欲求特に性欲に関して、

現代、日本の社会に生きる人間は種の存続、子孫繁栄より自身の幸福のために生きるのだと思う。個人差はあれど性欲は欲でしかなくて使命感として現れることは無い。食と性は生きるために備わっている機能であるはずだが快楽としても消化できる。同列ではないが食事は娯楽快楽の要素を兼ね備えて取り入れているし、性は消化しているのであろう。社会として性欲という昨日ではなく幸福を求める過程で種を残す形になるのが現代の多くにとっての形ではないだろうか。
自分が睡眠、食欲を感じる時は動物として生きていくのに必要であるからというのは間違いない。付加価値として休息、社会から内的自分の安らぎも与えてくれる。また、食に関しては社会と関わるきっかけとしても上手に働く。それは人が共通して必要と感じることだからだろう。
一方性欲に関しては、社会を生きるのには不要であることが多くなる。必要というよりは必要であった頃の名残、備わっているものであるからしてそれを理解しているからこその消化であり、理解なのだと思う。
自分に関して言えば社会を生きるのに順応した人であるので、性欲が自分の中で程度は様々大きくなる時は動物として種を残そうとしていないのにも関わらずその大きさに、社会を生きるものとしての乖離から違和感を感じる。(社会的に存在しながら"動物的"であることが感情思考を占めることに対する違和感)それはそういうものだという理解と許容によって、社会から外れることなくいられるのが1つ。ルールによって理解をショートカットしているのが1つ。ここでいう大きいものも少ないものもそれは個体差としてあること、それは前提として有り得ることである。

溢れるものも理解する。程度の違いを許容する。特にセンシティブな話題だからこそ避けず理解することが違いへ歩み寄るために必要だと思う。

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