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【源 兼綱】八幡太郎の如しと言われた武士

源 兼綱 【みなもと-の-かねつな】(?~治承4年〔1180年〕)

源兼綱は平安時代末期の武士で、父は摂津源氏せっつげんじ・源頼行よりゆき(頼政の弟)になります。

ところが、父・頼行が保元ほうげん2年(1157年)に都でみだりに軍勢を催した罪で流刑に処されてしまい、配流先へ向かう途中、護送していた送領使を殺害して自らも命を絶ってしまったため、以降兼綱は伯父の頼政に養育されることとなりました。

官職は検非違使少尉けびいしのしょうじょう(※1)、左衛門尉さえもんのじょう(※2)(兼任)を務めており、位階は左衛門尉が六位相当の職になるのですが、従五位下まで昇進していたということで、武士の身分としては高い諸大夫しょたいふクラスの京武者(都で活動する武士)の一員として活躍していたようです。

ちなみに、兼綱のように検非違使尉けびいしのじょうを務めて五位の位階を持った人のことを「判官はんがん」と呼んだりします。また、検非違使尉や検非違使佐けびいしのすけ(※1)を「廷尉ていい」という呼ぶことがあります。これは唐名からなといって、中国王朝でその職にあたる役職の呼び方を輸入してきたものです。他にも太政大臣だいじょうだいじん相国しょうこくと呼んだり、中納言ちゅうなごん黄門こうもんと呼んだりします。

さてその後、治承4年(1180年)の以仁王もちひと-おうの乱では養父・頼政よりまさや義兄・仲綱なかつならとともに以仁王方として参戦しました。

当初は検非違使として以仁王の逮捕に赴いたようですが、その後園城寺おんじょうじ(三井寺)にいる養父・源頼政のもとへ向かい以仁王軍に加わりました。

宇治平等院の戦いでは九条兼実くじょうかねざねの日記『玉葉ぎょくよう』に、

兼綱の矢前やさきのがるる者無し。あたかも八幡太郎(源義家よしいえ)のごとし”

『玉葉』治承4年(1180年)5月26日条より

と記録されるほどの奮闘ぶりを見せましたが、衆寡敵せず藤原忠綱ふじわらのただつなの手勢によってあえなく討死し、その生涯を終えたようです(『平家物語』)。


注)
※1・・・検非違使は令外官りょうげのかん(律令制定後に設けられた官職)で都の治安維持を司る役職です。その役所である検非違使庁は宮城の諸門を守衛、開閉を司る衛門府内に置かれました。検非違使の長官かみ(1等官)が検非違使別当べっとう。次官がすけ(2等官)、3等官がじょう、4等官が志《さかん》になります。
※2・・・左衛門尉は左衛門府の3等官。ちなみに長官は督、次官が佐。

(参考)
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 ニ』 勉誠出版 2004年
水原 一 考定 『新定 源平盛衰記 第二巻』 新人物往来社 1988年
黒板勝美編 『新訂増補 国史大系 (普及版) 吾妻鏡 第一』 吉川弘文館 1968年
安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』 新人物往来社 1990年

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