「恋愛教」の熱心な信者であるわたしたち

恋愛しなくちゃ、結婚しなくちゃ…というプレッシャーの原因を探してみたら、映画やドラマ、漫画や小説、メディアに広告、本質のない「一般常識」に囲まれ続けてきた自分の自縄自縛であることに気づくはず。

もちろん結婚は義務ではなく、恋愛も自分の心によるもので、必ずしなくてはいけないわけではないから、自分で決めて、自分に合う形を創ったらきっとずっと楽になれるよ、という話。

(この記事は特定の宗教や信仰を否定するものではありません)

いつか運命の人と、という刷り込み

多くの日本人には、宗教に対する過剰なアレルギーがあると思う。

これは不思議な現象で、相手がクリスチャンだと明かしただけでも身構えてしまう人は多く、信仰の話は控えるのが一般的なようだ。

しかしずっと不思議に思っていたのは、無宗教だ、神様は信じないと豪語するいっぽう、「運命の相手」がどこかにいて、いつか必ず会えると信じている人が少なからずいて、隠しもせず運命を共通言語として多用していること。

いつか素敵な人と出会って、その人が自分の人生を素晴らしいものにしてくれる、この歪んだ物質社会でも、そういう原始的な運命がきっとあるのだと。


人間のコントロールできる範疇を超えた「運命の愛」「運命の出会い」論は、超人間的な存在を示す宗教的な概念に見えるけれど、この場合信仰心というよりエゴにあふれているので、当てにするほど深みにはまりそうでもある。

ざっくり言えば「いつか王子さまが」「空から女の子が」論。客観的に楽しむフィクションだと面白いが、現実とは違う次元にある。物語には作者が必要だからだ。


高次元の存在を都合よく期待して、自分の人生のとても大切な部分を、まるで会ったこともない人に委ねようとする、本当にそれでいいのだろうか。

今生きているこの時を、自分の意志で変化させられるはずの人生を、存在が不確かなものに頼るために消費し続けるべきなのだろうか。


思うに、「いつか運命の人が自分を幸せにしてくれる」論を信じてしまうと、構造的に幸福からは遠ざかる。

それは、人はすべて主体的に自分の世界を持ち、自分の責任において己を幸福にするため生きている…自分の物語の著者は他のだれかではなく自身だからだ。


自分自身が誰か他人のために生きているのではないように、他者にもそれぞれの主観の世界があり、みな自分のために生きている。自分が見知らぬ運命の人に焦がれることは、すべきことをせず「誰かに自分を幸せにしてほしい」と他力本願を募らせるということ。

それは他者にとっては全くあずかり知らぬことだし、実際誰かが自分に対し「いつか突然現れて自分を幸せにしてくれますように」と願っていることは、「自分に都合の良い人が現れたらいいな」思考であって、思われるほうは気分がいいとは言えない。

そして少し素敵な人と偶然会えたとき「この人が自分の運命なのかも!」と目を輝かせ、相手の意図はおかまいなしに接近しようとする、自分に本当に都合が良いかどうか試そうとする、思い通りでないと不機嫌になるループ…

わたしは男性に今まで何度もそういう思いをぶつけられ、不快な経験をしてきたし、男性も、自分から何かを搾取しようと近づいてくる女性にうんざりしている人も多くいることだろう。実際もらい事故レベルで、これほど迷惑なことはない。

自分においしいものを食べさせるのも、素敵なところに連れていくのも、安らぎを与えるのも、あることに喜びを感じるのも、結局は全て自分。

誰かと一緒でないと幸せでないというのなら、それは依存的だし、言ってしまえば責任放棄だ。

運命の人を信じる信じないに関わらず、まず自分ひとりでも人生を幸せにするという姿勢があり、自分自身の幸福度を高め、その上で誰かと人生を交差させる、幸せを増幅する…という形でないと、より良い幸福は決して得られない。

2×2=4 < 5×6=30 < 9×8=72

仮に個人の幸福度を数値化して乗算にして比較すると、解に大きな差が出る。低い母数どうしを組み合わせても、結果は大きくならない

そしてわたしには、近い質量のもの同士が引きあうように、同じようなレベルの人が引かれあい、逆はあっても幸福度の低い人が高い人を引きつけることはないように思える。

だから余計に、自分の世界に集中して、自分ひとりでいてこそより幸福であろうとする人が、結局「出会えた」ときに乗算式に人生が広がるはずだ。

そして相手が自分を幸せにしてくれない、思い通りにならないという、自分勝手で理不尽な恨みを持つこともない。


また運命的な恋愛というものは結局、成功した恋愛を「運命」とタグづける後付け論なのだろうと思う。過去の自分も含め、わたしの知る限り人々は「今回こそ運命の相手」「違ったわ」と、一生に一度と断言しては苦い思いを葬り去ることを繰り返していく。

結局長く続いた、しかもなかなか良い出会い方だったときに、これは運命だったねと結論づけられるだけなのだろう。

恋愛における運命の扱いはほんとうに軽い。

あの曲を聞いて、そしてベートーベン先生に謝ってほしい。運命ナメててすみませんでしたと。というかわたしが率先して謝りたい。すみませんでした。


運命の恋愛を信じる傾向は、言うまでもなく、小さい時からせっせと物語やらメディアやらに洗脳されてきた結果だろう。視聴者として3次元世界から見るとエンターテイメントだが、2次元世界の登場人物の主観の世界で考えるとしたら、本人たちは苦労も努力も多いはずだが、ドキドキな恋物語の部分だけを見てしまうと、それがわからないのだ。

人はそれぞれ陰も陽も持っている。生きるだけで色々な葛藤を抱え、ぶれることも立ち止まることもしょっちゅうだ。そんなふうに自分自身、生きて己を支えるのがせいいっぱいなのに、なぜ他人に対してはハーレクィーンロマンスのヒーローや漫画のヒロインよろしくダメな自分を助けてくれる、一方的に愛して支えてくれる余力がある、と思えるのだろう。

自分に都合よく動いてくれる理想の人などいない。いるとしたらきっと魅力的ではない人のことだ。

そしてネットが広がった今、マスメディアをバカにしながら、それでもまだ引き続き「運命の恋」「恋愛の常識論」に踊らされている滑稽さにも、もっと自覚的であるべきだと思う。


人との出会いは多様でどこにでもあるが、それをどう活かすかは自分次第だ。

白馬の王子さまが突如現れたり、空から女の子が降ってくるのを待つのではなく、大衆の中から素敵な人を見つけ出し、苦労を含む作業も含め、良い人間関係を自分で作ること、人としっかり向き合う勇気。きっとそんな地味な作業が運命を「作る」。


「恋人がいないなんて不幸だね」という布教活動

わたしは宗教じたいを否定しているわけではなく、実際自分も様々な宗教を学び、教えから生き方のヒントをもらっている。

ただし受け入れられないのが「強引な勧誘」だ。遭遇したことは少ししかなく、いずれも見知らぬ人からだけれど、思想を他人に強制されるということのほかに、勧誘のための手法として「あなたは不幸だから」というレッテルを貼られることに、わたしは我慢がならない。

こちらから相談を持ち掛けたのならともかく、わたしを知らない他人に「あなたは不幸なので信仰が必要です」「この信仰をしないなんて、あなたは不幸ですね」と言われること、無数の選択から選び作り上げてきたわたしの人生を、狭い視野でもって蔑まれるのは、とても不愉快だ。

それと大変似ている気持ちになるのが、他人から突然発せられる「恋しなよ~」「彼氏作りなよ~」「結婚まだなのー?」という親切ごかしな発言だろう。大きなお世話以上に大迷惑だ。

恋人がいないなんて不幸」と己の価値観で勝手に人をジャッジしようとする、了見が狭くたいへん失礼な行為だといい加減気づいてほしいが、もう彼ら彼女らはコアな信者で、恋人がいないということが即ち「不幸」に結びついてしまい、何を言っても憐れみの対象となってこちらの言葉など耳に入らない。

そのくせ自分は不満そうだったり、配偶者や恋人の悪口を言ってばかりだったりするので始末に負えず、また主体的でもないので、多くの場合知らず知らずのうちに商業恋愛マーケットの手下となっている。クリスマスや記念日、レジャーに大金を落とすいいカモだ。


少なくともわたしが知る限り、素晴らしいパートナーシップを築いている人は『彼らだけの幸せ』を手にしており、普遍的な在り方では幸福になれないことを知っているので、他人の恋愛にとやかく言わない。個人で、そしてふたりで、それぞれ幸せをつかむ努力を惜しんでいない。恋愛をしていれば幸せだとは少しも思ってもいないだろう。

疑いなく、多くのシングル男女が悔しくも「恋人いないなんて不幸攻撃」を日々受けているが、そういうときは「今のままで、じゅうぶん、幸せなので」と心からの笑顔で言い、実際それを言えるだけの愛情と投資を自分にかけてもらいたいと思う。一人でいても、いつか二人になることがあっても、幸福度が高くなるのは明確だ。

ニヤつきながら「あなたかわいそうね」とエセ親切面をしてくる輩には、実際心配なんて情はかけらもない。恋愛や結婚なしの幸福が考えられない、認めたくない、弱点を見つけて足を引っ張りたいとか、上位に立ちたいというのが動機だったりするので、一人でもいても遠慮なく「活き活きしていつも楽しそうで、幸せそう」であることが、最高のカウンターになる。

実際世の中には、不毛な恋愛の駆け引きよりも、気持ちのちぐはぐなままするセックスよりも、もっとずっと面白くて感動的で、気持ち良いことがたくさんある。


このnoteではさんざん書いているけれど、それが「自分で選んだこと、自分が信じること」ならそれでいい。けれどもしその考えが常識論や一般論から拾ったもので、さらに今の自分を不幸と感じるならば、きっとそれは良くない方向に進んでいるサインだ。自分の心に耳を澄ませ、選択をみつめなおしたほうがいいと思う。今まであたりまえと考えていたことを、疑うこと。自分の道を探すこと。同時にそれは、他人の本気の選択を重んじるということでもある。

つまり、一般論や「教え」を持ち出してかんたんに他人を軽んじる人は、自分自身のありかたにも心のどこかで疑いを持っているということだ。


それぞれの愛情のかたち

良いパートナー同士は、個人でも、ふたりとしても、幸せになる努力をしている。その結果、一般的な在り方でなく、変化し自分たちだけのパートナーシップを創り出すのだと思う。

愛情のありかたも、それぞれだ。

しかしわたしたちは、「恋愛とはこうでなければ」「愛情はこういうもの」「結婚とは」と、まるで生まれながらに与えられた教典でもあるかのようにひとつの正解を追ってしまいがちだ。そしてそれは、苦しみばかりを生むものだろう。

年頃の、才能と資力のある、美しい男女だけが愛を語れるのだと、心のどこかで思いこんではいないだろうか。


いいたとえどうかは微妙だけれど、他に思いつかなかったので、「自分の英語」の例で説明してみる。

世界には英語を話す人が約17.5億人いるそうだ。そのうち78%…13.6億人は非ネイティブで、英語を母語とし使うネイティブスピーカーは22%、3.9億人しかいない。(参考:世界人口約70億人のうち英語人口はどれくらい? 2015. 10.31閲覧)

いまや英語は多様に変化しており、日本人には日本人の英語、シンガポール人ならシンガポールの英語がある。そして英語圏でも、カナディアン、アメリカン、ブリティッシュイングリッシュと、色々な英語があるし、もっと言えばひとりひとりの英語があり、ひとつにまとめてイギリスに返すことはもはや不可能だ。そしてその本家のイギリス人と話しても、個人個人の英語、話し方はまったく違う。

表情、早さ、強弱、声の調子、言葉選び、簡単なことを難しく言う、単語をただ並べて話す、笑いを混ぜる…日本人が日本語で話しても話し方はそれぞれ違うように、言葉というのはじつは無限の個性を持つものだ。

日本人が英語を苦手であることのひとつに、「ひとつだけの正解、理想の英語を求めすぎる」ことがあると思う。英語はこういうふうに、アメリカ人がするように流暢にペラペ~ラしゃべらなければいけない、という完璧主義的な思い込み。

実際、そんなものはありえない。人間の個性と同じように、千、万、億の正解しかないのだ。ゆえに自分だけの表現方法、話し方、非言語コミュニケーション…「自分の英語」をみつけよう、ありもしない完璧を追求することや、それっぽく話すことをやめ、個性を出せるよう話し始めると、一気にプレッシャーと苦手意識は減るどころか楽しくなってくる。

それと同じで、「恋愛はこうだ」「結婚はこういうものでなければならない」と思って完璧な像を描いて自分に押し付けてしまうから、素晴らしいはずの個性や実情を押し殺し、不和に苦しむのではないかと思う。


型にはめようとしないで、自分の感じるものや持っているものを大切にすることこそ、ではないだろうか。自分がこれを愛と感じたのなら間違いなく愛情であろうし、それは男女間だけでなくても、性行為を伴わなくても、たしかに「在る」ものだ。恋人がいるから、結婚をしているから愛情深いというわけではなく、自分には自分の、ときに形容しがたい愛情の形がある。

わたしにも、いわゆる「恋人」とは言えなくてもお互いに愛情はたしかにある、とても大切な人がいる。他人に説明はできなくても、自分の気持ちと、相手から思ってもらっていることに少しの疑いもないし、この出会いと、長年ふたりでこういう特別な気持ちをじっくり育てられてきたことに、心から感謝をしている。人に理解されるか、一般にわかりやすいかどうかはどうでも良いことだ。


恋愛をしたいのか、結婚をしたいのか

恋愛教によって、人間の判断はにぶる。恋愛と結婚は別物だというが、30年以上を生きてきてやっと今その意味がわかってきた。

わたしはその道のスペシャリストではないけれど、目的達成のプロセスと考えるとわかりやすい。恋愛と結婚間で目的や手段を取り違えてしまうからこそ、この話題まわりで問題が多発するように見える。

恋愛は感情ベースの水もの、結婚は現実的な契約で、目的もそれぞれにたどり着くための手段も違う。このふたつを混ぜて一緒に考えてしまうのが悲劇のもとなのだと思う。

例えば、自分の結婚の条件に適う相手に対して、恋愛ベースのアプローチを仕掛けることは恐らくベストではない。年収の高い人や家柄、条件のいい人に対して、結婚したいと思う→「好きかも、恋かも」と(疑似的に)恋愛感情を作り出して自分をその気にさせ、肉体関係や駆け引きを利用するなどして、とりあえず相手を「恋人」にしてしまうこと。ありがちだけれど、自分にはその先の結婚が見えていても、相手にはまず性愛的感情からのスタートなので、あらためて結婚にあたっての自分の価値を見出してもらう、今さら「人として」自分を信用してもらう、視点を変更してもらうのは難しくなる。(ゆえにそこでよく使われるのがハローベイビー大作戦だ)

恋愛をしてそのあとは結婚をしたいという物語を勝手に仕立てることも、方法としてなくはないのだろうが、成功率は低いように見える。「自然に出会って恋をしてつきあって何年かして相手からプロポーズされる、する」というのは、不確定要素に頼りすぎていて、同じ価値観や目的を持っている相手でないと機能しない。だからこそ、「相手が○○してくれない」「わかってくれない」というフラストレーションを無駄に募らせることになるのだ。


結婚が「契約」であることをしっかり考えると、相手からもらえる以上に、自分が提供できるものをしっかりと把握し、示す必要がある。

「相手にこうしてもらいたい」だけでは、決して契約にならない。相手にとって長期的にメリットがあるということ、相手にないものを持っているということを自分も相手にも理解してもらわなければならず、この関係には必ず信頼が伴っていなければならない。自分と相手の大切な人生を、一時の情でなあなあにしてはいけない。「お見合いがうまくいきやすい」というのは、契約としてこの点をしっかし考え、じっくりと信頼や愛情を作っていけるからだろうと思う。

恋愛は超主観的で究極の妄想なので、信頼はあまり関係ないが、結婚は契約であり、「愛は永遠でないからこそ」感情を補完するために結ぶ公的な関係だ。相手からのリターンと信頼を得られるだけのことを、提供し続けなければいけない。相手を信じて受け容れ続けるための努力も要求される。

とくに女性は、ウェディングドレスやゴールという言葉に象徴されるように、結婚がまるでキラキラしているもののように洗脳されてきたけれど、「結婚したらもう何もしなくていいんだ」というのはまるで正反対の思考で、両者とも主体的に「自分を幸せにし続ける」努力や、相手との契約を果たすための責任は、むしろずっと必要になってくる。


種の存続のために恋愛感情があるという説がある。結婚や出産、子育ては人間にとって非常にハイリスクで普通だったら選択しないことだが、恋愛感情があると判断能力がマヒし、それを選ばずを得なくなってしまうのだそうだ。(参考:脳と戦争とナショナリズムの意外な関係 日経ビジネスオンライン 2015. 9月閲覧)

言われてみれば、判断能力がマヒしてしまった状態、恋愛トランス状態を好む人は世の中にかなりいる。恋したい、ドキドキしたい、相手を思って仕事が手につかなくなったり、嫉妬したり駆け引きをしたい…

それをただ楽しむならばそれでもいいけれど、その恋愛は恋愛だけで終わらせるほうがリスクが少ないと思う。もし上の学説のとおり判断力が鈍っている状態なのであれば、相手のことをよく見極めないまま、その不安定な関係を結婚という契約で留めようとすることには、ネガティブな要素が多いからだ。


いずれにしても、恋愛をしたいのか、結婚をしたいのかを考えることは重要だ。恋愛なら恋愛、結婚なら結婚という目的に集中して、どういうパートナーシップを築きたいか明確にすること。そのために自分にも相手にも誠実であること。

ドラマや小説のストーリーになぞらえたりせず、どうしたいか自分の心に聞き、それに応じて戦略をきっちり立てるほうが、余計な苦しみを体験しなくて済むし、自分や相手をだましたり、愛する人を巻き込んで傷つけることもないはずだ。


自分はどんな恋愛、結婚、パートナーシップを築けるだろうか?

恋愛、結婚という主題だったけれども、わたしはなにも結婚適齢期の男女のことだけを考えているわけではなくて、愛情の在り方が人それぞれであるように、パートナーシップの在り方も、人の数と同じだけあると思っている。「自分だけの愛のかたち」だ。

性別や色々な条件に関わらず、性的な交わりが含まれるとも限らず、人は人と関わることを求め、とくに特別な人と心から分かち合い、共に歩んでいけることに深い喜びを感じるのだろう。

だがいずれの場合も、人々は「こうでなければならない」「結婚というものは」「恋愛というものは」という実在しない強迫観念に縛られていることが多く、そのために存在しないものを無視したり、ありもしないことを信じて、自分や人を傷つけてしまう。特に恋愛がからむと、人は恐ろしいほど残酷に相手や自分を追い込んでいく。


ああ、結婚しなくちゃな… 恋愛しなくちゃな… と顔を曇らせるくらいなら、別のことに集中すべきだ。義務感でおこなってしまっては、巻き込まれた人も多大な迷惑をこうむる。

恋愛も結婚も義務ではないし、自分のあり方や魅力を台無しにしてしまうならば、しなくても良いと思う。

その代わり恋愛をしたい、結婚をしたい、パートナーが欲しいと心から思うのならば、「なぜそうしたいのか」「どうすれば達成できるか」その目的と目標を正面から見つめ、相手や自分を欺くことなしに達成を目指せばいい。

他の人の恋愛も、ドラマの中の結婚も、自分とは違う次元の話で、自分は「自分たちの愛情の形」を探していかなければ、誰かと一緒になる意味は極限まで薄れる。

自分が自分の物語を創るという覚悟がきっと、運命と言えるような素晴らしい関係を築くはずだし、わたしもそんな人が多くいる世の中に生きたい。


今回も読んで頂きありがとうございました。思ったより長くなってびっくりしました。

-おしらせ-

おおばやしは「人の才能や魅力を引き出す・活かす」をテーマに、コミュニケ―ション、クリエイティビティ、ウェルビーイング(より良く生きる)に関わるツール開発やサービス提供をフィンランドおよび日本でおこなっております。

次回来日する二月に、東京で、開発したゲームを使ったイベントを行います。(性別や職業等に関わらず、あたらしい友人や面白い人に出会ってもらう+自己発見のための催しです)

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おおばやし あや

フィンランドで起業、国家認定ソーシャルワーカー。現在日本で講師業をしています。 http://s-a-i.fi

ぼくたちよ、常識論を破壊せよ

「常識」と書いて”へんけん”と読む…「常識論」や「幸せテンプレート」に苦しむ私たちの心を、少しだけ楽にするために。
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