やる気のない日々をどうとらえるのか

やる気がない日々を過ごしている。社会復帰に向けて前進をしたいが、もはや自分になにができるかはわからない。
わからないのではなく、とりあえずやってみようの精神は理解できるが、それほど今の社会は寛容ではない。
「合わなかったら転職すればいい」という言葉は「※ただし私の職場には来るな」という意味合いが含まれているように感じる。

ここ一週間になって自分は疲れていることに気づいた。この疲れは日々の疲れでなく、人生そのものに疲れているようだ。
疲れの原因は前に進めていないことだ。前進したい人生であったが、今はその見通しが全く立たず絶望している。
相まってよく比較をしている。他人の凄惨な人生は自分をマシに見せてしまう。
ネグレクトを受けた・五体不満足・凶悪な事件事故に巻き込まれたなど、自分より過酷な人生を歩んでいる人らがいる。彼らが社会生活を全うしている時、自分はなんと怠惰であろうかと自責の念にとらわれる。

他人と比較することに意味が無いと言われるがそこから脱却がいまだできない。自己を認識するために自分を見ず、他人と比べることでというのは相対評価といったところか。やはり自分は周りと比較してできないと認識しているし、社会も相対評価により私をできないと見るだろう。
相対評価とはそういった意味では共通の価値観だと思われ、これが低いのではやはり自信はつかない。

人と比べられることに疲れてしまった。他人に比べできないという評価は、邪魔、迷惑という評価に直結する可能性が高い。
自分の得意なフィールドを見つけるべきなのである。「個性を尊重する」という考えは立派であるが、それは相対評価が高いときに限る。低いものの個性はただ単に餓鬼なのである。
もはや相対評価をあげることに疲れてしまった。これを上げずに社会復帰をしたいが、それは社会が認めてくれないだろう。甘えも大概にしろと返され、私は行くところがないまま腐ちる。

だれも支えてくれない、自立せねばならない。そんな現状にも疲れた。人生に意味はないというが、意味を見い出せなければここまで疲れてしまうものか。

私のやる気のない日々は相対評価の低さによるものだ。なにか新しいものを見つけなければ、この日々からは抜けれない。
新しいものとは大きさや善悪を問わない。ただ新しければいい。今のままではつかれたままだ。別のなにかを探しに行かなければ未来はない。

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