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クリスマス・キャロル ディケンズ(感想と考察)

この世では、どんよいことでも、初め人に存分に笑いものにされない者はいない、ということをよく知っていたからである。
そういう連中はどのみち盲目で道理の分からない者たちだということを承知していて、彼らが目にしわをよせてああざ笑うのは、その病をいっそう醜くするのも同然だと思った。

 ぼくが初めて『クリスマ・スキャロル』と出会ったのは5歳前後の時でした。本で読んだのではなく「ミッキーのクリスマスキャロル」というアニメーションで見たのが最初。意地悪をすると怖い目に合うとしか分からなかった当時、原作はより一層鮮やかで、多くの気づきと教訓に満ち溢れていて…。物語を追いかけながら印象に残る場面に感じたことと考えさせられたことを書いてゆきたいと思います。

あらすじ

ケチで頑固な老人スクルージ・エベーザ(以下スクールジ)は財産に恵まれていたが、心を閉ざし、世の中の親切や慈愛といったものを馬鹿にしてはねつけていた。クリスマスの夜、彼の下に死んだ同僚のジェイコブス・マーレイが現れ、今の在り方を改めないと、死んだあとに後悔に苛まれ地獄が待っていると予言を残す。その後3人の精霊がスクルージの下を訪れ、現在・過去・未来のクリスマスへ彼を運ぶ。慈愛を捨て、恋人を傷つけた過去・彼の仕打ちで貧乏に苦しめられている秘書の家族がいる現在・一人孤独に蔑まれながら死ぬ未来への旅を終えたスクルージは慈愛と幸福の大切さを知り、他者を救う現在を選択する。


世間という曖昧模糊な基準

貧乏ほど世間がつらくあたるものはない。そのくせ、富の追求にたいする世間の非難ほど厳しい非難はないときている!

 確かになと思う一文。人はこぞって学歴を追い求めて、受験勉強に望み、それが終わると、こぞって収入の良い会社を求めて就職活動を展開する。結婚の第一条件にさえ「収入」が君臨し続けていたり…。

 富を得ようとする人の根底には「貧乏な生活なんて嫌だ」という世間的な基準があって、収入で人(自分・他人)の価値を判断する。貧乏な人はこぞってお金を持っている人を批判する。税金対策だとか、心がないだとか。本作品では慈愛を満ち溢れた人が大半だけど、現実はスクルージのような価値観を多かれ少なかれ抱えてる人も多いのではと感じてしまう。

心の貧乏と豊かさ

彼らは洗練された家族ではない。服装がいわけでもないし靴は水が遠慮なくしみこむ代物だし、衣類も乏しい。
ーそれでも、彼らは幸福で、感謝の気持ちに満ち、たがいに気が合っていて、このクリスマスの季節に満足している。

 貧乏なのに大家族を養なければならない、スクルージの秘書の家族を表した場面。「お金」はないけれど、「愛情」のある家族像が目に浮かびますが、愛する家族を守るには「お金が必要だ」という事実も含まれているんじゃないのかなと感じます。

 ただ彼らは「お金がない」からといって、富めるものを怨み辛みをぶちまけることはありません。安月給で秘書をこき使っているスクルージにさえ感謝の意を表するのです。ちょっと考えにくいところではありますが、人はみな平等に祝福されなければならないといった慈愛に溢れています。

 スクルージは「知らなかった」と漏らします。秘書が大家族を養っていること。下の子供が足を患っており、栄養失調のためになくなる未来を。正確には「知ろうともしなかった」でしょうか。彼の興味関心は自分の手元にどれだけの財があるのかだけだったからです。

「無知」と「欠乏」の意味

それは人間の子供なんだよーこの者たちは父親に不満で、私に訴えでて、しがみついている。この男の子は無知、女の子は欠乏というのだ。そのすべてに用心しなさい。男の子の顔には『破滅』と書かれているから。

 精霊がスクルージを戒める言葉に「無知」「欠乏」があります。財にのみ目がくらんだスクルージは、恋人も友人も、家族でさえ突き放してきたのでした。「知らないことを知らない」=「知ろうともおもわない」ことが「無知」なんだと思います。

 スクルージは他人に冷徹な振る舞いをしているのにも関わらず、秘書や彼の甥など、彼を思ってくれる人の存在に気がつかない…。

 彼に欠乏しているものこそ「愛」だからじゃないかなぁと感じます。他人からの愛情をはねのけてしまうのも、自分に対しても、相手に対しても、「愛」を感じ取ることができないからだと思うんです。人はなんで「愛」を感じることができなくなるのか。それこそが「無知」と「欠乏」ではないかという風に感じます。

 「自分」が日々生きているなかで、誰かが自分を思ってくれてる。誰かが優しくしてくれる。誰かが親切にしてくれる。誰かのおかげで生きていられる。これらの身近にある幸せは近すぎて見えにくいのかも知れません。「灯台下暗し」なんてことわざがあるくらいで、意識していないと忘れてしまうくらいの「優しさ」を、本当はどこかで受け取っているのが、人間じゃないかなと思うんです。気づかずに過ごした結果、「誰にも頼れない」「自分さえよければそれでいい」と「欠乏」から「無知」へ変わってゆく。それに気づける機会があればいいのになと強く感じます。

優しさはどこから生まれてくるのか

なにかわたしたちのためにしてくださるからじゃなくて、こんなふうに親切に言ってくれたことが嬉しかったんだ。

 他人のためにできることなんてない、そう考える人もいるのではないでしょうか。ぼくもそう思っている節があります。自分も余裕がないのに誰かに優しくできるのかと疑問に感じます。

 ただ、誰かのためにできることは、なにも「金銭的」「実利的」なものだけじゃないのかもしれません。口先だけではなんとも言える、だからそんなものは一銭の足しにもならない、そう感じてしまうときがほとんどです。世間では、「偽善者」と罵る人もいますね。

 それでも、「親切」は人の心を救うのだと、本書の読了後に感じました。「ぼく(わたし)には出来る事がないから」は相手のためにできることを探さないでおく「言い訳」のようにも感じます。それこそが「無知」なのではないかなと思うのです。

 優しさは「そこにあるもの」、大切なのは「気づくこと」そう強く感じました。「人に優しくされてない」と感じる人は「人に優しくするなんてできない」と思います。そこにある「幸せ」に気づける人間になりたいと、心の底から感じた一冊です。

まとめ

「スクルージさん、本当に良かったなぁ」読み終わって、ホッとした気持ちになりました。誰かの親切に気付かないまま死んでしまう。それが本当に辛いことに感じる。

 スクルージは最後に周囲を助けました。このままでは死ぬはずだった、秘書の子供を救い、貧しい人々を救い、甥の親切に報いました。でも一番助けられたのはスクルージさんだったのかなぁと思う。彼には「誰か」を助けられる手段があるのに、助けようとする気持ちがなかった。逆に、「誰かを助けたい」のにその「手段」がない人のどれほど多いことだろうとも感じました。

 「ないものねだり」のようですが、「誰かを助けられる人」と「誰かを助けたい人」その両方になりたいなぁと思ったのです。そして、素敵なお話を書くことはその両方になるのではないのかなぁと独りよがりに感じたお話でした。

#ぼくの本棚
言葉が人を癒す taiti



 

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