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だからわたしは、ひとりでいたいんだ

「ひとり」でいることについて、最近非常に思うところがあったので、再度この話題について書き留めたいと思う。(第一弾 / 第二弾

決して、わたし寂しくてかわいそうな人でしょ~と吹聴してまわりたい、ということではない。しかし、こどくこどく打ちすぎて、もうどんな意味の言葉だったかちょっとわからなくなってきた。

ともかく。やっぱり、人と最高に幸せに関われるようになるから、ひとりは最高だよ、という話を。


ひとり、と、ひとりじゃない、は、矛盾しない。


人は、ひとりだ。

人は、ひとりじゃない。


両方ともよく言われるが、どちらとも真実で、そしてこのふたつは矛盾しないと信じている。

数日前、わたしが二年以上かけ、ひとりでひたすら開発してきたコミュニケーションゲームを、あるクラウドファンディングで紹介させて頂いた。

大変ありがたくも、既にテスト使用を頂いていた、その業界ではとても有名で信頼のあるプロフェッショナルの方に、お薦めをして頂けたり、以前お世話になっていた会社の社長が、積極的にシェアをして下さったり、たくさんの友人知人が、よっしゃよっしゃと協力してくれたので、あれよあれよという間に、目標額を達成できた。

ひとりで創り上げてやる、と覚悟して、ただ執念で打ち込んできたら、ふと顔を上げたとき、手を差し伸べてくれる人たちがいた。

そのカードのパッケージ、ロゴ、デザインには、友人のデザイナーが、安い報酬で、しかもそのうち半分は、売上が出た後でOK…という破格の条件で、わたしのあらゆるこだわりに、辛抱強く、でも楽しみながら、つきあい続けてくれている。

Webサイトについても、以前いた会社の後輩が、私生活も波乱な中、多忙にも関わらず、業務のあとに時間を割き、(顔は見えないけれど)いつも嫌な顔ひとつせず、完全ボランティアで設置を手伝ってくれている。

他にも、言い出したら切りがないほど、ほんとうにたくさんの方々が、様々な形でわたしを支えてくれていて、この感謝、感動を言葉ではとてもいい尽くせない。


わたしは、ひとりだという認識がある。

でも、同時に、ひとりではなかった。


しかし、もしわたしが、孤独を恐れて他の人々に埋没し、こんなに「ひとり」でなかったら、わたしはきっと、ずっともっと絶望的に孤独だった。

言い換えると、本当の意味で人と繋がるには、孤独感と戦ってでも、自分と向き合い、つよくつよく、「個」であろうとし続けなければならないのだと、思う。


自分は、だれだ。

わたしはなんだ。

なにが望みだ。

なにをしたいんだ。


壮絶な孤独感の中で、幾度も幾度も自分に問いかけ、答えを探す。そして振り絞るように、その答えを「形」にして、世界に捨て身でぶつけなければならない。

それが、言葉、文章、絵、音楽、創造、あるいはビジネスなのだろうと思う。


見ろ、聞け、これがわたしだ!


最初は、だれも振り向いてくれない。でも、あきらめずに叫び続ける。

そうしたら、そのありさま、叫びに、反応し、共鳴をしてくれる人がいる。一億人に訴えかけても、届くのは100人くらいかもしれない、2人かもしれない。

でも、たしかに、応えてくれる人がある。そしてつながりがそこに生まれる。「わたし」が世界に存在する。

わたしひとりでは、何も成せない。

けれども、まずはじめにひとりで戦い続け、「形」を示さなければ、誰からも、何の助けも得られなかっただろう。見えない人、存在しないのと一緒だ。

「わたしは、こういう商品を作りたい。超作りたい。もう何十人とテストをしてきて、すごくいい手応えだった。ね、実際いいでしょ。次は実物を作る段だなんだ。今は十分なお金はないけど、絶対に還元する。だから、手伝ってほしい。というか、手伝って。あなたしかいないんだ、お願い」ちょっとイカれた目でわたしが必死に詰め寄らなければ、デザイナーの友人は、いくらプロトタイプを気に入ってくれたとはいえ、ここまで親身に協力してくれなかっただろうし、

今回のクラウドファンディングでも、何年も孤軍奮闘し、こちらで生き、学び、結果を得て、やっとある程度の「形」として見せられたからこそ、見ず知らずの方が答えて下さり、ご支援と、共感と、励ましの言葉を頂いているのだと思う。


だから、驚きとうれしさ、有難さ、人とつながった安心感と同時に、少し怖い。

人のあたたかみに触れるたび、褒めて頂くたび、自分の奥底から、声が聞こえる。ちやほやされて、思い上がるなよ、と。 わたしは孤独でい続けてこそ、価値を創造できるのだから。


わたしであることを、忘れるな。孤独を、努力を、忘れるな。


一次創造と二次創造

創造には、一次創造と二次創造がある、と思う。

  一次創造は、0から1を生み出すこと。

  二次創造は、1を∞…無限にしていくこと。


作曲家が、湧き上がる情熱に翻弄され、骨身を削り苦しみながらも、「無」からひとつの「有」…楽曲を生み出すのが一次創造なら、

演奏家たちがその楽譜のすばらしさに触発され、協働し、無限の音の色彩、エネルギーを持つ、ひとつのシンフォニーへと発展させるのが二次創造。


二次創造は、人の集団の中でおこることが多いけれど、

一次創造は、孤独の中からのみ生まれる、とわたしは思う。「草枕」で言うように、この世で生きるむずかしさに対面し、自分の弱さと向き合い、それでも、なんとかこの世で生きていくために、絵や詩、言葉をつむぐ。

「これがわたしなんだ」と、この世界に楔を打ち込むように。


今回、日本で支援を頂いた製品について、ケンブリッジ大学でピッチング(ビジネスアイデアのプレゼンテーションのようなもの)をしたときに、訳知り顔の審査員(そのへんの起業家)に言われたのは、

「これはいいね、すごくクレバーだね、でもきみのピッチには、チームメイトの紹介がないよ?ちゃんとみんなの紹介も入れたほうがいいよ~」

単独でアイデアをだし、ここまでひとりでやってきたということが、全く信じられないようだった。愛想笑いをしながら、ちがう、わかっていない、と思った。

わたしは、「仲間と楽しく、今はやりのスタートアップをしたいから」このアイデアを作ったわけではない。

わたしがこの世界で生きていくために、やっとの思いで創造したのがこれだった。そしてそれを、世界に広めなくてはいけなかった。それがたまたまビジネスの世界に合致しただけだ。

気の遠くなるほど何度も練り直し、反芻を繰り返し。

この商品は「コミュニケーション」を謳っているけれど、誰かと一緒では、絶対に0から1は生まれなかった。明確な意思を持った、祈りのようなものを秘めた、ここまでの形には、決してならなかった。


情熱、強い意志…0から1を生み出すのは、個人の狂おしいほどの熱なのだろうと思う。無から爆発が起き、宇宙が生まれたように。

だから夏目漱石は、芸術家を尊いと言った。(わたしが尊いかどうかは置いておいて)


そういえば、坂爪圭吾さんにお会いした時、期せず「あやさんの中には、興奮と熱狂が渦巻いていますね」と言っていただいた。

ともすれば、高温で燃える星のように、暴力のように、吹き荒れるわたしの中の熱の嵐に、気づかれたようで、「死なないでくださいね」と続けられて、どきっとし、苦笑いをした。

精いっぱい生きることと、死ぬことは、実はすごく近い。 自然界を見ても、草木、花、動物…それぞれが精いっぱいに今を生きているから、その一瞬一瞬にしかない輝きがある。明日この花はもう食いちぎられているか、枯れているかもしれない。この小鳥はもう、一時間後にはいないかもしれない。でも、精いっぱい生きて、鳴いている。せつない。だからこそ、美しい。

いつかは必ず失われてしまう危うさと、それでも今を咲き誇る潔い美しさと。ただ「咲いてればいいや」でなく、「生きてやる、咲いてやる!」という生命エネルギー。

死ぬことを考えることは、生きることをみつめることだ。今を懸命に生きることは、いつか来る死も受け入れる覚悟だ。

終わりを意識していないということは、経過点である今を、ただぼんやり過ごしているということなのじゃないか。そんなの、生きているって言わない。

死にそうな思いをして、でも畜生、負けるもんか、生きてやる!という思いでいなければ、本当に生きているなんて、言わないじゃないか。同じように世界と戦い続けている、尊い、ほんとうに素晴らしい人たちに、会えないじゃないか。

…話を戻して。


みんなとひとつになるための、ひとり

一次創造は孤独から生まれるけれど、二次創造にも孤独は潜んでいる。

ここにも、「ひとりであること」「ひとりではないということ」は、矛盾せず存在していると思う。

上の例で言えば、オーケストラ。作曲家が0から1を生み出し、指揮者や楽団、ときに観客という集団が1を∞にする。

演劇なら、舞台作家が0から1という台本を生み出し、演出家、役者、照明、音響…という集団が1を∞にする。

ビジネスでは、0から1がひとりから生み出されたのち、人事、開発、制作、営業、広報…という集団が1を∞にする。


二次創造をする集団では、メンバーそれぞれに、必ず、役割がある。オーケストラなら、コンサートマスター、バイオリン、チェロ、オーボエ、ティンパニー…というように。

個々の持っている力を相乗させ、大きなひとつのハーモニーとさせるのが集団の醍醐味であり、オーケストラだけれども、

この集団の、最大のポテンシャルを引き出すためにもっとも必要なのは、「みんなで一緒にいる」ときではなく、孤独な作業である「個人練習」だというのは、明白だろうと思う。


演劇でいえば、脚本を書くか、選び、公演日を決定し、スケジュール割りをし、役者を決め、スタッフを割り振るところから始まる。

打ち合わせはするし、横のつながりで連絡は取り合うけれども、基本は、それぞれの役割内で、真摯で地道な作業が繰り返される。

役者なら、基礎訓練、発声練習、セリフを覚え、役作り、稽古。

大道具であれば、舞台幅と高さを計算し、何場面あるのか、どんな装置を作ればよいか、設計し、ひたすら作る。

照明なら、演出と相談をしながら設計をし、どこにどの機材、どの色を配置し、何秒で色を切り替えるか計算し、劇場とも相談をする。


どれも作業自体は交わらず、それぞれの専門の、地道な努力こそが必要とされ、ただひとつの舞台公演を目指して、ひたすらに、おのれの役割に集中し、それを全うする。

全ての要素がはじめて重なるのは、ほとんどリハーサルや本番の時だけだ。割合でみれば、全体の1%にも満たない時間だと思う。

観客に見てもらう、この時のためだけに、それぞれが長い時間、孤独な作業に身を置く。他のセクションの人たちも、そうして役割に没頭していると信じて、疑うことなく。

そうして、公演が始まる直前にはじめて、関わった全員が円陣を組み、最後の仕事の健闘を誓い合う。このときの、熱狂と高揚、ひとつになる、団結の快感。幕が引くと、今度は、無上の喜びを、共に分かち合う。誰もが笑顔で、共に大きなことを成し遂げた達成感を味わう。死んでしまいそうなくらいの幸福、胸に湧き上がる、消せない熱。これらの一瞬のために、二次創造の場から離れられない人も多いだろう。


しかし、もし、ある役割を持った人が、自分の仕事を十分果たせないと、全体の品質が恐ろしく落ち、結末は悲惨なことになる。


10x10x10x10x10=100,000

10x10x10x10x3=30,000


これが二次創造の喜びに潜む、悲惨な恐ろしさだ。

それを知っているから、「良いものを作る集団」というのは、個々が自分の作業に非常にストイックだ。少しの妥協が、全体の質の暴落につながってしまう。

自分のエゴのためではなく、「みんなと、良いひとつのものを作りたいから」という信条のもとに、彼らはひとりになる。ひたすら努力する。気の遠くなるような、孤独な作業。

わたしは、ありがたくも、このような体験を若い時分にさせてもらい、身に沁みているので、孤独の価値を多少は知っているのだと思う。


より深く、喜びを持って、人と関わり合う…「ひとりでなくなる」には、ひたすら「ひとりになって」、自分の役割…自分にできることを、努力をし続けるしかない

そして、努力というのは、ひとりでしかできない。勉強、運動、創作、ものを書くこと、人とつきあう努力だってそうだ。努力はつらい。孤独になることだからだ。だから多くの人は努力を嫌がる、ひとりになりたくないから。


逆に言えば、

ひとりでいるときの生き方の質が、その人の人生を深めていく。

たとえば成功している起業家というのは、みなさんこうだ。華やかさに隠れ、なかなか気づかれないかもしれないけれど、誰もが「ひとりの時をおろそかにしない」「努力を惜しまない」し、「全力で人と会う」。

次に大切な人と会うときに、誇れる自分でいられるように。


わたしは、日常のちょっとした寂しさを恐れて馴れ合うよりも、こういう、覚悟のある、人とのかかわり方が大好きだ。

同じように努力している、遠くに離れている仲間と会った瞬間の、喜び、笑顔、時空を超えて魂が触れ合う感じが、とてもとても愛しい。

一緒にいられる時間は、ひとりでいる時間の何千分の一かもしれなくても、それでも、ひとりで努力し続けるつらさが吹き飛ぶくらい、楽しい。

時を忘れて話をして、美味しいものを食べて、「またね!」という最後の瞬間まで、最高に美しくて、せつなくて、大切だ。


だから、わたしは、ひとりであって、ひとりではない。

人と最高の状態で関わり合い、高め合う喜びのために、日々黙々と、準備をしているだけだ。

(そしてなにしろ最近は、つらさとつきあう方法や、自然に触れたり、ゆったりして、ひとりを楽しむ方法も身に着けたから、ほぼ無敵だ。)


自分で選び取り、多少の不便はあっても、今、このような生き方をさせてもらっていることを、心の底から幸せに思う。自分の全て、自分を取り巻く全てが、とてもとても大切で、いとおしい。


だからやっぱりわたしは、ひとりであり続けたい。



#エッセイ  

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