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【平井久重】 一時の戦功が身を滅ぼした?

今回の人物紹介は北条宗時ほうじょうむねときを討ち取ったとされる人物、平井久重ひらいひさしげ(小平井久重、紀久重きのひさしげ、平井紀六きろくとも)さんです。


平井紀六久重について

この方もまた史料も少ないため不明な点が多く、詳しいことはわかっていません。

『吾妻鏡』に載る「小平井の名主紀六久重」「平井紀六」という名前から、伊豆国田方郡たがたぐん平井郷(静岡県田方郡函南町かんなみちょう平井)が本拠であり、紀六という通称からは出自が紀氏である(紀六は紀氏の六郎と解釈できます)と想定できますが、これもそれらを裏付ける史料が残っているわけではありません。

このようにわからないことだらけの人物ですが、彼が登場する『吾妻鏡』の記事の紹介と現在伝わるエピソード(?)を紹介したいと思います。


『吾妻鏡』に登場する平井久重

久重が『吾妻鏡』に登場するのは全部で3か所あります。

一つは石橋山の戦い後の落武者狩りで久重が北条宗時を討ったことを伝える記事、治承じしょう4年8月24日条ですが、この記事の内容はこれまで治承・寿永の乱の話(vol.)や北条宗時の紹介記事で話をしていますので、今回は割愛させていただくとして、二つ目は久重が頼朝方の工藤景光くどうかげみつに捕らえられたときの記事、養和ようわ1年(治承5年/1181年)1月6日条です。

六日癸丑みずのとうし。工藤庄司しょうじ景光が平井紀六(久重)を生け捕った。これは去年八月の早河はやかわ合戦(石橋山の戦い)の時に北条三郎(宗時)を殺害した者であるが、武衛(頼朝)が鎌倉にお入りになった後、紀六は逐電してしまい行方知れずになっていたので、駿河国・伊豆国・相模国の者たちに紀六を探すようお命じになっていたところ、相模国蓑毛みのげあたりで景光が捕えた。景光は連行してまず北条殿(時政)のもとへ参り、すぐに事の次第を武衛ぶえ(頼朝)に申し上げた。そして紀六は和田義盛のもとにお預けとなった。ただし、むやみにさらし首にしてはならないと頼朝からのお達しがあった。問いただしたところ、紀六は宗時を討ったことは認めたという。

(読み下し)六日癸丑。工藤庄司景光平井紀六を生け取る。これ去年八月早河合戦の時、北条三郎主を害す者なり。しかるに武衛鎌倉入御の後、紀六逐電す。行方知らざるの間、駿河伊豆相模等の輩に仰せて、捜し求めらるの処、相模国蓑毛辺に於いて景光これを獲る。相具あいぐして北条殿に参じ、すなわち事の由を武衛に申さる。|仍つて(和田)義盛に召し預けられおわんぬ。但し左右さう無く梟首きょうしゅすべからざるの旨これを仰せ付けらる。糺問きゅうもんの処、所犯しょはんいては承伏しょうふくせしむと云々。

『吾妻鏡』養和元年一月六日条より

相模国の蓑毛というところは、現在の神奈川県秦野はだの蓑毛みのげ付近と比定されています。

それにしても、なぜ久重はそんなところに潜伏していたのでしょうか。西国方面に逃げるならまだしも頼朝の勢力圏内である相模国内になぜいたのか、よくわかりませんね(蓑毛は隠れ里になりそうな山間部ではあるんですが・・・)。

その辺がわかってくると、久重の人脈などが見えてくるかもしれませんね。

そして三つ目が養和1年(治承5年/1181年)4月19日条になります。

十九日甲子きのえね。腰越浜の辺で囚人平井紀六がさらし首となった。これは北条三郎(宗時)を射た罪が軽くなかったので、日ごろ特に拘禁されていたものである。

(読み下し)十九日甲子。腰越浜の辺に於|いて、囚人平井紀六を梟首す。これ北条三郎主を射て、罪科かろまざるの間、日ごろことに禁じ置かるる所なり

石橋山の戦いで大庭方に付いた武士の中で、処刑されたのはこの久重と大庭景親おおばかげちか荻野季重おぎのすえしげ俊重とししげ)といったわずかな人たちで(※1)、大体は罪を許され御家人になっています。

久重を御家人に加えることは、北条氏がさすがに許さなかったというのでしょうか。例えば三浦義明みうらよしあきを討ち取った江戸重長えどしげながは三浦氏にしてみれば仇敵ですが、頼朝から許すように諭され、重長が御家人になることを三浦氏が承諾したのに比べても、久重の処分は重いように感じます。
(まぁ、久重と重長とでは勢力規模が違い過ぎるんですが…)


『伊豆鏡』に記される久重

ところで、久重が反頼朝の側についた理由が、江戸時代に書かれた『伊豆鏡』(※2)という書物に書かれているそうです。

『函南町誌』にあった抜粋部分をちょっと書き出してみます。

頼朝公流人たりし時、平井村名主紀六といふ者、北条村に来り四五人打集り、世間物語の次手ついでこの紀六頼朝公の御身のうへを散々といひちらしける、折節おりふし佐々木三郎盛綱もりつなありて、□□と出いやしき匹夫ひっぷの口より佐殿を誹謗する事、言語道断の曲者くせものすでに今一言可還かえるべしうち可捨すつべしト刀に手をかくれば、紀六はっとおもひあとへにちりて逃去りけるが、自レ是これより伊東入道に取入とりいり、頼朝公の御事をいろいろあしくこしらへざんしければ入道紀六が讒口を信じてつらく当り奉り、あまつさへ大場と一味同心して相伝の君に弓を引く事、運命トハいひながら、皆是紀六がねいよりぞ起りたると、後にぞくわしくあらわれたり

ちょっと読みづらいと思うので、簡単(?)にしてみるとこんな感じです。

頼朝が流人だった頃、平井紀六が頼朝の身の上を散々に悪く言ってたら、その話を聞く者の中にいた佐々木盛綱が怒って、身分の低い奴が佐殿(頼朝)のことを悪く言うとは、切って捨ててやる!って刀に手をかけたもんだから、紀六は驚いてその場を逃げ去ったことがあった。それからというもの紀六は伊東祐親に取り入って、頼朝のことを讒言し、祐親も紀六のそれを信じて頼朝につらく当り、ひいては大庭景親らと同心して相伝の君(頼朝)に弓を引いてしまった。運命とは言うけど、これらのことはみんな紀六のへつらいから起こったことであったと後になってわかったのである

この話をどう捉えるかですが、話の雰囲気からしてどうにも後世付会の感じがしてならないですね。

当時、伊東祐親いとうすけちかは伊豆国内で急速に台頭してきている勢力であり、紀六にとっては祐親との繋がりが深くて、ただそれに従ってただけというのが実情なんじゃないでしょうか。


おわりに

以上、平井紀六久重についてわかる範囲での事柄を羅列してみました。

特にまとめとして言えるようなことはないのですが、『函南町誌』の一文を抜粋しておこうと思います。

『伊豆鏡』に「運命とは言いながら」と記されているように一時の戦功も身を滅ぼす原因となったのである


まぁ、これは結果論…討った相手が悪かったとしか言いようがないというか…。
それでは今回も最後までお読みいただきありがとうございました。


平井久重 【ひらい-ひさしげ】(生年不詳~治承5年〔養和1年<7月改元>/1181年〕4月19日)

伊豆国の住人。通称は紀六。他に小平井久重、小草井久重、紀久重といった名前があります。出自や系譜は不明ながら紀氏の流れを汲む人物であったと推測され、もとは在地(地方)に下ってきた吏僚系の氏族だったと思われます。頼朝の挙兵に際しては伊東祐親の軍勢に加わって反頼朝方として戦い、石橋山の戦いでは北条宗時を討ち取るなどの働きをしました。

のちに頼朝方が勢力を巻き返して鎌倉へ入ると、形勢不利となった久重は逐電して身を隠していましたが、養和1年(1181年)1月6日、ついに頼朝方の工藤景光に相模国蓑毛(秦野市蓑毛)付近で捕えられ、同年4月19日に腰越の浜で梟首されました。

(注)
※1…伊東祐親に関しては罪一等を減じられ、娘婿の三浦義澄のもとへお預け処分となり、その後恩赦で許されることになりましたが、祐親自身がそれを潔しとせずに自害した事になっています(『吾妻鏡』寿永元年(治承六年/1182年)2月14日条)
※2…『函南町誌』によれば妻良(めら:南伊豆町)の医者・不白という者が著したものだそうですが、どうやらこの書物は刊行されていないらしく、『函南町誌』に抜粋されている部分しか内容がわかりませんでした。
西尾市岩瀬文庫所蔵の本に同名の伊豆国の地誌(写本)があり、これがこの本の写本であるかもしれません。なお、同じく江戸期に三島代官が伊豆国を統治する上で基本資料とした同名の書(別名:伊豆国鑑)があります。

(参考)
函南町誌編集委員会 編 『函南町誌』上巻 函南町 1974年

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