いつか、が明日やって来る

ぼーっとしていても溜まっていく仕事を片っ端からやっつけていても、体感は別としてこの世では一日は24時間と決まっていて、世界中平等に時は刻まれていく。

幼い頃の私は姉が二人いたおかげで同級生たちよりも少し先に大人の世界に触れていたように思う。
ねるとんやイカ天を見始めたのは、6,7才の頃だろうか。
そうだ、私が初めて観た映画は『そろばんずく』だったのだからその頃に違いない。
銭湯のシーンで全裸で踊るとんねるずにまるいピンクがくっついていて、その場面が衝撃過ぎてあらすじとか結末とかなんにも憶えていない。
何年か経ってあのまるいピンクはモザイクというものだったと知った。
話は大幅に逸れたが、昭和の終わり頃(35年くらい前)は大人たちがテレビの中で本当に楽しそうにしていた時代だった。
そのひとつがイカ天である。
当時の私は姉達の影響でマルコシアス・バンプとたまが好きだった。
タイプの異なるバンドだが、どちらも怪しくて美しくて少し怖くて、審査員だったら絶対にどちらかひとつに選べないだろうと思うくらい好きだった。
私が幼稚園も小学校も嫌いだった理由、それは、自由がなかったからだと今はわかる。
授業中はわからなくても積極的に手を挙げて発言しなければいけないし、給食は絶対に残しちゃいけないし、意地悪な人間とも仲良くしなくてはいけない。
どんなに頑張っても泳げないのに泳ぐことを強制されるし、いじめを認めない大人のことも先生と呼ばなければならない。
何かがおかしい。おかしいけど、理不尽な世界に逆らうことなど小さな私に出来るわけがなかった。
そんな毎日の中で出逢った音楽は私にとって自由の象徴であり、この先の未来への不安を拭ってくれる救いのような存在だった。

私が生まれて初めて生で音楽体験をしたのは8才の時。たまのライブだった。
知識も経験も偏見も何も無かったまっさらな状態での初体験は、終始会場の雰囲気と音に圧倒されっぱなしだった。
私の一番好きな柳原さんがパーマ姿だったことに「えっ!」と驚いたのも束の間、『牛小屋』で石川さんのパーカッションの音がズドォンと心臓に直撃したんじゃないかと思うほど響き、私の全身は音楽で爆発するんじゃないかと本気で焦ったのを今でも憶えている。
周りの人達の熱狂とたまの四人から奏でられる一音一音が私の身体に突き刺さり興奮しっぱなしだったけれど、雰囲気に慣れ始めた頃にライブは終わってしまった。
でも只管「怖くて楽しかった」という不思議な感覚は大人になった今でも身体の中に残っていて、またライブに行きたいという気持ちだけが心の奥の方に沈んだまま、思春期を迎え、私は自分の人生を歩むことになる。
他人から傷つくことを言われるたびに(あんたなんかたまの音楽も知らないくせに。私は小さい頃から素敵な大人たちの世界を知ってるんだ)と心の中で見下したりしながら自分を守りつつ、独自の世界を作り上げて行った。
私がおかしな身の守り方をしているあいだに柳原さんが脱退し、たまも解散してしまった。

またいつか柳原さんの歌が聴きたいと思いながら季節は何度も巡り、私は42歳になった。
もう楽器の音に命の危険を感じることもないだろうし、やっと音楽を平常心で楽しめるだろうか。
いやきっと柳原さんの歌声を聴いたら落ち着いてはいられないだろう。
もう既に、言葉に表し切れない感情が私を突き刺して揺さぶってくるのだから。

【わたしの青マン】とてもとても楽しみです。


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