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【鎌倉党 vol.4】 鎌倉党の勢力拡大と分裂

大庭御厨の分割相続

下総国しもうさのくに相馬御厨そうまみくりやの騒動に介入したり、大庭御厨おおばのみくりやの乱入事件を引き起こしたりした義朝よしとも(頼朝の父)。彼はやがて都へ戻って鳥羽上皇(法皇)の信任を得、都の武士としての地位を高めていきました。そして、これまで自分が本拠を置いていた鎌倉の邸宅(鎌倉楯)には長子である義平よしひらを住まわせて、引き続き坂東へと睨みを利かせることで、先祖である源頼義よりよし義家よしいえ(八幡太郎)の時代のような威勢を取り戻しつつありました。

そうした状況の12世紀半ば頃(1150年前後)、大庭御厨の下司げしであった大庭景宗おおばかげむねが死没。彼の所領は息子たちに分割相続されました。

まず大庭御厨下司職として大庭氏の家督を継承したのは三郎・景親かげちか。そして、大庭御厨内の懐島郷ふところじまごう茅ヶ崎ちがさき市懐島)は平太・景義かげよし(景能とも)が、大住郡おおすみぐん豊田庄とよだのしょう(平塚市豊田本郷)は四郎・景俊かげとしが、大庭御厨内の俣野郷またのごう(横浜市戸塚区俣野町)は五郎・景久かげひさが相続し、それぞれの所領名を名字としました。

本来なら長子の景義が御厨下司職と家督を継承してもよいところなんですが、なぜ景親が家督を継いだのかはっきりしません。

跡目相続は母親の出身の身分や家柄などが大きく影響すると言われますが、残念ながら景親も景義も母親がはっきり断定できていないので何とも言えない状況です。

ちなみに、『保元物語(※1)』の「白河殿攻め落とす事」には、この時期兄弟が仲違いをしていたことが記されており、その中で景義は景親を「不忠の者」として疑念をいだいていたとあります。なぜ兄弟が仲違いをしていたのかまでは記されていないですが、この仲違いの原因を兄弟間の所領争い、もしくは長男でありながら家督を継げなかった景義の一方的な恨みなどとする見方があります(野口実『坂東武士団と鎌倉』戎光祥出版 2013年)。


大庭景親の勢力伸長

さて、源義朝の南坂東における覇権もそう長くは続きませんでした。

それというのも、平治へいじ1年(1159年)の平治の乱によって源義朝は敗死、一転して逆賊の汚名を着ることになってしまったのです。

この影響は遠く離れた坂東の地にも波及し、これまで義朝と親しく、平治の乱で義朝軍に加わっていた三浦氏や上総氏といった武士たちも謀叛人へ加担したということで、坂東における地位の低下は避けられなくなりました。
その一方で、平治の乱に参戦していなかった坂東の武士は相対的に地位を高めていったのです。そして、鎌倉党を代表する大庭氏も平治の乱に参戦していなかったことから、相模国内での地位を高めていくことになっていき、それに乗ずるように、大庭景親は中央政界で重きをなしていくようになっていった平家(伊勢平氏六波羅流)への接近を図ります。

景親が平家へどのように接近していったかは詳しくはわかりませんが、『平家物語』(延慶本・長門本・覚一本・高野本などなど)には大庭景親が清盛に馬を献上し、清盛がその馬を「望月もちづき」と名づけて大変かわいがったという話が見え、さらに『源平盛衰記』巻二十「佐殿・大場(大庭)勢汰せいぞろへの事」には景親の言葉として、

「源氏は先祖代々の主でいらっしゃるので、当然参るべきではあるが、先年捕らわれの身となってとうに切られているものを、平家に罪をお許しいただいて、その恩は山のようである。また私は東国の御後見をしており、妻子を養うことをどうにかして忘れて奉公させていただかなければならないから、平家方へこそ〔参る〕」

「源氏は重代の主にておはしませば、もっとも参るべきなれども、一年ひととせめしうどになりて既に斬らるべかりしを、平家になだめられ奉りて、その恩山のごとし。また東国の御後見おんうしろみし、妻子を養ふ事もいかでか忘れ奉るべきなれば、平家へこそ」

というのがあり、『延慶本平家物語』には北条時政が言ったこととして、“(景親は)当時平家の大御恩者”という記述がなされてることからも、景親と清盛は急速に親交を深めていったことがうかがわれます。

これは以前、治承・寿永の乱のvol.14でもお話しさせていただいたことですが、先ほどの『源平盛衰記』で景親の言葉の中にあった「東国の御後見」について、中世史家の野口実先生は、平家政権のもとで坂東武士団の統括を担当する坂東八ヶ国の侍奉行であった藤原忠清ただきよ(平家累代の家人)を補佐する役割のもので、景親はとりわけ相模国の統率者、のちの鎌倉政権で言う守護のような役割を果たしていたとし、これまで相模国衙で警察・軍事的機能を担っていたと思われる三浦氏・中村氏からその権限を奪って、景親がその権限を振るったと考察されています(※2)。

確かに『平家物語』や『吾妻鏡』、『玉葉ぎょくよう』や『保暦間記ほうりゃくかんき』には度々大庭景親が平家から東国の情勢や仕置を申し渡されていることが記されています。

例えば、『吾妻鏡』の治承四年八月九日条には、東国で謀叛の動きがあることを長田入道(系譜、経歴ともに不詳)という者が通報してきた件について藤原忠清が景親に諮問していることが記されていたり、『保暦間記ほうりゃくかんき』には東国に謀叛が起こることを予知した清盛が急いで唯一東国にいた上総広常かずさひろつねの召喚を景親に命じたことが記されていたり、『玉葉ぎょくよう』の治承4年9月11日条には、清盛が景親に以仁王の乱に加担した源仲綱の東国にいる子息の討滅を命じたことが記されていたりと、景親が平家政権のもとで東国における重要な役割を果たしていたことがうかがわれます。

さらに、大庭景親が石橋山の戦いの際に相模国の有力武士である波多野氏や渋谷氏、それに隣国・武蔵国の武士をも糾合して3000余騎という軍勢を整えたことや、秩父平氏(畠山氏、河越氏、江戸氏など)が景親に示し合わせるかのように三浦氏攻撃に動いたのも、景親のこうした役割あってこそのものと言えそうです。

こうして平家が権勢を誇っていくにつれて、大庭景親個人の力も高まっていき、それにともなって大庭氏はもちろんのこと、鎌倉党の諸氏もようやく政治的安定を得て勢力を伸ばし、ついに鎌倉党は坂東を代表する武士団の一つとして屈指の勢力を持つようになっていきました。

下の地図は石橋山の戦い直前の鎌倉党諸氏の割拠図です。
この頃になると大庭御厨も天養の頃とは違い、安定した運営が行われていたようです。

鎌倉党の分裂

しかし、この景親の急激な勢力伸張はかねてよりライバル関係にあった三浦氏や中村氏(土肥氏)だけでなく、同族であるはずの鎌倉党の他氏をも圧迫するようになっていったようなのです。

言ってしまえば、治承じしょう三年の政変(1179年)で平家が朝廷を掌握するようになった直後の頃が鎌倉党全盛期である一方で、分裂崩壊の始まりの時期でもあったのです。

そして、治承4年8月に頼朝が伊豆で挙兵すると、鎌倉党の分裂はいよいよ表面化します。鎌倉党の大庭景義、豊田景俊、長江義景ながえよしかげといった面々が景親の軍勢に加わらず、頼朝方となって景親に敵対したのです。

大庭景義は景親の兄で、先ほどもちらとお話したように、かねてより両者は家督や所領をめぐって折り合いが悪かった可能性があり、それがために敵対したものと理解できるのですが、景親の弟・豊田景俊までもが敵対しています。豊田景俊は大庭御厨の西、相模川を挟んだ豊田庄を本拠としていて、そこには大庭兄弟の父・景宗の墳墓がありました。なぜ景俊が景親と敵対したのか不明ですが、やはり景親の勢力伸張が景俊を何らかの形で圧迫していたのかもしれません。

そして、長江義景は鎌倉景政を祖とする武士でしたが、三浦半島の付け根にある葉山郷長江(三浦郡葉山町長柄)に住み、義景の妹が三浦義明の長子・杉本義宗すぎもとよしむね(和田義盛の父)に嫁いでいるなどの婚姻関係もあってか、三浦氏との繋がりが強く、そのため三浦一族と行動を共にしたようです(なので、彼は鎌倉党というより三浦党に属する人物と言ってもいいかもしれません)。

余談ですが、鎌倉党の梶原景時かじわらかげときは石橋山で大庭景親に味方していますが、箱根山中での落ち武者狩りの際に彼が頼朝ら一行を見逃したという話が本当ならば、景時にも何か思うところがあったのかもしれませんね。

なお、『源平盛衰記』には大庭兄弟たちの敵対について、景親と景義が話し合って、平家と源家とそれぞれ味方につき、負けた方は勝った方を頼るという一族の延命を図ったような話を載せていますが、これについて、当時の武士団は兄弟といってもそれぞれ独立した生活を行っていて、兄弟すべてが一致団結して何か一つのことに取り組むのは彼らの父親の指示(教令権)があってこそという見方から、否定的な意見も出されています(※3)。


ということで、以上鎌倉党の勢力拡大と分裂についてお話ししてきましたが、このあとの展開は治承・寿永の乱の方でお話しさせていただいた通りです。

石橋山で頼朝に勝利した大庭景親勢でしたが、その後頼朝を取り逃がして残党狩りには失敗。房総三国や武蔵国を回って大勢力となった頼朝を前になす術もなく、河村山に逃亡しますが、東国鎮圧のため下向してきた平家本軍が富士川で敗退するに及んで万事休す。景親等はやむなく頼朝に降伏し、治承4年(1180年)10月26日、固瀬川かたせがわ(片瀬川もしくは境川)のほとりで景親は斬首されます。こうして一時相模国で強盛を誇るまでになった鎌倉党は徐々に衰退へと向かっていきました。


註)
※1・・・保元物語の景義と景親の仲違いに関するくだりは、『保元物語』の金毘羅本系といわれるものに書かれています。小学館の『新編日本古典文学全集』は金毘羅本系の陽明文庫蔵本(陽明乙本)が底本となっていて、このくだりが載っていますが、岩波書店の『新日本古典文学大系』は底本が半井本系統の内閣文庫蔵本となっているため、このくだりはありません。一般的に半井本系の方が古態を残していると言われています。
※2・・・高橋秀樹先生は当時三浦氏が相模国衙の軍事警察権を持っていたのは疑問であるとし、中村氏がその軍事警察権を有していた可能性が高いとして、三浦氏は裁判や軍事・警察以外の様々な実務の権限を持っていたと考察されています。
※3・・・野口実『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年ほか

(参考)
野口実 『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年
野口実 『源氏と坂東武士』歴史文化ライブラリー234 吉川弘文館 2009年
湯山学 『相模武士ー全系譜とその史蹟 ㊀鎌倉党』戎光祥出版 2010年
高橋秀樹 『三浦一族の中世』歴史文化ライブラリー400 吉川弘文館 2015年
関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2009年
栃木孝惟・日下力・益田宗・久保田淳 校注 『保元物語・平治物語・承久記』新日本古典文学大系43 第6刷 岩波書店 2004年
信太 周 犬井善壽ほか 校注・訳・注解 『将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語』新編日本文学全集 第1判第3刷 小学館 2008年

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