新訳・自己責任論

不幸がその人の「自己責任」なのなら、幸せもまたその人の「自己責任」だよ、という話。


責任と、自由と

少なくとも、日本において「自己責任」という言葉はネガティブな意味あいで使われることが多いように思う。

もしなにか不都合なことが起きた場合は、当事者のせいですよと。

製品本来の使い方以外の目的で使用した場合、事故が起こっても「自己責任」で弊社は責任を負いませんよ、という注意書きから、海外の危険地域に出かけた人が生命の危機にさらされた時、たとえ死んでしまってもそれは「自己責任」だから仕方ない、という世論まで。

わたしは、とくに後者の論調は大きらいなのだけれど、ともかく事故や不都合が起きたときにしか本人の責任論が出てこないことはおかしいと思うし、関係のない他人が無責任にとやかく言ってくる風潮も、好きではない。

自分の上に責任がかかるのは、なにもネガティブな結果のときだけではない。いい結果のときも、悪い結果が出てしまったときも、原因となる行動を選んだのは当事者であって、そして結果の良し悪しを判断できるのは、外野でなく行動をした当事者だからだ。


わたしは、自分の意志で決める限り、責任と自由は同じ意味を持っていると思う。

自由であることと、責任を持つということは、同じこと。

「自由」という言葉はそもそも仏教用語で「自分に由」から来ており、自由とは自分による…自分の心次第であり、責任を持つかぎり、自由であることを己で決められるということだ。

拘束や束縛のない状態を示すfreedomとはかなり違う。


自分の責任において選び行動する限り人は自由であり、そしてその結果起こることの判断も、自分でできる。

人間は自分の脳が支配する完全主観の世界に生きているので、そもそも他人が入る余地なんてない。選択も行動も幸せも不幸せも、すべて自分の上にある

それを、他人の評価や一般的な価値観とかいう何の得にもならない要素を入れてしまうから、おかしくなってしまうのだ。

時代、生まれ、できごと、自分の幸せ

最近はまった小説の作者が「ロスジェネ」なる単語を冠した本を出していて、わたしはそこで初めてその意味を調べたのだけれど、なんと自分もギリギリその枠に入っているらしい。

彼らはバブルの残像を知りながら、学卒時に就職氷河期を迎え、グローバル化や新自由主義経済が加速させた「格差社会」の中に投げ出される。その数は、2千万人弱。雇用機会を均等に与えられなかっただけでなく、長期の経済不況下にあって、非正規から正規雇用、再就職といった再チャレンジの道も閉ざされているため、最も割を食った「貧乏くじ世代」とも言われる。08年の金融危機による「派遣切り」の被害者も、非正規雇用者が多いこの世代に集中。

(コトバンク 「ロストジェネレーション」のページ知恵蔵2015より 2015年10/15閲覧)


いっぽう同じ時期、「自信や自己肯定感を持てとか言われても、年代の状況的に無理」と、まさにロスジェネ世代の方が嘆き節を書かれているのを読んだ。

...30代の男性が仕事を失って困窮していく状況を他人に理解してもらうハードルは高いことも示している。つーか無理じゃね、とも思う。そこから「自信」や「肯定感」を掴むなんて、よほどの僥倖がないと難しいよ。...だから正直に言って、「自信や肯定感を持って」とか、軽々しく述べて欲しくないんだよね。それが得られる機会と時間を与えられなかったのだから。その与えられなかったことを「自己責任」の四文字で肯定されてきた世代には、あまりにも残酷すぎる言葉なんですよ。...

(ふじいりょう「アラフォー男子が自信が持てない理由」BLOGOS 2015年10/16閲覧)


自分にとって何が幸せなのかを己で決められる自由、という考えと照らし合わせるのであれば、「自分は不幸だ!」と感じているのなら、その方は不幸なのだろうと思う。本当にどうしようもないのなら、どうしようもないのだろう。その人の「幸せだなぁー」「不幸だ…」という自覚についてとやかく言うつもりはないし、そんなことないよ、がんばれよ、と声を掛ける必要も感じない。

また逆説的だけれども、自分の不幸を主張するのもまた自由であって、その主張にはある意味の快感…カタルシスがあるのだろうと思う。

ただ、この方だけでなく、こういう論調は本当に良く見かけるけれど、ロスジェネであれ、ゆとり世代論であれ、「この世代に生まれた人は□□である」と一般化されることには、強い抵抗感を感じる。

ひとくくりにするには、あまりに人の生まれ、個性や生き方が多様すぎるし、ときに個人の努力や感性を無視するような強引さを感じるからだ。

わたしも30代、いわゆるロスジェネ世代だけれど、特に自分に自信がない、自己肯定感が低い、という人間ではない。同じ時代に生まれて育っても、少なくともわたしはいま違う結果を持っている。


そういう意味で、人の自覚することがもし外的要素でできているのなら、

ロスジェネ世代と言われる人は全て自己不信でなければならない。

ゆとり世代は押しなべて消極的でなければならず、

バブル世代は全員見栄っ張りでなければなくてはおかしい。

また一般に不幸と言われることを引き合いに出すのであれば、非正規雇用であること、片親家庭で生まれ育ったこと、病気やハンデを抱えていること、お金のないこと、これらの要素を持つ人は全て「自分は不幸だ」と感じていなければならないことになる。

けれど実際はそうではない。それらの要因は100%にはなりえない。幸か不幸かは「○○世代だから」「△△だから」「□□がないから」というより、もっと個人レベルのものなのだ。生まれる世代や状況と個人の幸せ観には、じつはそれほど関連がない。

カテゴリーを持ち出して断じようとする傾向は多く見るが、個人的な見解を一般化するのには無理がある。自分で感じたことは自分のものだ。他人を巻き込まず、○○世代だからこうだ、△△だから不幸だ、と理由をつけるのではなく、単に「自分はいま不幸だ」と、その理由を個人レベルで考えるべきだろう。自分が不幸と感じるから、不幸だと。そしてそれはなぜなのか、どうしたら良いのかと。

以前、わたしは「人はクライシス(危機)をどう乗り越えるのか」というシリーズものの企画で、フィンランド某市の高校で講義をさせてもらったことがある。依頼されたのは東日本大震災に関することで、その講義のため当時被災地にいた知人(自身も福島県民)へアンケートをさせてもらった中で、とても心に残った文章があった。

...被災地でボランティアをして気づいたのは、「自立」をキーワードにして、2種類の人間がいるということです。
震災から三か月後、自分の足で立って行動しはじめる被災者たちがいるいっぽう、ボランティアに生活の全てを頼り切りな人たちがいました。それは一年も経つと大きな差となり、前者の方たちは新たな目標を持って活き活きと活動しており、後者の方々は相変わらず何もせず、自分の子どもの世話すらも他人まかせでした。...

(原文非公開、英語プレゼンファイルはこちら

災害で家や家族を失う、事故に遭う、病気になる、その要素はだれにとっても耐えがたい苦難だ。その災難はだれにもコントロールできず、ある日急に身に降りかかるものだから、よけいに混乱や苦痛は大きい。

けれどその状況が訪れたあとでも、「自分を幸福にする」という自由はある。意識して自由に行動することも、境遇を憐れんで何もしないということも、最終的には「自分が考える幸福」に結びつく選択行為だ。

それは、どちらが良い悪いではなく、変えられない過去の出来事に対して、ただ行動を選択するしか、生きていく道はないのだ。そしてその選択の積み重ねが人生を創っていく。


どの時代に生まれついても、どんな状況でも、そう言えるのではないだろうか。どの時代のどこの人がいちばん不幸であるかを問うのは不毛だ。

そして、不幸な状態で居続けることを選ぶ幸福…「受動的な幸福」というのも、存在していると思う。

つまり「現状を変えようと行動しないでいる幸せ」。もちろん、わたし自分の中にもこういう考えはある。何も行動しないで文句だけを言うとき、ある種の快感が確かにある。幸せというより満足感レベルのものかもしれないけれど。

実際、能動的に幸せになるには、負のものも引き受ける大きなエネルギーがいるのだ。

責任を持って、自分の足で動き出すためには非常に大きなパワーがいる。何もせず考えず充電したっていい。すぐ動ける人も、動けない人も、人それぞれだ。

ただ自分の経験を含め、立ち向かっただけ、責任を負う覚悟をしただけ、大きなリターンを得られる可能性があるということは、たしかだと思う。

比較することは必ず不幸に結びつく

「自分はいま幸せだ」というのは本来主観的な感覚であり、「自分は○○だから不幸なのだ」と外的要素のせいにして断じることは、いずれ自分の首を絞めることになる。

主観をやめて、幸せテンプレートと比較したり、人と比べはじめると、絶対的な幸福・不幸というのは成り立たないからだ。

わたしたちの中で、しつこくしつこく居座り続ける「常識論」「幸せテンプレート」。何度もこのnoteで書いているけれど、これに惑わされることが問題のもとだ。例えば、

郊外の高級住宅地に住み、庭つき一軒家で、犬を飼っていて、両親とも高学歴、お父さんは大手企業に勤め高収入、きれいなお母さんは専業だけれどもたまにお稽古を教えて副収入があって、子どもはふたり、ひとりはとてもかしこく勉強ができて真面目、もうひとりはスポーツ万能。年に二回の海外旅行が楽しみ。…

みたいな書いていて吐血しそうなステータスだけが「幸せなんだ!」と思い込んでしまっているのなら、こんなにつらいことはない。

人は多様な環境に生き、生まれも、考えも、得手不得手も、みんな違う。別の形をしているのにひとつの型に収まろうとするから、その型に入れないと自分は不幸だと錯覚してしまい、苦しい。

上の例でいけば、より高収入のお父さんのいる家庭がより幸せになるのだろうし、より美人のお母さん、よりかしこい子ども、より多く海外旅行に、より大きいおうち…と、上限にキリがなくなっていく。そしてこういった基準だと「自分より上」の家庭の前では、自分はやや不幸となってしまう。

逆に、「わたしは年収が200万円だ、不幸だ」と嘆く人の前に年収180万円の人が現れたら、もう不幸だなんだと言えなくなってしまう。

より収入の低い人、より見た目が悪い人、より「かわいそう」な人が不幸を嘆ける、より不幸な人が「えらい」…そのループは決して底を知らない。


「私は不細工だから人生終わり」→「でも××よりはましだよね、それで人生終わりとか××の前で言える?」
「就職氷河期に当たった。不幸」→「戦争の時代に生まれた人と比べても?」
「俺はこの有名私大出てるから人生勝ち組」→「でもハーバード卒の人と比べたら負け組になるよね?」


幸福自慢、不幸自慢とはよく言ったものだが、「○○のせい」「○○だから」「□□がないから・あるから」「他より優れているから、劣っているから」という外的要因や比較論ではなく、

ただ「自分はいま幸せか」自分の心に問いかけること、主観で感じ、比較しないことが、幸せへの道すじなのだろうと思う。

そして、自分の意志で自分の幸せを目指すことこそが「自己責任」であり、「自由」なのだ。


スタートする地点は、人それぞれ違う。ぬかるみの道を往く人も、砂漠の道なき道を往く人もいる。

生まれを選ぶことはできないように、置かれる状況は選べないことはあっても、そこからどこへどう進むかの自由は誰にでもある。

選んで行動して、それでももし今を不幸だと思うなら、新たに選択しなおせばいいだけの話だ。死なない限り、「ああ、自分は幸せだ」と感じられるまで、何度でも選べるのだ。


自分で感じ、選び、決める、判断する

とりあえず頑張ってみることも、とりあえず何もしないことも、その人の選択の自由だと思う。

自分を不幸にしようとする人はいない。もしそんな人がいるとしたら、既に生きていない人だ。

ベストではなさそうな境遇に身を置くのも、ある意味幸福感や満足を得られる選択だということだ。


しかし、状況のせいにすること、「自分は不幸だ」と言い募ることに快感を得られなくなってきてしまったら、それは選択をしなおすサインなのではないかと思う。

そんなこと言ったって…というなら、それでもいいけれど。だけど。

「○○世代なんだ、かわいそうー」「そういう生まれなら不幸でも仕方ないよね」とこの先ずっと他人に憐れまれて生きていたいのだろうか。そして可哀想に思った誰かが何かをして下さるのを待つ?

「□□のせいで自分は不幸だ」と主張することは、その何も知らない他人から「おかわいそう」を頂く状態を促進するプロパガンダだ。不幸論にまぎれて、これまでしてきた自分の努力までもがかき消される。

自分の人生は、自分のものだ。自分のものなのに。


ずっと以前働いていた会社に、ネガティブなことがあるとすぐに自分の生まれ、母親のせいにする人がいた。

自分が女性とうまくつきあえないのも、マナーをよく知らないのも、全て母親が悪かったせいだと。しかしその人はもう、彼を捨てたときの母親の倍近い年齢になっていて、これは彼の自縄自縛で、それを言うのが心地よいのだと見えた。「もうあの年齢なら自分の人生自分の責任だよね?」とすら思った。

しかし、不幸だと思い込み、ずっと母親のせいにしてきた反面、その人はとてもユニークな発想を持っていて、口がうまく世渡り上手で、人の懐に入り込むのがうまかった。それらの長所は、そんな状況から生きていくために身につけられたもので、その努力の成果は、まぎれもなく自分のものではないのだろうか。

人さまに自慢できることじゃないが、わたしもなかなかハードな人生を送ってきた。受けてきた災難自体は不幸なものなのかもしれない。けれど、「そんなことがあって気の毒」「それなら不幸でもしかたない」と人に憐れまれることには、ぜったいに我慢がならない。冗談じゃない。そんなこと、言われてたまるかと思う。まだまだ色々あるけれど、わたしは今、幸せなのに。


今生きているということは、大変なことがあったと同じだけ、努力して、自分の力で生き抜いてきたということだ。

過去に不幸な出来事があっても、それを乗り越えたことは、不幸ではない。立派に生きた証であり、誇りにすべきことだ。

もし人生のこれまでを不幸だと思うのなら、「こんなに大変な状況だった」だけでなく「だけど、ここまでなんとか生き抜いてきたよ」というところまで、自分でぜひきっちり認めてほしい。


人生は無数の選択の集積で、どこへ行くか、何を食べるか、何をするか、最終決定は自分にしかできない。

人に言われてやるものから、自主的におこなうものまで。そして主体的に選べば選ぶほど、責任も増していく。

とくに日常に大小ある場面、危機的状況を含めて「どうやってこれを乗り越えるか」がよりその人を形づくっていく。


どんな選択も、結局は自分の幸福のためだ。

そして年を経るほど、その積み重ねは貯金されてゆき、より特別な「自分だけの形」になっていく。誰かと同じ形になんて、なる必要がない。

自己責任は決してネガティブなことではない。自分が幸せになるための自由であり、絶対に欠かせないものだ。

自分の心の声を聴いて、他に惑わされることなく、選んでいくこと。その結果の判断も、自分でおこなうこと。そして、自分だけの幸せを全身でしっかり感じて、「幸せだー!」と言ってみる。

それがわたしの考える自己責任論だ。

今回も、読んで頂きありがとうございました。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

9

おおばやし あや

フィンランドで起業、国家認定ソーシャルワーカー。現在日本で講師業をしています。 http://s-a-i.fi

ぼくたちよ、常識論を破壊せよ

「常識」と書いて”へんけん”と読む…「常識論」や「幸せテンプレート」に苦しむ私たちの心を、少しだけ楽にするために。
1つ のマガジンに含まれています

コメント2件

おおばやしさん、こんばんわ。
おおばやしさんの記事を見て、私の考えの甘さに気付かされました。本当に力強い記事がたくさんあって、一気に読んでしまいました。
私は今就活をするか、自分の道に進むかぐだぐだと迷っていました。でもやっと決心がつきました。死ぬ気で生きてみようと思います。
あなたの記事に出会えてよかったです。
これからも応援しています!独り言みたいなコメントですみません!
frowerbellさん 記事を読んでいただき、またコメントをありがとうございます。
死ぬ気で生きる、素敵です。自分のやりたいことに正直にシンプルになるほど、崖っぷちではありますが”生”をより感じられ、人は力を増していく気がします。責任を持つことは大変なことも当然ありますが、そこから得られる喜びもとても大きいです。frowerbellさんの進む道に、素敵な出会いがあふれていますように。私も発展途中なので、お互いがんばりましょう~('◇')ゞ
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。