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前編 「小倉尚記と申します。」

小倉さん:写真中央 学生芸人限定お笑いライブ「ガクコメ!」を運営してくださっている。
葛城:インタビュアー 日本大学経商法落語研究会 3年生演者
小林:インタビュアー補助・カメラ 専修大学落語研究会お笑い企画STRIP GUN CLUB 3年スタッフ


自己紹介

葛城 ではまずお名前と差し支えなければご年齢もお願いします。  

小倉 小倉尚記(おぐら なおき)と申します。昭和58年5月24日、39歳です。

葛城 本日はよろしくお願いします。小倉さんが一体何者なのかを知らない人がたくさんいると思うのでまずざっくりとした生い立ちからお聞きしたいのですが。

小倉 お笑いの業界のキャリアのスタートは芸人からなんですよ。これが2002年くらいで、僕が高校を卒業するってタイミングで、当時の友達とコンビ組んでtwlにネタ見せのオーディションに行くってのがスタートなんですよ。そこから2年くらい芸人やって、辞めた後twlの社員をやって、その後からフリーで主催とか芸人さんのお手伝いをやってるって感じですね。

【普段は取材等のオファーは受けてないそうですが、今回は特別に受けていただけました!】

芸人になる


葛城 どうやって芸人を始めたんですか? 

小倉 高校3年の時の終わりくらいって暇じゃないですか。そのとき大学進学が決まっていたんですけど、暇で、なんだかうずうずして。「このまま大学行ったら四年間あるけど、四年たったら就職だし、なんかやり残したことないかな」って考えた時に友達に連絡して、twlにオーディションに行こうってなるんですね。

葛城 その友達とはどういった関係だったんですか。

小倉 中三の、当時も周りが受験勉強をしている時に、僕とその友達で別に目的とかは無いんですけど夏休みに地元の伊勢丹の屋上に毎日通って、カセットテープレコーダーに漫才を録音してたんですよね。

葛城 漫才を録音しようってなったきっかけはありますか?

小倉 これはねぇ、たぶんクラスの隅にいるような典型的な『ダウンタウン松本信者』の「クラスの隅でやってるのがかっこいい」みたいなことだと思うんですよ。あと当時ラジオ聞いてたんですけど、それも「中三でラジオ聞いてるのかっこいい」みたいなのあったと思うんです。その延長線上にテープレコーダーがあったから二人で『オールナイトニッポンの木曜二部』とか、そういうラジオごっことかをやってたんですね。それにスマホがない当時に何か記録に残せるものがテープレコーダーしかなかったんですよね。それで「テープレコーダーに落とし込めるもの」ってことでラジオごっことか漫才を撮ってましたね。
それに当時、その友達と共通で聞いてるラジオ番組があって、ニッポン放送の「井出浩二のゲルゲットショッキングセンター」っていう22時から3時間やってた中高生向けの番組なんですけど、その番組のコーナーでいろんなパフォーマーを募集して、優勝者は今の渋谷公会堂でやるイベントに出演できるってのがあったんですよ。「じゃあこれ応募しようよ」って二人でなってから今までなんとなく作ってた漫才をちゃんと3分尺になるようにしたりして応募したんですね。そしたら最後の方まで残って。それで中三の最後の方にラジオで漫才やったってのが、お笑いを始めるきっかけですかね。で、高校はその友達とは別々だったんですけど、大学進学直前の暇な時に「あいつとまたやりたいな」ってなって声かけたんですよね。

葛城 大学は卒業されたんですか?

小倉 最初の方は通ってたんですけど、授業よりライブ出たりとかになっちゃって、一年のうちに行かなくなって中退しましたね。

芸人として

葛城 そうなんですね、それが2002年。そこから芸人としてはどんなふうに活動されたんですか?

小倉 相方がすぐ連絡取れなくなっちゃって。それからピンやったり、他の人と組んだりしたんですけど、そもそも「売れたい」とか「これで食っていきたい」とかは考えてなくて、「とりあえず大学に四年間通って、就職する」っていう以外の選択をしたかったんですね。だからそんなに深くは考えていませんでしたね。だけど、僕とコンビ組んでくれてた人は結構面白かったんですよ。今振り返っても面白くて、「もしちゃんとやってたらなぁ」って思いますね。 

葛城 ネタはどちらが書いてたんですか?

小倉 二人でですね。録音しながら作って、僕が清書してみたいな感じでやっていました。でも当時、ネタを作る教科書とかお手本みたいなのがほとんどなくて。当時第一作目が出た爆笑問題の「日本原論」っていう漫才の本があるんですけど、時事ネタ漫才の本。二人とも爆笑問題が好きだったのでまんまそれっぽいことをやっていましたね。ネタは違いますけど、当時の自分達の時事で、おんなじようなことをやっていましたね、ですけどオリジナリティは全くなかったですね。

葛城 芸人は何年くらいやられてたんですか?

小倉 芸人は二年間ですね。2002年の3月から2004年の3月まで。ちょうど2年やりましたね。

葛城 なんで辞めるって決断に至ったんですか。

小倉 芸人としての目的とか目標が何も無かったんですよ。ただ、芸人をやりながら自主ライブとか主催ライブとかは当時からやってたんですね。で、そっちの業務が楽しいなって感じてきたんですよね。あと、たとえばライブを開く時に誰を呼ぼうってなるとき、10組呼ぼうってなるときに、自分の名前が上がってこなかったんですよ。自分の中で。じゃあもう、自分いらなくねぇか?ってなっていったんですよね。自分でライブを組むときに自分じゃない他の誰かの方がいいライブできるなってなったのが辞めた理由かもしれないですね。 

葛城 当時主催していたライブに出ていた方で、今でも活躍している方っていらっしゃいますか?

小倉 あんまりこういうこと言うの嫌で、なんだか「この人と一緒にやってた」とか「この人は自分が売ったんだ」みたいなのが。でもこの考え方はtwlに勤めてた時の上司とかのマインドの影響が大きいかもしれませんね。こういうのは恥ずかしいことだから辞めなさいって。でも芸人やってた時の世代で言うと、エンタの神様がワッときた時なんで、波田陽区さんとかヒロシさんと一緒に毎月twlの舞台でご一緒させていただいてました。それに当時は今ほど芸人さんの数も多くないですし、僕みたいに18、19で芸人をやっている人はほとんどいなかったので、ありがたいことに芸人さんにもお客様にも可愛がってもらって、「下積み」みたいな辛い思いとか嫌な思いとかは全くありませんでしたね。お客様がたくさんいらっしゃる舞台でやらせていただいてたし、ほんとに当時の方々には可愛がっていただいて、なんかいい思いだけさせてもらえてたなって印象ですね。

スタッフの道に

葛城 2004年からは? 

小倉 2004年の3月に辞めるって決めて、その少し前から、僕が勝手にtwlにお手伝いに行ってたんですね。別に言われてもないのに勝手に行ってたんですね。だいたいの入り時間もわかってるし、勝手に行って座布団並べたりして。そのときtwlの社員さんに当時の自分の「このまま芸人続けるのは違うと思うんです」みたいなことを言ったら、「裏方とかそういう業務を楽しそうにやってるんだし、もしよかったら劇場で働いてみたらどうですか」ってお話をいただいて。だから芸人を辞めて割とすぐ社員にしていただいたんだと思います。そこから3、4年ほど社員をさせてもらって、2007、8年くらいまでですかね。

葛城 社員時代はどういった業務をされてたんですか。

小倉 基本的には劇場のレンタルに関する受付や貸出に関することだったり、当時は今よりも劇場主催のライブを結構やっていたのでそういうものの企画とかブッキングとかをやっていましたし、そういう劇場に出入りするフリーの芸人さんをいろんなイベントとかに売り込んで一緒について行ったり。いわゆる営業ですよね。

葛城 退社後は?  

小倉 今と同じですね。プロのライブの主催をしたり、要請があればお手伝いをしたりって感じですかね。

葛城 作家さんに近いんですかね。 

小倉 んー、これがまた難しいんですよね。台本を書いて送ったり、企画書を書いてとかもあんまりないですし。結果的にライブ主催があるから作家業みたいなことはしていますね。

普段はこの道順でtwlに通うらしく、春には桜がとても綺麗だとおっしゃっていました。

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