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【甲斐国】2つある源義清館跡伝承地(義清神社、義清塚、甲斐源氏発祥の碑)

今回ご紹介する史跡は甲斐源氏の礎を築いた源義清みなもとのよしきよに関連する旧跡です。以前、お話しさせていただいた「甲斐源氏のはじまり〔甲斐源氏 vol.2〕」の現場ということになります。


源義清は天承てんしょう1年(1131年)ごろ常陸国を追われて甲斐国市河庄いちかわのしょうへとやってきましたが、その時住み着いた場所とされる場所が2か所あります。

まず、その一つがこちら。
山梨県中巨摩郡なかこまぐん昭和町しょうわちょう西条さいじょうにある義清神社です。

この義清神社、かつては義清の館があった場所とされていて、今ではほとんど館があったような感じではなくなってるんですが、発掘調査したところ、神社の境内の南端に規模の小さい土塁状の遺構が見つかり、土師器土器片などが出土したようです。

まぁ、このあたりはかつて暴れ川だった釜無川かまなしがわ笛吹川ふえふきがわ支流が近くを流れているので、長い年月の間に度重なる洪水でだいぶ地形が変更されてしまい、遺構も遺物も消失または流出してしまったのかもしれません。。。

現在建つこの義清神社はどこにでもありそうな近所の神社って感じで、アットホームな雰囲気を醸し出していました。きっとこの町内の方々の憩いの場所になってるんでしょうね。

私もなぜか居心地が良くて、もう少し時間があれば境内にある東屋で、しばらくのんびりしてたかったんですが、日暮れまでに家に帰らなければならなかったこともあって、足早に次の目的地へ向かわなければならないのが残念でした。
(ここへ来る前に訪れた史跡で大幅に時間をロスしたのも原因でした・・・)

この義清神社がよくある近所の神社と違うのは、このような石碑があることでしょうか。石碑には「甲斐源氏祖御旧迹」と刻まれております。

こちらが社殿。どうしても薄暗い感じになってしまい見づらくてすみません。小さいながらもしっかりとした造りの立派な社殿に見えました。

神社の境内の南にあるお堀?これが館跡の雰囲気を出してるかな?
(他のサイトでは水堀の遺構と書かれていましたが、もし遺構だとしても義清がいたころの遺構ではない後世につくられたものだと思います)

こちらは義清神社から北西へ100mほど離れた場所にある「義清塚」と呼ばれる墳墓です。なんだか古墳のようですが、ここに義清が眠っているそうです。

って、ごめんなさい。思いっきり逆光です。少し日が陰るのを待ったのですが、時間が…。もういいや!って撮ってしまいました。
で、でも・・・、なんか後光が差しているような感じしませんか・・・?
・・・しないですよね…見づらい写真で残念です・・・(´;ω;`)ウゥゥ

義清神社境内にあった案内板


続いてこちらは山梨県西八代やつしろ市川三郷町いちかわみさとちょうにある熊野神社です。

鳥居の鮮やかな赤が目を引きます^^
熊野神社本殿

こちらの神社は平塩岡ひらしおおかと呼ばれる場所に建っており、ここもまた源義清が地元の豪族・市河氏の庇護のもと住んだ地と伝わります。
そのため、この神社の境内にはこのような記念碑が建っています。

こちらの碑は「甲斐源氏旧跡碑」になります。立っていた案内板によれば、明治18年に西八代郡長の依田孝氏らによって建てられた記念碑で、碑に刻まれている揮毫は三条実美さねとみ(江戸末期の公卿、明治期の政治家)によるものなんだそうです。

この甲斐源氏旧跡碑の建つあたりが源義清館跡と比定されているようですが、辺りを見回しても少し小高い丘のようになっているだけで、館跡をしめすような遺構は見受けられませんでした。

このあたりは発掘調査とかしたのでしょうか?
付近に建つ他の案内板を見ても特にその辺は書いてなかったのでしてないのかもしれません。。。


ということで、今回の史跡案内は以上です。ちょっと時間に追われての訪問だったので、あんまりよくは見て回れませんでしたが、また訪れた際にはもう少し付近の散策もしてみたいと思います。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。


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