隙間の向こうへと戻っていく。その手を掴もうと手を伸ばしたけど、あとちょっとのところで届かなかった。
「大介ええ……、いや、いや、お願いっ、手を伸ばして!」
 唯が泣きじゃくりながら隙間の向こうにいる大介に手を伸ばす。
「優也、唯、里奈、ごめんな……」
 そう言いながら、大介が隙間の向こうから唯の手を押し戻し、俺達を見つめた。
「大介……」
「ま、仕方ねえよ。……みんなともう一回、プールで遊びたかったなあ」
「もう一回なんて言わずに、何回でも遊ぼうぜ……」
「おう」
「プールだけじゃなくて図書館にも行こう」
「おう」
「そうだ、俺まだ大介のこと殴ってねえよ」
「マジか、ごめんな。殴らせてやれそうにもねえわ」
「大介、なあ、大介」
「なんだよ」
「帰ってくるよな? 絶対帰ってくるよな?」
 クソ、涙で前が見えねえ。大介の顔が見えねえよ。
「おう、絶対に帰ってやるよ。約束する。だから、だからお前らも待ってろよ……」
 そう言って、大介が笑った。
 大きな目に涙をたくさん浮かべて、唇を震わせながら笑った。
 それが、最後に見た大介の表情だった。
 目を閉じるようにすうっと隙間は消えていく。
 まるで、大介がそのセリフを言い終わるのを待っていたかのように。
 大介をパラレルワールドに残したまま消えていった……。
「なんで、なんでこうなるの……」
 その場でうずくまった唯が、かすれた声でそう言う。見ていられない。そっと、唯を自分の方へと抱き寄せた。下を向いたまま、何度も何度も大介の名前を呼びながら唯が泣き続ける。
 こんなに一生懸命考えて、ここまで頑張ったのにその結末がこれだなんてあまりにひどすぎる。なんで? 俺達が何をしたっていうんだよ。
 神様、そんなに俺達のことが憎らしいのか? そんなに辛い目に遭わせたいのか? なら、いっそのこと俺を殺してくれよ。さっさと殺せよ!
「ゆ、うや……さん?」
 不意に、誰かに名前を呼ばれた。その声が里奈の声だって気づくまで少し時間がかかった。
「里奈!」
「り、な?」
 唯と一緒にゆっくりと起き上がる里奈を見つめる。何が起きているのかわからない様子の里奈はきょろきょろと周りを見渡していた。
「えっと、私、確か図書館の裏口から外に出て、表に回ったらたくさんの死体があって……」
 そこまで言って、里奈の表情が青ざめていった。そうか、里奈も両親の死体を見たのか。
「で、そう、私の両親が」
 里奈の口元が引きつって、両目から涙がこぼれていく。
「里奈、言わなくていいよ。わかってる。何があったかみんなわかってるから」
 唯が里奈に近づき、頭をそっと優しく撫でながら胸元に引き寄せた。それでも里奈はまだ無表情のまま涙を流していた。
「優也さん、ここは、ここはどっちの世界なんですか? 大介さんはどうしたんですか?」
 里奈の目がまっすぐに俺を見つめてくる。やめてくれ、そんな目で俺を見ないでくれ。俺は大介を助けてやれなかったんだ。救ってやれなかったんだ。
「ここは私達の世界だよ。大介は、逃げ遅れて、パラレルワールドに残されたの」
 震える声で、ゆっくりと里奈に説明する唯。
「大介さんが? 私達だけ戻ってきたんですか? なら、もう一度あの世界に行って大介さんを助けに行きましょうよ」
「できないの、ズレが、元に戻ってしまったの」
 泣き疲れた唯が淡々と里奈にそう告げる。
「そんな、そんな、あんまり……ですよ」
 瞬間、里奈は唯の胸に顔をうずめて大声で泣き出した。無理もない、普通に考えてキツすぎる。両親の死体を見て気を失って、目が覚めたら大切な友人ともう二度と会えなくなっていたなんて、どう考えたってキツすぎる。
「里奈、大丈夫だ。大介はきっと帰って来る。また何かバカなことしながらきっと帰ってくるから。だから泣くなよ……」
 そうだよ、絶対に帰って来るって言ってたじゃないかよ。それまで俺達にできることってなんだ? いつまでもここで泣いてる事じゃないよな。だろ? 大介。
「でも、もう帰って来る方法が無いじゃないですか」
「大丈夫、大介ならきっと見つけ出して帰って来る。だから、もうそれ以上何も言わないでくれ。俺達には、大介を信じて待ってやることしかできねえんだからっ」
 唇を強く噛みしめる。切れた唇から血が出て、口の中に鉄の味が広がった。
「ねえ、優也、里奈、帰ろうよ。もう、私疲れちゃった」
 ゆっくりと立ち上がった唯が、そっとエレベーターのボタンを押す。
 十八階のボタン。
 動きだしたエレベーターが、機械的な音を上げながらゆっくりと動いて降りていく。
 最後に、四人で笑って過ごしていた部屋がある階へ向かって。
 唯に対して、俺と里奈が返事をすることはなく、無言で扉を見続けた。
 エレベーターはすぐに止まり、自動で扉が開いた。
 心地よい夜風が入ってきて、肌をかすめていく。
 里奈の体を支えてやりながら立ち上がり、エレベーターから出る。背後でゆっくりと扉の閉まっていく音が聞こえた。
「もう、大丈夫ですよ」
 小さな声で里奈がそう言って、俺から離れていく。
 唯を先頭に、ゆっくりと歩きながら部屋へと歩いていく。まるで、足がセメントで固められているように上手く歩けなかった。
 それでも確実に部屋へと近づいていき、ついには目の前に部屋のドアが現れた。
 ドアノブに手を伸ばす。深く息を吸いながら一気にドアを開けた。
「遅いぞ優也! いったい今何時だと思ってるんだっ」
 ドアを開けて一番に俺を迎えたのは、部屋にいるはずのない、死んだはずの親父の怒鳴り声だった。
「え、え?」
 わけがわからず唯と里奈の顔を交互に見る。二人も口を開けて俺と部屋の奥の親父を交互に見ていた。
「優也、今夜は一緒に飯を食う約束だろ? 約束は守れ……ってそこにいる美少女二人は唯ちゃんと里奈ちゃんじゃないか、こんばんは」
 俺に対して文句を言いながら奥から歩いてきた親父が、二人の姿を見ていきなり態度を変える。
「ど、ども」
「こん、ばんは」
 二人も動揺しながら親父に挨拶を返す。
「親父、何で? 何で生きてんの?」
「お前な、自分の父親に向かって何で生きてんのとはいい度胸だな」
「いや、ちが、だって、親父の死体が」
「そうか、わかった。話は後で聞く。で、二人はこんな時間にバカ息子の家に来ていて大丈夫なのかい? ご両親が心配しているだろう」
 親父の話を聞いて、唯と里奈が互いに顔を見合わせる。
「おじさん、ありがとっ」
「失礼しますっ」
 そう言い残し、二人は走り去っていった。
「お前、二人に何したんだ?」
 走り去っていく二人の背中をぼうっと見続けながら親父がぽつりとつぶやいた。
 そうか、俺の親父がなんでか知らないけど生きているなら二人の両親もきっと生きている。
 でも、なんでだ?
「親父」
「なんだバカ息子」
「生きててくれてありがとな」
 言い終わると同時に両目から涙があふれ出した。そんな俺を見て、親父が不思議そうに首をかしげていた。
「どうしたお前、頭でも打ったか?」
「全然、大丈夫だ。さ、飯食おうぜ」
 涙を袖で拭いて部屋の奥へと歩いていく。
「お、おい優也! コラ」
 後ろから、親父が俺を呼ぶ声が聞こえる。
 家族の声は、俺を深く深くまで安心させてくれた。
 でも、家族がいても親友がいない。
 大介と喋っている時の安心感はもう二度と感じることができない。
 大介がいない、そのことが俺の中で誰にも埋めることのできない大きな空白となって存在していた。

      四 

 朝、けたたましく鳴り続けるケータイのアラームで目が覚めた。親父が起こしに来ないってことは、多分会社に寝坊して急いで部屋を飛び出して行ったんだろう。
 汗でべっとりと張り付いたシャツを脱いで、上半身裸のままタバコとケータイを持ってベランダに出る。
 下を見れば車やら人やらがたくさんいて、それを見ていると胸が高鳴って、何とも言えないような嬉しい気分になった。
 タバコを取り出して火をつけようと思ったけど、禁煙も悪くないかな? なんて思ってタバコを戻した。
 ケータイを取り出して時間を見る。
 朝の十時。
 ああ、親父完全に遅刻だな。
 そんなことを考えていると、不意にケータイが鳴って、驚いて落としそうになった。
 画面を開く。
 唯からだ。
「もしもし? もう、大丈夫か?」
「おはよう。うん、大丈夫じゃないけどさ、私も里奈も、家に帰ったら両親いたよ」
「そっか、良かった。本当に良かった」
「あの、さ」
「どうした?」
「今、里奈と二人でプール近くの公園に来てるんだけど、来れる?」
「ああ、大丈夫。今から行く」
「わかった、待ってる」
 ケータイを閉じてベランダから部屋に戻る。その場にあった適当なシャツを着て、何かが起こるわけでもなくスムーズに玄関から外に出た。
 もちろん、母親の遺影にはちゃんと手を合わせてきた。
 今日も暑い一日が始まる。
 俺の心に大きな穴をあけたまま。

 プール近くの公園は相変わらずセミがうるさかった。
 俺的には、セミは消えたままでも良かったんだけど。
 入り口わきに二人の自転車が止めてあったので、俺も同じ場所に止めておく。
 周りを見ると、木陰にあるベンチに座っている二人の姿が見えた。
「優也」
「ども」
 二人も俺に気がついたようで声をかけてきた。
「よ」
 と、短く返事をして二人のところまで歩いて行く。
 木陰は日差しが当たらないので、かなり居心地が良かった。
「ごめんね、急に呼び出して」
 そう言いながら、唯が申し訳なさそうな表情をする。
「いや、いいよ。どっちにしろ話したいことがあったから」
 腕を組みながら木にもたれかかる。
「あの、優也さんはこの世界についてどう思います?」
 里奈が毛先をいじりながら聞いてくる。また何かを考えているのだろうか。
「まあ、家族が生きてるのは嬉しいけど、冷静に考えるとそれってありえないんだよな。俺達の世界に帰ったのなら、町には誰もいないはず」
 死んだはずの人がいるのは、どう考えてもおかしい。
 誰かが魔術でも使ったのか?
「じゃあ、この世界はなんなの? パラレルワールド?」
 唯が俺を見てそう言ってきた。
 俺にわかるわけがないだろ。
「唯、その可能性も……無くはないですよ」
「どういうこと?」
 と唯が里奈に尋ねた。
 里奈が毛先をいじる手を止めて、俺と唯を交互に見た。
「パラレルワールドが一つだけとは限らないんですよ」
 一つだけじゃない? 
「まさか、俺達は元の世界に帰ったんじゃなくて、家族が生きてるというパラレルワールドに来てしまったのか?」
「多分、ですけどね」
 里奈が自信なさげにそう付け足す。
 てことは、同時に多数のパラレルワールドがズレて重なっていたのかよ。
「私達の世界には帰れないの?」
 唯の声が震えている。
「ていうか、帰らなくてもいいだろ。俺達の世界に戻っても、待っているのは絶望だけだ」
「そんな、だって大介は私達の世界に帰って来るって言ったんだよ? 私達がいなかったら大介、一人ぼっちになっちゃうよ……」
 そう言いながらうつむいた唯は、膝を抱きかかえるようにして座り直した。
 小さく震える肩を里奈がそっと引き寄せた。
 唯、泣かないでくれよ。
「いいか唯、よく考えろ、俺達はどこを通ってこの世界に来た?」
「どこって、エレベーターにあった隙間でしょ?」
 うつむいたままそう答える唯。
「正解。もし、また世界がズレて同じ場所に隙間が現れたら、大介もそこを通ってこの世界に来るかもしれない」
「じゃあ、この世界に住んでいれば大介にまた会えるの?」
「何年後になるかわからないけどな」
 唯がゆっくりと顔を上げた。涙はもう止まっていた。
 大介に会えるかもしれない、そんな希望が唯には見えたからだ。
 けど、ごめんな。
 そんな希望、ありえないんだ。
 さっき里奈が言ったように、パラレルワールドが一つとは限らない。再び隙間が現れても、その先がこの世界に繋がっている可能性は限りなく低いんだ。
 もしこの世界に繋がったとしても、あの気味悪い世界で大介が生き残れていないかもしれない。
 こんなこと考えたくないけど、どうしても考えてしまうんだよ。
 大介の無事を信じたくても、頭の中には最悪のパターンしか浮かんでこねえんだよ。
 希望なんか見させてごめんな。
 もう、唯の悲しむ顔は見たくないんだ。
「……そういえば」
 そう言ったのは唯だった。
「この世界に最初から住んでいた、この世界での私達はどこに行ったの?」
 言われてみればそうだ。家族がいるっていうことは、もう一人の俺達がいないとおかしい。
 ていうか、出会わなかったこと自体がおかしい。
「それは多分、私達がこの世界に来たことで消えてしまったんだと思います」
 思わず、ポカンと口を開けて里奈を見た。
 なんで瞬時に色々と思い浮かぶんだよ。
「じゃあ、その考えから行くと、この世界での大介はこの町に存在することになるよ?」
 確かに、外から俺達が来たせいでこの世界での俺達が消えたのなら、この世界での大介だけ消えずに残っていることになる。入れ替わる大介がいないから。
「それです。昨日の夜からずっとそれが頭の中で引っかかってるんですよ。もし、この世界での大介さんが町にいるなら、昨日、優也さんのお父さんが私と唯に話しかけてきた時、大介さんについて聞いてきたはずなんですよ。大介君はいないのかい? みたいな感じで」
 そういえばそうだな。俺の親父は大介のことを結構気に入っているから、真っ先に大介がいないことを聞いてこないとおかしい。
「じゃあこの世界って、家族はいるけど大介という人物が存在しない世界なのか?」
「わかりません、確定的な証拠がない限りはなんとも」
 首を横に振る里奈。
「ねえ、じゃあ、確かめに行こうよ。大介の家に」
 突然、唯がそう言いながらベンチの上に立ち上がった。
 なるほど、百聞は一見に如かずってやつか。
「……だな」
 唯の提案に賛成して、自転車を止めた場所まで歩きだす。
 里奈も賛成のようで、ベンチから飛び降りた唯と一緒に俺の後をついてきた。
 ここから大介の家まではそれなりに近い。自転車なら十分くらいで着く。
 
 背中を焼こうとしてくるかのような日差しを受けながら自転車で走る。
 少し自転車で走っただけなのに、背中は汗でべっとりだ。
「もうすぐ大介さんの家に着きますね」
 俺の後ろを走っている里奈が話しかけてきた。
「だな、そこの角を右に曲がってすぐだろ?」
 すぐ先を指差す。
「そうですよ」
 と、短い返事だけが帰ってきた。
 少しスピードを落として右に曲がる。
 そして、すぐその場でブレーキをかけて止まってしまった。それは俺だけじゃない。遅れて角を曲がってきた二人も同じだった。
「なんで、だ?」
 前を指差しながら後ろを向いて、里奈と唯の顔を交互に見る。
 二人も何かを言うことができずに前を見続けていた。
 無い。
 家が無い。
 大介が住んでいた家が無い。
 ただの新地になっていた。
「嫌な予感はしていたんですけど、まさか……」
 自転車から降りた里奈は、ゆっくりと新地に向かって歩き出した。
 俺と唯も自転車から降りて、里奈に続いて歩きだす。
 綺麗に家が並んでいる中にある更地はとても不自然に見えた。
 更地の目の前に来ると、その不自然さがより際立って見えた。
「里奈、どういうこと?」
 新地を見て呆然と立ち尽くす里奈に唯が話しかけた。
「えっと、この世界は、大介さんは最初から存在しない世界なんですよ、きっと」
「ちょ、ちょっと待て。存在しないって、大介の家族も何も存在しないのか?」
「見ての通りですから、そういうことになりますね……」
 そう言って、里奈が目の前の新地を指差す。
「そんな……そんなっ、いつか帰ってきても、大介だけ迎えてくれる家族がいないなんてひどすぎるよ……」
 そう言って、声を出して泣きながら唯がその場に崩れ落ちた。
 唯の両目からとめどなく涙があふれ出して、地面の上に落ちていく。
「なあ里奈、この町の人達は誰も大介のことを知らないってことになるのか?」
「……はい」
「……確かめる」
 ポケットからケータイを取り出して、親父のケータイに電話をかける。
 呼び出し音が十秒ほどなった後、ようやく親父が電話に出た。
「どうした優也」
「あ、親父、あのさ、大介って知ってるよな?」
「大介? 誰だそれ?」
「冗談言うのはやめろって、ほら、いつも一緒に遊んでた大介だよ」
「いや、知らんぞ? 今忙しいから家に帰ったら詳しく話を聞く。じゃあな、切るぞ」
 思わずケータイを手から落としてしまう。
 なんだよ、どういうことだよ。
 なんで知らねえんだよ。
 俺達の世界の大介はパラレルワールドから帰ってこれなくなって、この世界の大介はそもそも、存在自体していない。
 なんで? なんで大介ばっかりこんな目に遭ってんだよ。
 大介が何か悪いことしたか? 俺を助けることしかしてないだろ。
 プールで俺を元の世界に戻してくれたのも、化け物から俺を助けてくれたのも、全部大介なんだぞ?
 もし、あの低い可能性の中から無事にこの世界に来れても、大介のことを迎えてくれる家族もいないうえに、大介のことを知っているのが俺を入れて三人だけって、なんだよそれ。
 なあ神様、どういうことだよ。俺達には家族と再会できるハッピーエンドを与えておいて、大介だけバッドエンドなんて、おかしいだろ。
「おかしいだろ……」
 そんな俺の声も、唯の泣きじゃくる声も、タバコの煙のようにむなしく風に流されていくだけだった。


       エピローグ 

 早いもんで、この世界に来てもう一か月が経った。
 今日は高校の始業式だけど、校長の長話を聞くのが嫌なので俺は屋上でサボっている。
 サボり最高。
 けど、フェンスにもたれかかって晴れた空を見ていても、心は全く晴れてくれやしない。 
 だって、九月を過ぎれば十月が来て、あっという間に俺の嫌いな冬が来てしまうから。
 日本の四季から冬が消えて、春夏秋夏になればいいのに。
 ポケットからタバコを取り出して、火をつける。
 空気と一緒に煙を吸い込み、勢いよく吐き出す。
 この瞬間のために生きているといっても過言ではない。
「未成年者の喫煙は法律で禁止されてますよー?」
「なっ、えっ?」
 突然、背後から声が聞こえて、急いでタバコを踏み消して携帯灰皿に入れた。
 その間約三秒。
 自分で言うのもアレだけど、すばらしい早技だった。
 恐る恐る後ろを振り向く。
 そこにいたのは里奈だった。俺を見て、あきれたような表情をしている。
「なんだ、里奈か」
「ども、里奈です。禁煙したんじゃなかったんですか?」
「二週間すら続かなかった。お前、始業式は?」
「クラスに優也さんの姿が見えないので捜しに来たんですよ」
 ちなみに、唯と里奈とはクラスが同じだ。本来なら大介も。
「そっか。で、俺の手を引っ張って無理矢理始業式に連れて行く気か?」
「そんなめんどくさいことしませんよ。私もここでサボります」
 そう言って、俺と同じようにフェンスにもたれかかる。そのまま何かを喋るわけでもなく、ぼうっと空を見続けていた。
 俺も空を見上げる。
 海のように綺麗な青色で、巨大な城のような入道雲が浮かんでいる。
 前の世界で見た、あの動かない雲はこの世界には浮かんでいない。
「なあ、里奈」
 空を見上げたまま里奈に話しかけた。
「はい、なんですか?」
 返事をした里奈も空を見上げたままだ。
「この世界、慣れたか?」
「いえ、正直なところまだあんまり慣れてないです」
 風でなびく髪を手で押さえながらそう言った。
「俺もだ。今日だって、クラスの中でつい大介の姿を捜しちまった」
「あ、私もです。私なんて、クラスメイトに大介さんはどこ? って聞いてしまいましたよ」
 困ったような笑みを浮かべて俺の方を見る。
「それは、色んな意味で辛いな」
「はい。クラスメイトに誰? って聞かれてようやく気がつきました」
 そう言いながら、スカートを押さえてその場に座り込む里奈。視線はどこか遠くを見つめていた。
「やっぱり、大介さんがいないと辛いですよ。私達はいつも四人で過ごしていたから、誰か一人でもいないと落ち着かなくて、……落ち着かなくて」
 里奈の両目からすうっと涙がこぼれ落ちていく。
「あれ、なんで私泣いてるんでしょうね」
 と言って袖で涙を拭くけど、涙は止まることなくあふれ出ていた。
「あれ、……あれ? なんで?」
「里奈、ここには俺しかいないんだぞ? 強がんなよ」
 顔をあげて里奈が俺を見る。
 瞬間、里奈は声を上げて泣き出した。
 そんな里奈を見て、強く唇を噛みしめる。
 なあ大介、俺達はどうやって笑って生きていけばいいんだ?
 お前がいないと、四人そろってじゃないと笑えないんだよ。
 笑えないんだよ……。

「優也、里奈、どこに行ってたの?」
 クラスに戻った俺と里奈に唯が話しかけてきた。
「いや、二人して屋上でサボってただけだ」
 相変わらずだね、とそう言って唯がため息をつく。
「あ、そうだ、このクラスに転校生が来るらしいよ? 始業式で学年主任が言ってた」
「転校生、ですか?」
「ほら、あの席じゃない?」
 唯が教室の隅に置いてある机を指差す。
 俺の隣の席。
 前の世界では、大介が座っていた席だ。
 まあ、どうでもいいけど、そう言おうとしたところで担任が教室に入ってきた。
「ほら、早く席に座れー」
 担任がめんどくさそうに叫ぶ。みんなもめんどくさそうにダラダラと席に座りだした。
「じゃ、後でな」
「うん」
「はい」
 と、短く言って俺も席に向かって歩いていく。
 久々に座る学校のイスは、相変わらず固い。
「えー、あれだ、もう説明いらんだろう。ちなみに、転校生は男だ」
 担任がそう言うと、男子はだるそうな声を上げ、女子は黄色い声を上げていた。
 もちろん、俺だって男の転校生になんてまったく興味が無いので、机に突っ伏して目を閉じていた。
「じゃー、入ってこーい」
 担任が廊下に向かって叫ぶ。
 ドアの開く音が聞こえ、その次に聞こえたのは、里奈と唯の驚いて叫ぶ声だった。
 何に驚いたのか気になったので、目を開けて俺も転校生を見る。
「……なっ!」
 思わず、そんな声を上げながら立ち上がって、転校生を指差した。
 みんな、何事かと俺を見ている。
 ドクン、ドクンと心臓がうるさく鳴る。
 額から頬をつたって汗が机に落ちる。
「よお、優也。これでまた一緒に遊べるな」
 そう言いながら笑う転校生の顔は、どっからどう見ても大介の顔そのものだった。
「マジ、かよ」
 と、口ではそんなことを言っていたけど、多分、俺の顔は満面の笑みだったと思う。
 だって、終わったから。
 俺達四人の、果てしなく残酷で、果てしなく狂った物語が、ようやく今終わったから。 
 とびっきりのハッピーエンドでな。
                                         完



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