言葉に頼るのは、もうやめよう
言葉というものに頼りすぎて、相手とのコミュニケーションを見失っていないか
「好きだよ」
例えば、その言葉の裏には何があるのか。
私はそのままで良いのだという肯定?ずっと一緒にいてほしいという欲求?ただの感情表現?味方だという自己防衛?はたまた理解してほしいというSOSかもしれないし、言葉とは裏腹にこれっぽっちも思っていない大嘘かもしれない。
好きだよという言葉はそれ以上にもそれ以下にもなってはくれない。けれども私のことを好きだと言った事実はそこに存在して、いる。
相手がその言葉を発した意図はどこにあるんだろう。なにを思ってそれを伝えてくれたんだろう。
話上手が得をして、言葉の力を磨かなくては、という固定概念が少し歪んだ。言葉というものが達者になればなるほど、相手に伝わり易くなる可能性を見た。
言葉が話せないという、メリット
赤ちゃんが大泣きしていた。
可愛いなあと呑気に思いつつ、「どうしてこの子は泣いているんだろう」そんなことを思った。
表情でしか伝える手段を持たないこの子はきっと今とても必死だし、それに私も答えてあげなくはいけないのだと、なんだか壮大に考えてしまった私がいる。
「どうしたの?」なんて返答が来ないことが解っている言葉を投げかけながら、抱っこをして向き合ってみれば、視線と顔の向きがお母さんの方を向いることに気付く。
ああそっか、お母さんと離れていることが悲しいのか。
側まで行くとピタリと泣き止んで、お母さんへパスすると魔法のように笑顔になる。
「嘘泣きしていたの」なんて、また、可愛いなと思いつつ、その体験から、私は最近こんなにちゃんと人と向き合っていただろうかと反省してしまった。
元気が無い人も「大丈夫?」と投げかけて「大丈夫」と返されれば、もうそれで色々なことが解決されたかのように場が、成立する。
自分が本当にその人のことを心配しているならば、「大丈夫?」なんて言葉は必要無いのかもしれない。言葉にしてしまうから、相手が言葉に引っ張られていろんな本音が見えにくくなっている(かもしれない)。
日々、コミュニケーションというものは、言葉を話せるからこそ、その言葉から必死に何かを拾おうとしている。
同時に、それを知ること「言葉にしなくちゃ何も伝わらない」という意味も理解し始めたかもしれない。
だって、大人が目の前で大泣きしていても、何も解らないじゃないか。
人に伝える時はちゃんと伝わるように、届くように言葉という記号に変換する必要がある。
しかし、お互いが、誰かと話をしている時に「本当に言いたいことってなんだろう」とその人すらも気付いていない部分とすら向き合えたら、もっと本質的なコミュニケーションになるのでは無いかと思った。
自分が自分を認知するのが難しいように、きっと相手だって自分自身の見えていない部分が絶対にある。
全部なんて解らない。でも、理解しようという姿勢と感情を持って会話をすることは出来る。
自分は自分という1人の人間の感情しか読み取れない、他人は客観視出来る、という特徴をを活かして、言葉に頼るのは、もうやめよう。
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