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【一来・覚尊・鏡鑁】 以仁王の乱に登場する寺法師たち(1)

寺法師とは?

寺法師とは園城寺(三井寺)の衆徒しゅとのことを指します。

衆徒というのは、大きな寺に住む身分の低い僧侶のことで、他に堂衆とか僧徒などとも呼ばれます。学問や修行をはじめお寺の庶務などを行うなどして寺の運営維持にあたっていました。
この治承・寿永の乱では義経配下の武蔵坊弁慶が最も有名です。彼らは現代のお坊さんからは想像し難いですが、自らの寺や自身の利権を守るために戦うことを煽動したり、武器を取って実際に戦闘へ加わったりすることもあるような坊さんたちなのです(武闘派の衆徒は“悪僧”とも呼ばれました)。

"僧兵"という言い方もありますが、この言葉は江戸時代以降に使われた言葉で、平安時代末期は使われていない言葉でした。

ちなみに、園城寺(三井寺)衆徒を寺法師と呼ぶのに対応して、延暦寺衆徒は山法師やまほうし興福寺こうふくじ・東大寺衆徒(南都大衆だいしゅとも)は奈良法師と言います。

とりわけ山法師は白河上皇しらかわじょうこう天下三不如意てんかさんふにょいとして有名な“賀茂河かもがわの水、双六すごろくさい、山法師、これぞわが心にかなわぬもの”というフレーズにも登場するように当時の為政者にとってはかなり厄介な存在だったようです。

ということで、『平家物語』に語られる寺法師の面々を紹介したいと思います。

一来 【いちらい】(?~治承4年〔1180年〕?)

『平家物語』に登場する平安末期の園城寺おんじょうじ衆徒しゅとの一人です。
物語では宇治平等院の戦いにおいて、橋板の外された宇治橋を渡河しようとする平家の軍勢を相手に、持前の身軽さを活かして橋桁の上を跳ね飛び回りながら奮戦した僧兵として描かれています。京都の祇園祭で引き回される山鉾のひとつ「浄妙山」では、一来が先に平家軍相手に奮戦していた浄妙明秀じょうみょうめいしゅうの頭上を飛び越える場面が再現されています。

橋板のない宇治橋にて浄妙明秀の頭上を飛び越える一来
林原美術館 蔵『平家物語絵巻』「橋合戦」より

覚尊 【かくそん】(?~治承4年〔1180年〕)

平安末期の園城寺衆徒しゅとで、通称は「讃岐さぬき阿闍梨あじゃり」。
長門本ながとぼん平家物語』の「宮討たるるおん事」に登場する僧で、源頼政よりまさから秘蔵の馬である油鹿毛あぶらかげを与えられ、それに騎乗して南都なんと(奈良)へ落ち延びる以仁王もちひとおうに付き添いました。光明山寺こうみょうせんじの前で平家方の飛騨判官ひだのほうがん(藤原景高かげたか)の手勢に追いつかれた際には、すでに遠矢を射られて意識のない以仁王を守るため、景高の手勢を相手に他の寺法師らとともに奮戦しました。しかし、多勢に無勢、膝節を射られて戦うことができなくなると、腹をかき切り、腸を繰り出すという壮絶な自害をしてみせ、「やがて御供に参るぞ」と以仁王をかばうように倒れたといいます。

鏡鑁 【きょうばん】(生没年不詳)

『延慶本平家物語』に法輪院ほうりんいんの鏡鑁として登場する平安末期の園城寺衆徒です。通称は荒土佐あたとさ。あだ名は雷房いかづちぼうと呼ばれていたそうです。
『延慶本』によれば、鏡鑁は36町(約3.9km)先の者を呼び驚かすことができるくらいの声量の持ち主で、宇治平等院の戦いではその持ち前の大声で、なかなか宇治川を渡れずに躊躇している平家の軍勢を挑発したといいます。
そして、この鏡鑁の挑発で味方の士気が衰えるのを憂慮した平家方の将・平知盛とももりが何としても渡河するように下知。平家は再び攻勢を強めて戦局が動くことになります。

(参考)
松尾葦江編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 ニ』 勉誠出版 2004年

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