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「カレンダーとともに生きる必要があろうか」

 2018/8/31 後ろ向きなようで前向きなのかも知れない

 大事な予定の前日に大失敗をし、落ち込んだままそれを当日まで引きずってしまうというのは、日常的に起こりうることである。「大事な予定がある」という認識は緊張感を高め、人を過敏にするのであるから、なおさらである。

 カレンダーに自らの時間を支配されるのは、今でも、社会と僅かばかりのつながりがある証であり、それは、ある意味では大変に有り難いことなのかも知れない。時には煩わしく思うが。

 社会と絶縁して生きれば、カレンダーも時計も必要ないかも知れない。しかし、その繋がりを放棄する気がないのであれば、カレンダーを意識し、時計を着けて生き抜くしかない。

 それを選んだのは、他ならぬ私自身の自由意志である。

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 ところで、私は、調子が上がってくるまでに相当な時間を要する。時間、というより日数というべきかも知れない。これは、子どもの頃から変わらない。例えるなら、まるで「ズブい競走馬」のようである。スタート直後から後方をのんびり走り、騎手に強く促されて、ようやく勝負になる。

 しかし、私は気分屋が過ぎるようである。せっかく良好な手応えで最後の直線に向き直っても、些細なことで走る意欲を失くし、ゴール前で失速してしまうことが多々ある。自覚していても、簡単には直せない。性格は、一朝一夕で変わるものではない。

 そして、問題が起きたのが昨日のこと。その切っ掛けは実にくだらないため、ここで敢えて言及するようなものではないから割愛するが、その後、1日をふて寝して過ごし、相応の逸失利益を生じさせ、お財布事情に響く失敗にまで波及してしまった。

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 すっかりやる気を失った私は、8月最後の日、それもビールが美味しい金曜日に、自らその楽しい機会を返上した。いつだって予定のない金曜日は、カレーを食べ、そしてビールを飲んでいるのに。これは、心が淋しいものである。どことなく、体の中心が冷える感覚を覚える。冷たいビールを飲んだ訳でもないにもかかわらず。

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 私は考えた。今は、何をやっても駄目である。上手くいかないどころか、今手掛けたことは後々やり直しを要することになるでなろう。それは完全な二度手間である。こうなったら腹を括り、期日を最高の状態で迎えることを諦めて、態勢の立て直しに専念するしかないかもしれない。

 普段であれば、期日を万全な状態で迎えるために、今やるべきことを逆算し、戦略を策定する。しかし、今回ばかりはもはやどうしようもない。そうなれば、仮に最善を尽くした結果が6割の仕上がりでも、そこに勝機を見出す他ない。せめて、再びリズムを崩すことがないように。

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 もともと、図らずもやるべきことが山積みになってしまったこのタイミングで、noteに日記を書くつもりはなかった。しかし、失敗は言葉にし、記録することで次に繋がるように感じている。しかも、8月最終日、一つの節目の日である。更に言えば、平成最後の8月である。何か、記録に残したい衝動に駆られた面もある。

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 昨夜、どうしようもない気分に溺れ、深夜の夜空に向かって誰にともなくiPhoneのフラッシュライトでメッセージを送った。宇宙人にでも届いたであろうか。心の奥底では、この社会との脆弱な繋がりを言葉にすることで、自ら奮い立ちたかったのかも知れない。

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 笑って秋を迎えられるように、今はできる限りのことをしよう。
 8月最後の日に願いを込めて!

ここまでご覧頂いただきまして誠にありがとうございます。 大事なお時間に少々の笑顔をお届けできれば幸いです。