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【鎌倉 雪ノ下・小町(鶴岡八幡宮周辺)エリア(後編)】 久しぶりの鎌倉⑦ (2019.11.17)

(※この記事は過去にアメブロへ投稿した記事をほぼ転載しております)

鎌倉散策記事⑦。
今回は【鶴岡八幡宮周辺(雪ノ下・小町)エリア】の後編になります。
前回はこちら


畠山重忠邸址」の石碑よりそのまま南へ、鶴岡八幡宮境内の東端に沿っていくと、神奈川県道204号線(金沢鎌倉線・鎌倉時代は横大路)に出てくるので、それを横断、そのまま南に車一台がやっと通れるほどの路地へ入っていきます(車幅が広い車じゃ無理かも・・・)。

そして、狭い十字路に出てきたその角にこちらの石碑があります。

はい。鎌倉青年団の石碑、その11「若宮大路幕府旧蹟わかみやおおじばくふきゅうせき」です。

この石碑には幕府旧蹟とありますが、厳密には将軍(鎌倉殿)の御所旧蹟です。よってここは「若宮大路御所」とか「若宮御所」って呼ばれることもあります。ここが御所だったのは嘉禎かてい2年(1236年)~元弘げんこう3年(1333年)の滅亡までとされるので、実に98年の長きに渡ります。

ちなみに、嘉禎かてい2年(1236年)というと、もう鎌倉時代も中期に入ったあたりで、この頃の将軍(鎌倉殿)は第4代・藤原頼経ふじわらのよりつね(九条頼経とも)になります。

今となっては趣のある家々が立ち並ぶ静かな住宅街となっており、往時を偲ぶものは見当たりませんが、かつてはここで喜怒哀楽、様々なことがあったんでしょうね。


さて、この十字路をそのまま南へ直進、道なりに進んでいくと、清川病院裏の十字路に出てくるので、そこも直進していきます。そして、クランクを経てさらに路地を南へ。

もうここは車が通行できない狭さで、え?ほんとにこの道あってるよね・・・?と不安になるくらいです。

私はここで不安になってgoogleマップ開いて確認してしまいました。
(過去に何回も鎌倉歩きまわったのに、ほんとに久しぶりの鎌倉で道忘れちゃってます)

でも、目的地はもう少し進めばあったので、確認する必要ありませんでした。すぐに真っ赤な柵と「奉納 宇都宮稲荷大明神」と書かれた真っ赤な幟が見えてきます。(やっぱこの道で合ってたと安心)

はい。ここが次の目的地。鎌倉青年団の石碑もしっかりあります。
その12「宇都宮辻子うつのみやずし幕府旧蹟」です。

ご覧のように、今はお稲荷様が静かに鎮座ましましておりまする。

この宇都宮辻子幕府旧蹟は先ほどの若宮大路幕府旧蹟の場所に移る前の御所、第4代鎌倉殿(将軍)の藤原頼経の御所になります。ここも「幕府」とされていますが御所なので、宇都宮辻子御所宇都宮御所とも呼ばれています。

ここが御所だったのは、北条政子ほうじょうまさこ嘉禄かろく1年(1225年)に亡くなってから、嘉禎かてい2年(1236年)に若宮大路御所へ移るまでの11年間です。源氏三代(頼朝・頼家よりいえ実朝さねとも)の御所であった大倉おおくら御所からこちらに移転してきたのです。

以前、この鎌倉散策記事の④で、藤原頼経が方違かたたがえをするために、三浦義村みうらよしむらが源氏山に登って鎌倉の方位をあらためて確認したという話をしましたが、それは頼経がここへ移る際のことでした。

なぜ御所を移ることになったのかは諸説あってよくわかりませんが、源氏三代の間に多くの血が流れ、そのけがれを払うために新たな場所に御所を移したとするものや、単に大倉御所が政権の成長に伴って手狭になってしまったためとも言われています。


さて、宇都宮辻子御所跡にあるお稲荷様にお参りして、また来た道を戻っていきます。そして清川病院裏の十字路まで来たら、そこを右折(東へ)。

すると、材木座・大町・小町エリアと鎌倉の東で南北に通る「小町大路こまちおおじ」に出られます。そして、この小町大路を北上していきます。
(現在似たような名前の道で「小町通り」というのがありますが、それとは別の道です)

この小町大路というのも、鎌倉の六大路と呼ばれる基幹道路の一つで、鎌倉時代からあった道です。

そしてこの小町大路沿いにこちらの石碑があります。

鎌倉青年団の石碑、その13「土佐坊とさのぼう(房)昌俊しょうしゅん邸址」です。

この土佐房昌俊とさのぼうしょうしゅん文治ぶんじ1年(1185年)10月、京都にいる源義経をその館である(源氏)堀川館ほりかわやかた(六条堀川館とも。河内源氏累代の館)にて襲撃した人物として知られています。

この襲撃事件が頼朝と義経がのっぴきならない間柄になったことを決定づけ、義経が頼朝追討の院宣の発給を後白河法皇に願うきっかけになったとも言われています。

ホントはこの写真、もう少し離れて撮りたかったのですが、この日は交通量が多く、パッと撮らないといけなかったので、間近でしか撮れませんでした。(ま、ちかたないね・・・)


さぁ。次は今回の鎌倉散策でぜひとも行きたかった場所の一つです。石碑じゃないです、お寺です。

小町大路が横大路とぶつかり、六浦道むつらみち(金沢街道)が始まる地点にそのお寺があります。そう、鎌倉北条氏ゆかりの宝戒寺ほうかいじです。

宝戒寺に入ってすぐのところにこちらの石碑。
(ほら、やっぱ石碑じゃん・・・)
(いや、違いますよ!このあと建物出てきますから)

はい、きました!(何が?)
鎌倉青年団の石碑、その14「北條執権邸ほうじょうしっけんてい旧跡」です✨

あの北条の館ですよ!

事実上の鎌倉の主・鎌倉北条氏の邸宅跡で、往時は「小町亭こまちてい」と呼ばれた邸宅です。

石碑や『鎌倉史跡事典』などによれば、ここは鎌倉政権第2代執権・北条義時ほうじょうよしとき以後の執権がここに居を構えていたと言われております。

執権邸はこの小町亭の他に、「大倉亭おおくらてい」や「鎌倉亭かまくらてい」といった邸宅がありますが、どの館にしてもそれぞれ目と鼻の先の隣接地にあったと比定されているので、もうこの宝戒寺一帯が鎌倉北条氏の鎌倉での本拠地といって差し支えないです。

宝戒寺自体は、南北朝時代の文和ぶんな2年(1352年)に足利尊氏あしかがたかうじによって造営された寺で、北条一族の鎮魂のためのお寺といいます。よって、境内には最後の得宗である北条高時ほうじょうたかときを祀る社などがあります。

さぁ、参道を進んでみます。

すると、左手に拝観券販売の小屋が。そこには一人の僧体のおじさんがこっくりこっくり舟を漕いでいます(笑)

わたくしめ:あのぅ…すみません…。

おじさん:………。(無表情)

わたくしめ:あ。200円ですね…。(看板に書いてあった200円を置く)

おじさん:……。(拝観券を渡してくる)………本堂上がってご本尊にお参りいただけます。御朱印は本堂の中で受け付けてます。

わたくしめ:はい、ありがとうございます…。

ぬぉ、なんかすごいご機嫌斜めそうなんですけども…💦自分何かわるいことしたかなぁ~?起こしてしまったから?(笑)

ま、気を取り直して本堂行こう🎵

こっちのちょっと斜めから撮った方がいいかな?(どっちもどっち)

う~(´∀`*)良きではないかぁ。
さ、上がらせてもらお、もらおう。

本堂の中はもちろん撮影禁止なので、写真はありませんが、中に入ると良きお香の薫り漂ういい雰囲気。右手の一角にはお守りや御朱印受付の場所(寺務所)があり、正面にはご本尊の地蔵菩薩さまが。

何よりも畳の感触が足に心地よくて…。

わたくしめ、もうどのくらい歩いたのでしょうか。足は棒のようになりつつあって、ものすごく痛くなっていたので、畳の柔らかさがなんとも言えず、こんなに畳のありがたさを感じたことはないくらいでした(笑)

まずはご本尊の前に正座し、お線香を一本。そして・・・

なむ

普段、私は神社にせよ、お寺にせよ拝むときは何も念じず、ただただ手を合わせるだけで、神仏にはじめまして、とか、お久しぶりにございますくらいしか思わないようにしているんですが、この時ばかりはなぜか鎌倉北条氏の方々のことを思わずにはいられず、つい念じてしまい、ジッと地蔵菩薩の御尊顔を見つめてしまいました。

このあと、色んな方の供養塔に行くことになるのですが、思わず念じてしまったのはここだけです。今考えるとちょっと不思議です。

さ、お参りが済んだので、御朱印をいただきに寺務所へ・・・。
そこには袈裟をまとった僧体の方が(多分ご住職?)。

あれ?なんか…またご機嫌斜め?

お坊さん:……。

わたくしめ:御朱印を頂戴したいのですが…

お坊さん:300円です。所定のページを開いてお出しください。・・・ご本尊様の御朱印でいいですか。

わたくしめ:はい。(300円を払い、御朱印帳開いて提出)

お坊さん:…。(おもむろに墨をすり、書き始める)

わたくしめ:…。(前に正座して待つ)

お坊さん:ありがとうございました。(御朱印帳返却)

わたくしめ:ありがとうございました。(ぺこり)

今回は大丈夫でした(何が?笑)。
御朱印もかなり丁寧に書いてくださってありがたくうれしき限り。

良かった

本当はもう少し本堂の畳の上で休みたかったのですが、ずっといるのも悪いなぁと思って、境内を散策。

ちょっと逆光ぎみですみません。

こちらが先ほどもちらとお話しした鎌倉政権最後の得宗・北条高時をお祀りした「徳崇大権現堂とくそうだいごんげんどう」です。

社の扉の金の三ツ鱗みつうろこ(北条氏の家紋)が光ります。

これはあとになって知ったのですが、以前はこのお堂の中に北条高時を模した木像が安置されていましたが、関東大震災以後、現在まで本堂の中に安置されているんだそうです。

わたしゃ、てっきり中にいらっしゃるものと思って、覗いちまっただよ…。
本堂の像もう少しよく見てくればよかったな…。

ちなみに、鎌倉政権が滅亡した日、つまり高時が自刃した日である5月22日には、この宝戒寺で「大般若転読会だいはんにゃてんどくえ」という北条氏鎮魂のための仏事が毎年行われるようですよ。

こちらはなんとなく雰囲気が良かった宝戒寺の鐘楼。この横には元弘げんこう3年(1333年)の鎌倉の戦いにおいて戦死した北条氏、ならびに東勝寺とうしょうじで自刃した方々の精霊を供養するために建てられた宝篋印塔ほうきょういんとうがあります。

これらは別に歴史的にどうということはないようなんですが、この脇の木陰に石のベンチがあり、まったり~。

はぁ~

足を揉み揉み休ませていただきました。
(あ、もちろん休む前に宝篋印塔に拝礼させていただきましたよ)

どのくらいいたのかは定かではありませんが、20分くらいはいたんじゃないかな…。やっぱお寺とか神社境内のゆったりとした空間っていいですね。ほんと好きです。


さて、宝戒寺を出ます。
そして、例のおじさんのいる券売所の前を通ります。

わたくしめ:ありがとうございました~。

おじさん:お疲れさまでございました。お気をつけて!

わたくしめ:(ぺこり)

ぬぉおお!?
おじさん、めっちゃさっきと対応違うじゃないか!
たぶん無視されると思っただけに衝撃(笑)

でも先にお礼言っといてよかった。あのおじさんもご機嫌斜めじゃなかったことわかったし、ああ言ってもらえると気分も良きですし。


ということで、今回はここまでです。

次回からは【西御門にしみかど(鶴岡八幡宮周辺)エリア】になります。このエリアは鎌倉殿の最初の御所である大倉御所などがあるエリアです。いわば、鎌倉時代初期の政治の中心エリアでした。

では、最後に今回ルートを。
(これ、ご覧いただいた方のためというより、ほとんど自分がどの道を歩いたかという記録のためになんですけどね…。)

最後までお読みいただきありがとうございました。

⇒次記事


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