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世界のあいまいさを愛する


白か黒かに当てはめようとしないで、無数のグレーをそのまま認めたら、きっと人にも自分にも優しくなれるよ、という話。



時間、水や空気は必ず流れ、一度として同じ空模様はなく、いのちは生まれた瞬間から死に向かう。

この世に不変、完璧なものなどありはしないのに、人間はなぜか、それに白黒をつける…判断するのが大好きだ。


あいつは悪だ、善だ、アリだナシだ、やせているだ、太っているだ、

あの人は私より上だ、下だ、あれもう終わってるよね、だの

イケメンだ不細工だ、女としてありえない、だの

六大学以上でないと意味がないとか、ゆとり世代は使えないだとか。

いつでもどこでも、非常にせわしない。


まるで、豊かなグラデーションでいっぱいの高く広い空に、小さなフレームをあてがって、「これが世界だ」と懸命に思い込もうとしているかのようだ。

そして同時に、これらは間違いなく、自分や、誰かを傷つける。

そのままの世界と向き合う責任から逃げ、「みんな」の中に埋没するという、ほんの少しの安心感と引き換えに。


白と黒をつける…むやみに判断をすることの不自然さ


わたしたちは「ゆらぎ」の中に生きている。全てが移り変わり、変化し続けているからだ。

胎児のとき、すべての人間の性別は女であったし、魚のような形をしていた。

細胞は日々少しずつ死んでは生まれを繰り返し、約3ヶ月で全身入れ替わるという。「わたし」というものも、実はひどくあいまいだ。


かつて、就職をすれば一生安泰だと、世間から憧れられていた大企業は、今や悪徳組織として、人々にひどく恨まれている。

存命中にはあまり評価されなかった画家の絵は、彼の死後100年以上経って、140億という高値がつけられている。

流行は、追いかけた瞬間に廃れ、ほんの20年前の「美人」「美男」の基準すら、今とは異なる。


なにが正しくて、間違っているか、なにに価値があるのか。絶対的・永続的な社会的価値観などあり得ないのだから、それを信じようとすると、振り回され、混乱する。昨日褒めていたものを、今日は批判しなければならなくなる。

そんな、せわしなく変わる世間の「白黒ジャッジ」に振り回されず、安定した平和な心でいるためには、結局のところ、「いま、自分がそれをいいと思うかどうか」に尽きるのだと思う。それが、白と黒の間の無限にあるグレーの、1つのポイントであっても。

人は、自分の脳の感知する主観の世界に生きているのだから、それを自分で感じ取り、選ぶことこそが、尊いはずだ。


けれども実際、わたしたちはそれほどグレーを「自主的に選んでいない」。

自分の意見を言っているようで、誰かの意見や価値観をなぞっている』ことがとても多い。

たぶん、主観と客観、自分の価値観とまわりのそれを混ぜてしまって、ほんとうは自分はどう思っていたか、わからなくなってしまっているのだと思う。

心当たりはないだろうか。こんなフレーズ。

『常識的に考えて…』『一般論では…』『ネットの意見では…』『ふつうは…』『○○というものは▽▽であるべき、すべき』

これらを使うことで意見をした気になり、自分の頭で考えることを放棄してはいないだろうか。

それは本当に自分のきめた価値観なのか


性別の例で例えてみる。

性別には、まず「生物的・セックス」「社会的・ジェンダー」の二種類があると社会学では言われ、

さらにもうひとつ、「自覚的・ジェンダー」というのがある。


これらの、別の観点からの性別感覚が混じり合うと、特にこの三つの間に差があった時、人はとても混乱し、苦しむ。

特に、「自分が実際感じている性」を、「社会的にこうあるべき性」とすり替え、”自分はこうのはずだ” ”こうでなければいけない”と思いこもうとすることは、とてもとてもつらい。

個性を、自然にある自分というものを、自ら殺すようなものだからだ。


たとえば、生物学的に男性だし、見た目も男性で、社会的ジェンダーも男性として扱われているけれど、自覚的には性愛対象が男性だと感じている人。

生物学的に女性と男性が混じり合い、社会的には(便宜上)男性であるけれど、女性であるという自覚の要素が強い人。

男性の性別を持ち、見た目も男性だけれど、自覚ジェンダーは女性で、さらに性愛対象が女性の人。

彼らが、社会生活にむずかしさを感じているであろうことは想像に難くないし、抱える問題、苦しみはよほどのことだろうと思う。

このわたしですら、「女」であるということが、時々すごくつらい。このカテゴリーに求められるものと、自分の「自然」が、まったく合わないときがあるからだ。


ただそこに白と黒…「男」「女」という定義を置くだけで、わたしたちは、悩み、苦しみ、ときに差別を受け、死を選ぶこともある。

多様化する今の世で、社会的に男か、女か、どの人種か、なんの宗教か…で判断をするというのは、今後さらに大きな苦しみを産んでいく気がする。

だからせめて、自認…「わたしはこういう人間なんだ」と、自分だけは自らを絶対的に肯定できていなければ、生きていくことすら難しくなってしまう。

差別、偏見というのはたいてい、カテゴリーに対して起こる。

性別、人種、宗教、年齢、職業… きりがない。


男なら、家を持って一人前。

女なら、いい人とめぐり合って子どもを産むのが幸せ。

俺は男だから、それなりに出世して、いい嫁さん見つけて結婚して、子どもを作らないと。

もう三十だし、早く相手を見つけてどうにか結婚しないと、子どもを産めなくなる。

男なら、女なら、これぐらいできて当たり前。


でもそれらは、「自分」が、ほんとうに、心から望むことなんだろうか。

『自分の望み』を、『社会の一般』とすり替えて、これが幸せだと思いこんでいないだろうか。

そのへんに流布している『社会の常識』を、『自分の世界の望み』と差し替え、気づかぬうちに自分を苦しませていないだろうか。



人は、まず自分のために生きている。それが動かせない基本だ。

主観の世界に生き、自分の意志で、手足を動かして、己の望むことだけをしている。そういった個人の集まりが、自分の目的を達成しやすくするために、助け合い、サバイバルするために、社会を作る。


個人が先なのであって、人々の多様性が結果作る社会は、ゆえに時とともに自然と変化していくものだ。

社会に合わせて個人を変えるのではない。たくさんの個人が、協力し合って生きていくために、必要に応じて、集団を作る。

だから、わたしたちは、まず、自分の望みを知っていなければならない。本末転倒に、集団の犠牲になってはならない。犠牲になった結果待つものは、悲劇だ。

なぜか。あなたがたとえ、社会の「こうあるべき」枠にはまろうと、一生懸命になっても、誰もお礼なんて言わない、褒めてなんてくれない。あなたが「自主的に勝手に」やっていることだからだ。人はそれを、「あの人の望みはこうすることなんだ、それで幸せなんだ」と思う。

自分の心の声を無視して、無理に白黒に従属しても、得られるのは小さな安心感くらいで、結局、あなたはあなたの人生の責任の上に生きているのだから、何が起こっても、それは「自分の選んだことの結果」になってしまう。

自分の望みを犠牲にして、他の誰かや、社会の常識とやらのテンプレート通りに生きたとしても、誰も、決して、あなたの人生に責任なんか負ってくれない。失敗したって、あらたに「自己責任論」「落伍者」のテンプレートにはめられるだけ、それだけだ。


だったらそれなら、はじめから、「自分の価値観」の中に生きて、てめえの生き方に責任をとったほうが、色々なことに振り回されず、自分に腹を立てられるだけ、マシではないだろうか。

それでなければ、結局、思いの行きつくところをなくして、「ただ社会を恨む」、「自分の不幸を全て他人のせいにする」人間になってしまう。自分が望み、動きさえすれば、己の見る主観の世界は、いくらでも変えられるのに。

それが、「社会の価値観」と「自分の価値観」を混ぜてしまうことの悲劇だ。


まず自己肯定しなければ、社会なんて変えられない


あなたは…わたしたちは、

「女だけど子どもなんか別に産みたくない」と言ってもいいし、

「ずっとフリーターでいたい」と言ってもいいし、

「男性に生まれたけど、男が好きだ!」と言っても、

「働くとか特に興味ない!家を捨て旅して暮らしたい!」と言ってもいい。


口に出しても、人にはわかってもらえないかもしれない。でもそれでいい。人はみんな違う世界に生きているのだから。そもそも、自分の世界のことを、他人に理解されるわけがない。自分と他人の脳は別のものを考え、感知している。

世間と違う自分の価値観を「隠す」「黙っている」ことは、自分を守るため、ときに必要なことだと思う。

けれども、少なくとも、自分の世界、自分の心の中では、それを絶対に肯定するべきだ。


白でも黒でもない、俺はこうなんだ。でもこれが俺なんだー!


そうでないと、自分の世界の「自然」の秩序が乱れ、混乱でいっぱいになる。自分で自分を殺してしまう。

そしてもし、世の中が、「自己肯定」のできる、個性あふれた人間でいっぱいになったら、それに合わせて社会も住みやすく変化していくはずだ。

社会の「こうあるべき」という暗黙のプレッシャーと、自分のありのままのギャップに、傷つく人も減っていくはずだ。

社会は、人なのだから。


肯定された個性の集まりこそが、いい社会を作る。


そもそも皆それぞれ違うから、マイノリティなんか、いない


わたしには、「隠さない」「黙っていない」勇気ある友人がいる。とても魅力的で、人の痛みに敏感で、優しい、大切な友人だ。

自分がセクシャルマイノリティであること、男性に生まれながら、パートナーの男性を深く愛していることを、絶対的に肯定している。

人になんと言われようが、これが自分だと、いつも世界に挑んで、結果、たくさんの尊敬を勝ち取っている―もちろん、苦しみも。


セクシャルマイノリティについて、一緒に課題をしているとき、彼はふとこういった。

「書類を出すときに、(男)か(女)にチェックを入れる部分があるけど、あれがいやなんだよね。僕は男だけど、男性を愛しているし、女性に近い部分もある。人の持つ無限の個性を、たったふたつに切り分けるなんて、残酷だから、性別のことを聞かれたときは、こういうスケール(リッカートスケール)で答えられたらいいのにな、って思う」


□―□―□―□―□女


つまり、「男性」「女性」を両極として、その間の微妙なところを、「自覚ジェンダー」基準で選べればいいのに…というわけだ。5段階でも、7段階でもいい。


これを見て、わたしは、はっと気づいた。

こういうスケールがあったら、わたしは絶対に、右端(100%女性)、には印をつけない

わたしはもちろん、生物的セックス・社会的ジェンダーは女だけれど、改めて自覚ジェンダーを考えてみれば、こうだ。

男□―□―■―□―□女


仕事をしている時なんか、闘志モリモリなので、こうなったりもする。ちょっとしたおっさんだ。

男□―■―□―□―□女


実際、わたしは一見おだやかで人当たりはいいけれど、よく聞いたら毒舌でもあるし、炎の嵐のような暴力性も持っている。男性に惹かれたり、女性をかわいいと思ったり、この身の内に、たくさんのゆらぎがある。

でもそんな個性もひっくるめて、男性性と女性性の良さをそれぞれ持っているのが、わたしだ。白か黒になんてならなくていい。このあいまいさこそが、わたしの魅力だ。


だけれども実際、いわゆる「女性に対するテンプレート通りの口説かれ方」をすることがよくある。雑誌に載っているような、ありふれた使い古しの「女の落とし方」を仕掛けられて、それに気付いた時は、心底相手を殴り倒したくなる。

こいつは、わたしを見ていない。「女」というカテゴリーしか、見ていない。見るつもりもないんだな。なんてつまらない。本当に、腹が立つ。


逆に、女性のほうも、相手が男性とみると「男ならこういう落とし方が効くはずだ」と、まるで見当違いのテンプレート型を試す人はたくさんいる。

何も、全ての男性が、性的なことをいつでもウェルカムなわけではないし、同性愛者じゃなくても、ただ女性というものが本当に苦手な人もいる。自由を愛して、恋をするよりはひとりでいることを選ぶ人もいる。みんながみんな、家庭的でゆるふわでちょっとエロい女子が好きというわけではない。(わたしは好き)

「価値観のすり替え」を行うあまりに感性が盲目になり、今目の前にいる個人の、自然な魅力を感じ取れなくなっているから、アプローチの仕方をミスるのだ。

こうなるともう、本当に相手に惚れているかも疑わしい。

その相手のほうも、自分の「自然」を自分で気づかず、「男ならこうあるべき…」と無理をして、合コンやナンパに勤しむような人も、いるわけだけれど。そしてこんなふたりが組み合わさったら、型にはまっただけの空虚な、一生の茶番が始まってしまう。あとでそれに気づき、修正していくのは大変なことだ。

わたしは、「LGBTか、そうでないか(ノーマルか)」という分け方すら、一見理解のあるのようでいて、うまくないな、と思う。自然界には、ただありのまましかない。自然の妙に線引きをするだけ、無意味で、結果どちら側にも救いがない。


大きな意味では、全ての人が、さきほどの胎児のことも含め、たくさんの種類のゆらぎの中に生きていて、正常か異常かを分けるラインこそ不自然で、疑わしい。

そして社会的便宜上・無機質な区分けを、わざわざ意味づけして、個人の世界に引用することに、何の意味があるだろう。

さきほどのスケールをぜひやってみてほしい。厳密には、「男」「女」の間に無数のグレーがあり、みんなそれぞれ、違った自覚ジェンダーの色を持っているはずで、それこそが愛すべき個性なのだ。

そして人々が世界のあいまいさを愛すれば、社会は変わる。「男」「女」という区分けすら、なくなっていくかもしれない。必要ないものになるから。


わたしは、ピンク色を着こなせる男性をとても素敵だと思うし、

パンツスーツでも、スカートでも、似合うものを着こなしている女性に憧れるし、

父親(もとお堅い職業)が食後に「スィーツがないな、スィーツが」と要求する姿をかわいく思うし、

逆に、その人らしさと女性らしさ、男性らしさがマッチングしているのを見るのも、好きだ。どれも、自然で、ありのままであるからだ。


「こうであるべき」という白黒の価値観を取り払って、その人を見ると、美しいグラデーションの個性の妙に、はっと心を惹かれることがたくさんある。


空の広さ、深さ、さまざまに現れる色の混ざり具合の妙を、ゆらぎや曖昧さを、わたしたちは本来、美しいと思っているのではないだろうか。

ただの一色ではなく、朝焼けの、ピンク色と黄色が混ざっている部分を、昼の空の、一面の青に雲がにじんでいるのを、

もう二度とみられないような、自然と偶然が作り出した、決して人の手でははかれないものを。


自分の心の中ではせめて、その空を切り取るような、フレームをあてはめるようなことを、するべきではないと思う。

世界の美しさを、無限の色を、人を、自分を、そのまま感じ取るために。

「あなた」はなにを思いますか


繰り返して言いたい、「自分はこう思う」ことと、「社会的にこうでなければいけないこと」は、まったく別次元のものだ。その上、「こうでなければならない」は多くの場合、思い込みや、まやかしだ。


まず「自分はこう思う」というたくさんの人がいて、その集合体が社会を作る。逆はない。

そして、「社会的な正しさ」は、残酷なほど変化する。戦中、戦後の日本のように。地震の前後で変わった、我々の価値観のように。

個人が迷うほど、社会も迷走する。今の日本のように。


それらの不安定なものに振り回されず、不必要につらい思いをせず、自分の不幸を社会のせいにすることなく生きるためには、

自分の目で見て、今、頭で考え、あてがっていた「自分のものではない」価値観を、狭いフレームを、取っ払わなければならない。

そういう人間こそが、結局なにがあったとしても、自分の足で、強く生きていける。「自分だけの幸せ論」にたどりつける。


「常識的にこう…」「社会的にこう…」と、そのへんの紙屑のように転がっているつまらない価値観を、あたかも自分が考えたことのようにすり替えて、楽をするのではでなく、

『わたしは』こう思う、『自分は』『僕は』こう感じる、と、主観で話し、責任を持つこと。

ものごとを、ありのままに見て、白と黒の間の無数のグレーの中に、自分が惹かれる箇所を見つけ、それを「自分はこれが好きだ」と言ってみること。そう思う自分を、いつでも信じること。


そうしたら、らくになる。

無数のグラデーションにあふれた、人や、世界の、自分の、美しさに気づくことができる。優しくなれる。


そんな人たちが、やがて作るやさしい社会に、わたしは生きたい。



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